真夏の夜の夢

 頭や手足に包帯を巻き、左目に眼帯をした千里の姿は誰の目にも痛々しく映る。だが本人は相変わらずの無表情で手足の拘束が煩わしいとも思っていないようであった。怪我など気にするほどのことではないらしい。
 幸いにも骨折はしていなかった。だが距離感が掴めないのか、物を取ろうとして空振ったり、左の死角が広がったために左側でぶつかりかけることが多くなった。医者が言うには慣れの問題らしいが、今暫く時間がかかるだろうことは誰の目から見ても明らかであった。
 千里の怪我が入院するほどのことでもなく、また花京院以外の者たち皆がそれなりに怪我を負っていることもあり、その日はカラチで一泊することになった。明日の出発は一同の様子を見つつ決めればいいと、ジョセフがまとめる。
 念のため、とジョセフが検査を受けている間、ポルナレフと花京院は一行の荷物を持ってホテルに先行した。花京院がなにか言いたげに承太郎と千里のほうをチラチラと見ていたが、結局タイミングを掴むことができずに後ろ髪を引かれるようにしてポルナレフとホテルへ向かった。
 残る二人はジョセフの検査が終わるまで病院のロビーの長椅子に座って待つ。承太郎の隣で新たな衣服に身を包んだ千里が座った。ジョセフが気を利かせて長袖のカッターシャツと黒のカラータイツを用意したのである。タイツは履いたところでガーゼが邪魔して歪な足の形を露呈させるが、長袖のカッターシャツは腕の怪我を隠すのに一役買っていた。冬みたいな格好だな。慰めのつもりか、ポルナレフが軽口を叩いていた。マフラーだけは花京院がホテルのランドリーサービスに出すために持っていってしまっていたため、今はつけていない。
 彼らの性格が相まって、言葉数も少ない。人々の立てる雑音の中で沈黙ばかりが続いている。

「悪かった」

 なんのきっかけもなく、承太郎が呟いた。互いの視線はまっすぐ前を見据えたままだ。わずかに時間を置いてから千里が応える。

「お互い様だ。わたしこそ、世話をかけた」

 そんなことを言えるほど千里が殊勝だとは思っていなかった承太郎はわずかに瞠目した。だがよくよく考えてみれば彼女はときおり律儀な面を見せることがある。つまりその程度の常識と良識は持ち合わせているということだ。
 あのとき千里は意識らしい意識を保っていなかった。それは目覚めた彼女自身が言っていたことだ。意識を回復してただ一言「なにがあった」それだけである。だが彼女の状態を説明するにはこれ以上の言葉もない。また千里の怪我の詳しい状況は承太郎とジョセフしか知らない。医者から聞いたのが彼ら二人だけだったというだけであるが。孫と祖父の間にだけで交わされた情報はホテルに入ってからポルナレフや花京院と共有する予定である。もちろんその項目に彼女の左目も含まれている。
 あのとき、千里は目の前の敵を倒すことだけを糧として、気力だけで立ち上がり、あのような暴挙に出ていたのだと気付いてから、承太郎の全身を鳥肌が襲った。平時は理性がそれを押さえつけているからいい。だがあれが千里の本能である。たがが外れれば彼女はどこまでも敵を追い詰める。手足がもがれようとも敵の喉元に食らいつくまで決して諦めないだろう。敵に対して野良犬のような獰猛さと貪欲さを併せ持った獣。首輪なんてかわいいものでは押さえつけることはできない。
 ならば今は猫を被っているのかと承太郎は思ったが、すぐに考えを改める。眠れる獅子、なんて大袈裟な表現は似合わない。ただ常に目を光らせて虎視眈々と敵が現れるのを待っているのだろう。そもそも千里に容赦の二文字は似合わない。

「ジジイがSPW財団に言えば義眼を用意できると言っているが」

 視神経は眼球の奥にある。ゆえに手術でつなぐことはできない。また自然に繋がるものでもない。つまり、千里の左目は永遠に光を失った。頼れるのはSPW財団の医学と科学と技術力だ。ジョセフの義手を見る限り財団の技術力は相当なものであると言える。彼らの技術力があれば視力を取り戻すのも容易いに違いない。だが通常の義眼の用途とされる眼窩や眼瞼の形状を正常な状態に保つためとはまた違う。視力を取り戻すための義眼をはめ込むためには、現在千里の左目に収まっている眼球を取り出し、義眼を神経に接続する手術が必要となる。

「すぐに用意できるものでもない。それに馴染むまでに時間がかかる。必要ない」

 視力を取り戻す可能性を千里はにべもなく断った。彼女に医学の知識はなかったが、それでもそれが容易なものではないことは理解していた。視力が戻ることに魅力を感じなかったわけではない。隻眼に慣れるまで日常生活はおろか敵との戦闘にも不便が生じることは明白だ。だがそのような悠長な時間など千里にはない。一旦立ち止まるほど、無駄に時間を消費するつもりはなかった。
 それ以上この話題を続けたところで千里が考えを改めるわけがないことも、生産性がないことも充分に理解していた承太郎は話の矛先を代えることにした。ジョセフと話していた話題である。こんなときでなければゆっくり千里と話すこともできないだろうし、人数が多ければ多いほど彼女はもの言わぬ貝のように口を噤む。
 答えを得られないのならばそれでいい。ふと思い付いた疑問を頭の中で反芻しながら、駄目元で承太郎は口を開いた。

「クオレマってのはなんだ」

 その話題を千里が嫌悪していると承太郎は理解していたが気にならないと言えば嘘になる。それが彼女の呼び名か二つ名か、その類のものであることくらいは彼も予測している。横目に千里の様子を窺えば、わずかに嫌悪にも似た色を浮かべた横顔を見ることができた。表情を露にするなど珍しい。これは答えを期待できないかと承太郎は思ったが、しばらく時間を置いたのち、酷く嫌そうに彼女は呟いた。

「――あの男につけられた名だ」

 その話題に触れるとき、千里が無意識に首筋の傷に触ってしまうのは癖のようなものだ。千里の言うあの男がDIOを指していると彼らの中では共通の認識となっている。ゆえに承太郎は千里にその名をつけたのがDIOであると理解するのは容易であり、またどれだけ彼女がDIOを嫌悪しているかもよく伝わった。
 DIOという男がどのような性格の人間か承太郎はまったく知らないが、なんの意図を持って千里に名前を与えたのかは少々気になるところである。ただの気まぐれとも考えられるし、ペットに名付ける程度の認識だったのかもしれない。
 それよりも純粋な疑問を承太郎は抱いた。

「素直に答えるじゃあねえか」
「――世話をかけた、借りがある」
「律儀だな」

 ふいと千里が視線を外す。長椅子が小さく軋んで悲鳴を上げた。彼女のそれを気まぐれと取るべきか、心境の変化と認識すべきか承太郎は迷ったが、そんなことをはっきりさせたところでなんの意味もない。返答を得た事実だけは確かなのだから、それはそれでそういうことなのだと片付ける。
 いつもならここで言葉が途切れてしまうのだろうが、今日は珍しく話が続く。

「そんなにDIOが憎いか」
「誇りを取り戻すためだ。あの男は必ず殺す」

 圧倒的な力を前にして千里はDIOに負けた。だが殺されなかった。捕虜でもない。肉の芽を植え付けられて下僕にされた。不要となればいつでも処分できる使い捨ての兵士だった。
 あの頃の彼女は洗脳されていたとはいえDIOを絶対的な唯一無二の君主と思っていたし、自身を救ってくれる救世主だと信じていた。新たな名前と新たな人生を与えてくれたDIOを崇拝していた。愚かなことに、これでようやく自分に相応しい世界が始まると信じてしまっていた。
 千里のスタンドだってDIOが名付けた。それまでスタンド使いに出会ったことのなかった千里はそれを誰にも見えない銃としか認識していなかったが、DIOは彼女にスタンドの知識を与え、スタンドに個性を与えた。承太郎たちはそれをプラネット・スマッシャーズだと認識しているのは一番初め、ダークブルームーン戦で敵がそう呼んだからに過ぎない。千里は肉の芽を抜かれてから一度だってそれをプラネット・スマッシャーズなどと呼んだことはなかった。
 DIOを倒してようやくこの曲がった道のりがまっすぐに戻ると千里は信じている。親に捨てられてから得た、数年間のささやかで穏やかな生活に戻るのだ。そのためにはなんとしてでもDIOを倒す必要があった。彼女は二度とDIOになど屈しはしない。屈したままでいるわけにはいかないのだ。

「――誇り、か」

 承太郎は小さく呟いた。花京院がここにいれば殺すなどという言葉を使った千里をたしなめたことだろう。承太郎は千里について細かな事情をなにも知らない。それは千里が自身についてなにも語らないためだ。だが仮に彼女がすべてを語ったところでそう大差はないだろう。理解を千里は求めていない。承太郎も理解したいとは思っていない。野良犬を御すことが一番に必要だと考えている。