もっと愛するか蔑むかどちらかにしてくれ

 堀を見つければ橋になれと命令し、背中が痒いと思えば掻けと言い、靴磨きをさせ、万引きを唆す。抵抗もできずかってに傷ついていく承太郎を前にダンは非常に愉快であった。なにをしようとジョセフが人質になっている以上、安全だと自覚しているからだ。
 承太郎に背中を掻かせている最中にダンは自身のスタンドの変化を感じ取った。ハイエロファントグリーンとシルバーチャリオッツが小さくなってジョセフの体内に侵入し、ラバーズのいる脳幹に現れようとしているのを感知したのである。だが心配することはない。ラバーズは肉の芽を持ってジョセフの脳幹に侵入している上に迎撃の準備はできている。
 承太郎が万引きをさせられた店は千里が倒れている場所から非常に近いところにあった。あちらこちらを巡りに巡って戻ってきてしまったようだ。店に入る直前、満身創痍の彼女を抱え起こす地元の女性を見た。どうやら未だ意識はないようだ。何人かがこちらを指差してひそひそと囁き合っている。
 万引きが未遂に終わり、店員たちに袋叩きにされて路上に投げ出された承太郎を見下しながらダンは嘲笑するが、不意に聞こえた笑い声に笑みを消した。屈辱的な扱いを受けているだろう承太郎が笑い声を零していたのである。

「承太郎ッ! きさまなにを笑っているッ。なにがおかしいッ!」
「いや……楽しみの笑いさ。これですごーく楽しみが倍増したってワクワクした笑いさ。テメーへのお仕置きターイムやってくる楽しみがな」

 それを減らず口と受け取ったダンは激高し、承太郎の背中を踏みつけた。だが承太郎は黙らない。彼がそれまで黙ってダンの命令に従っていたのはジョセフの命がかかっていたからであるが、同時に仲間がチャンスをもたらすその時を待っていたのである。仲間がこの状況をひっくり返す瞬間を待っていたのだ。彼は仲間を信じている。花京院に対しては年が近いためか友人のような気安さと信頼を持っている。ジョセフとポルナレフ二人だけならば若干の不安を抱くこともあろうが、そこに花京院がいるのだから心配はなく、ゆえに敗北など端から考えていない。
 ダンの眉間から血が吹き出したことで彼は窮地を脱したのだと知る。それよりも具体的になにが起こったのかはダンがよく理解していた。額からの出血は自身のスタンドがエメラルドスプラッシュを受けたためだ。大した攻撃力を持っていないスタンドは一度勝機を逃すと勝ち目がない。ラバーズをジョセフの脳内から呼び戻しながらダンは後ずさって承太郎から距離を取る。ラバーズが敵の脳幹に入り込んでいなければなにもできないが、ラバーズが戻ってくるまでの時間稼ぎ程度はできた。それまでの態度を一変させたダンが承太郎の前で膝をつく。靴を舐めることさえ厭わないのはひとえにラバーズを待っているからだ。承太郎の脳内に侵入させれば、承太郎はなにもできない。目の前で承太郎が苦しむ姿を見て楽しむことだけを考えながらタイミングを待つ。
 しかしその目論みもあっさりと敗れ去ってしまったのは、ダンがスタープラチナの精密性を知らなかったためである。超至近距離からの弾丸を掴み取れるスタープラチナが耳から侵入しようとするラバーズを捕獲することなど容易いことだ。そして人差し指を親指を軽くこすり合わせれば簡単にラバーズはダメージを受け、それはすべてダンにフィードバックされる。ダンの全身から嫌な音がした。大の男が泣きわめく姿ほど無様なものはない。

「み……見てくださいッ! 今ので腕と足が折れましたッ! もう再起不能ですッ、動けません!!」

 承太郎はそれを冷ややかに一瞥する。彼の中ですでに戦闘は終了していた。先ほどスタープラチナがラバーズを捕捉したときに緑色の触脚が絡み付いていることも見えていた。さすがと言うべきか、花京院もただではラバーズを逃さなかったらしい。次に誰かの脳内に入ろうとも動きを制限している上、引きずり出すこともできる。
 勝敗は決していたが念押しのためにともう一度スタープラチナの指先に力を込めようとしたとき、不意に承太郎の隣に人影が現れる。そちらを見れば無表情の千里がいた。意識を取り戻したらしい彼女の姿は汚ならしく無惨なもので、少し離れたところから先ほど彼女を抱え起こしていた女性が心配そうにこちらを見ている。手当のためかマフラーは取られており、首筋の傷痕が視界に入る。立てるはずがないだろうにそれでも二本の足でしっかりと体を支えているのは気力を絞り出しているに違いない。だがまとう雰囲気が少々おかしい。

「千里?」

 訝しむ承太郎を尻目に、彼女の右手にプラネット・スマッシャーズが発現される。彼はそれに違和感を覚えた。S&W M19を左腰に下げているように、彼女は左利きだ。いつもスタンドも左手に発現させている。しかし程なくして承太郎は彼女の左の掌が灰皿代わりにされたことを思い出した。ゆっくりとした動作で銃口がダンに向けられたと同時に響く銃声。悲鳴が一つ。ふらついた体を承太郎が支えたと同時にダンの左腕から血が噴き出した。
 驚いた承太郎が思わずスタープラチナから意識をそらしてしまったために、指先からラバーズが逃げ出した。そして次の標的は承太郎に支えられている千里だ。この至近距離ならばスタープラチナに捕まる前に脳内に侵入することができる。脳幹にさえ到達してしまえば勝敗の流れは一気に変わる。そしてそれはすぐに叶った。ただの人間の千里がラバーズを捕捉することなどできないからだ。

「どうする承太郎! おれのラバーズが千里の中に入ったぜ!」

 満身創痍になってなお、勝利を確信したらしいダンが承太郎に向かって叫ぶ。事実ラバーズは千里の脳内に到達し、彼女にダメージをフィードバックさせる準備ができていた。ダンの言葉の意味など考えずともわかる。承太郎は動きを止めた。しかし千里は止まらない。承太郎に支えられながらゆっくりと躊躇いなく照準を合わせる。彼女の視点から見れば人質などどこにもいない。いるのは一人の敵だけだ。

「お、おまえ……まさか……ッ!」

 千里の意図に気付いたダンは青ざめたが、ラバーズを脱出させるには遅すぎた。さらにはそこでようやく自身が動けないことにも気が付く。ラバーズの足に結びつけられていたハイエロファントグリーンの触脚がラバーズの体に絡み付いていたのである。だがそれでも最後の悪足掻きと言わんばかりに神経に取り付いた。これでダメージを受けるのはダンと千里の二人だ。
 黙れと言わんばかりに二発目の銃弾が彼の体に沈み込む。激痛と衝撃で呻き、倒れかける千里を承太郎の腕が抱きとめた。右手からプラネット・スマッシャーズが滑り落ち、消える。ダンが信じられないものを見るような目を向ける。見開かれた目は動揺と怯えが入り混じっていた。千里の脳内で神経に取り付くことには成功したのだが、ハイエロファントグリーンの触脚のせいで動けないダンは銃弾を受けるしかない。そしてそれを承知の上なのか、承太郎に支えられながらも千里は発砲をやめない。承太郎の拳よりも酷い痛みを享受する。

「こ、これ以上はおれより先にオメーが死ぬぜッ!」

 その程度で怯む少女であればおそらく彼女はこの場にいない。承太郎に支えられなければ立ってもいられないくせに、どれだけダメージを受けようとも激痛を享受しようとも、猛禽類のように獲物から意識をそらそうとしない。獣のような瞳が前髪の間からダンを射抜く。びくりと彼は体を大きく震わせた。獣はその隙を見逃さない。
 決して急所を狙うことなく、しかし確実に一発一発嬲るように確実に撃ち込んでいく。しかしそれでもダンの受ける何倍もの激痛をその身に受け、意識を失わずとも呻き声を上げずにはいられないほどのダメージを千里は受けている。乱れる呼吸を無理矢理押さえ込んでいるためか、不自然な呼吸音が承太郎の耳に届いた。だがそれも当然のことであり、仕方のないことでもある。もともとジョセフを守るためとはいえ、千里はダンや承太郎から一方的な暴力を一身に受けていたのだからすでに満身創痍に近い。そこに追い討ちをかけるように間接的ながらも自らの手で自身の全身に激痛を撃ち込んでいるのだ。呻き声程度に留めていること以上に意識を失わない方がおかしい。
 まるで拷問のようだと承太郎は思う。絶対に殺しはしないが、苦痛はしっかりと刻み込む。生かさず殺さず、じわじわと嬲り、出血を促すことによって徐々に殺していく。感覚だけを共有する千里がダンをいくら撃ち抜こうとも、実際に彼女が怪我をして血を流すわけではない。何倍もの激痛を甘んじて受ける必要はあるが、意識さえ失わなければそれでいい。怪我を負うわけではないのだから致命傷には至らない。ショック死の可能性があるだろうに、彼女は死を厭わないようだ。そんなことよりも目の前の敵を優先する。
 ぶちり。千里の頭の中で不自然な音が響いた。同時に視界が狭まる。目を開いているはずなのに一部が削り取られてしまったかのように真っ暗だ。ゆっくり瞬きをしても変わらない。

「ヒハハハハハッ! 左目の視神経を切ってやったぜッ!」

 ようやく逆転の糸口を見出したダンが地面に転がりながらも高らかに笑い声を上げる。ダンが痛みにのたうち回っている間にハイエロファントグリーンの拘束が緩んでしまったようだ。その一瞬の隙をついてラバーズは千里の視神経束を切断した。
 千里の視力が奪われたのだと気付いた承太郎がスタープラチナを発現させたが、それよりも早くプラネット・スマッシャーズがダンの右耳を撃ち抜いた。続けて三発、左耳と手の甲と足の甲にそれぞれ撃ち込まれる。悲鳴が上がる。構うことなく彼女はゆっくりとシリンダーを振り出して薬莢を捨て、六発の銃弾を込めた。いつもは新しく発現させる方が早いと言っていたにもかかわらず、だ。そして再びダンに銃口を向ける。彼女のスタンドは単純で特殊な能力はなにもない。しかし使い方はよく理解していた。銃は殺戮にも拷問にも十二分に使える。

「ま……まてっ! 次は右目の見えなくしてやるぜ! それがいやなら……」
「さえずるな」

 いつもよりも低く冷たい。感情という感情をすべて排除した声色は機械音声よりも無機質で抑揚がない。千里はどこまでも冷静だ。それが異常だと承太郎は思う。大の男がのたうち回るほどの痛みを受けても彼女は戦意を失わない。千里はとにかく自身のことに興味を持たない。最優先させるのは常に目の前の敵である。そして受けた屈辱は決して忘れない。静かに激昂するタイプなのだ。怒り狂わずともその焔は激しく燃え上がっている。ビターブラウンの下の瞳孔が大きく開いていることを承太郎だけが知らない。ダンがどれだけ怯えようとも、獲物を前にした獣は決して寛容な心を持たない。

「千里」

 これ以上は千里の体に障ると判断した承太郎は彼女の体を支える腕に優しく力を込める。だが千里は反応せず、灰色の視線はダンから離れない。度重なる激痛で過敏になっているだろう神経を刺激しないように注意しながら、片手で冷たい鉄の瞳を覆い隠した。

「もういい。やめとけ」

 あとはおれにやらせろ。できるだけ優しく、言い聞かせるように呟く。そうしてようやく糸が切れたように崩れ落ちる千里を片腕で抱きとめた。意識を失った人間は重い。目に見える怪我は承太郎から受けたものばかりだ。それがまた彼の気分を複雑なものにした。なにを考えているのかまったくわからない。ジョセフのために仲間からの暴力を甘んじて受けるような性格だっただろうか。それ以前に彼女が仲間意識なんてものを持っていたことが驚きだ。そこそこの協調性は持ち合わせつつも、その程度だとばかり認識していた。
 それよりもまずは、と承太郎は意識を向ける先を変える。満身創痍の千里は心配だが、重傷のダンにかける情けはない。許すことも見逃すこともしてやるほどに承太郎は優しくない。それは彼がエンヤ婆を殺した時点で決定していた。やるべきことはただ一つだ。