千里はベッドで横になっていた。いくら彼女でも今の自分に必要なものが休息であることくらいは理解している。どうせ他の者たちは隣室で今後の方針について話し合っているのだから、他人を気にすることなく休めるのは今しかない。同時にこの後自身に降りかかるだろう煩わしいことを考えては面倒だと思うのである。
一瞬深い眠りに陥り、瞬時に意識が浮かび上がる。それを数回繰り返したのち、彼女の意識は浮かび上がったまま頭の中が冴えていく。部屋に人が入ってきたのである。足音から花京院だと判断した。彼らの足音はだいたい把握している。聞き分けられるようになるほどの時間を共有しているのだと気付き、わずかな嫌悪を覚えた。どうも最近ほだされているような気がしてならない。
静かにドアが開き、閉められる。そして隣のベッドになにかが沈み込む音。千里はドア側に背を向けているから目を開けたところで花京院の顔は見ずにすむ。煩わしいことが始まった。彼女は思う。この旅では煩わしいことばかりだ。
腰のホルスターは荷物と共に部屋の隅に投げられている。銃は花京院に預けたままだ。彼は素直に銃を返してくれるだろうか。これまでの経緯からすんなり返してはくれないだろうと千里は思う。寝たふりをする必要性はまったく感じられなかったが花京院と会話を交わすことに煩わしさを感じていたため、彼女は起き上がろうともしない。一番奥のベッドで花京院に背を向けている。だが花京院は千里が起きていると知っている。これまで人前で深く眠ることなど決してなかったからだ。彼女は人前で気を抜かない。もっと心を許してもいいのにと思う反面、他人がいようとベッドから出ようとしないほどに自分のことを受け入れてくれていると少しだけ嬉しくなった。これまで千里がベッドに横になっているところを見たことがなかったからである。仲間だろうと気安く接しようとしない千里は常に他人との境界線を明確にしていた。
「食欲はあるかい。もうすぐ夕食の時間だよ」
声をかけられたところで微動だにしない。千里の返答は明白である。花京院に背を向けているために見えるのは後頭部ばかりだ。間近にいるのに酷く遠いように思える。ベッドサイドの小机には眼帯とリボンタイが無造作に置かれていた。見慣れた緋色と見慣れない白色。マフラーは明日の朝クリーニングから戻る予定だ。
「承太郎、落ち込んでいたよ。きみを傷付けたこと、相当自分を責めているようだ」
気にするほどのことではないのに律儀な男だ。承太郎も、花京院も。他人の心配をする前に自身の心配をすればいいものを、自分自身を疎かにして他人に心を砕く。背中に花京院の視線を感じながら千里は目を開いた。承太郎から受けた暴行は許す許さないの次元ではない。そう千里は思っている。ジョセフを守るための必要経費だったのだから仕方のないことだ。時間が経てば怪我は治る。しかし死ねばそれまでだ。左目の光は失ったが、大したハンデではない。誰もが無傷でDIOに辿り着くとは思っていなかった。
だがわざわざそれを言ってやるほど彼女も世話焼きではない。さっさと夕食に行ってしまえばいいものを。内心吐き捨てる。しかし千里は気が付いていない。以前の、まだ彼らと出会ったころの彼女ならばこのように他人について考えることなどなかったはずだ。
「……言いたいことはたくさんある。けれど我慢しているんだ。きっときみは聞き入れてくれないだろうから。−−ただ、これだけは言わせてくれ」
花京院は膝の上で手を組む。今すぐにでも爆発してしまいそうな感情を必死に抑えつけ、小さく息を吸い込んだ。それまで冷静を努めようとしてたのだが、彼女の態度にそれが難しくなりそうだった。彼は千里の代弁者になりえるかもしれない。だがそれゆえに同時に彼女の欠点や短所を誰よりも先に気が付くことができた。それまで思考が冴え渡っていたために普段では見えない部分が次々と目につく。
「きみは実に自分勝手だ」
寝たふりをした千里の前だったなら花京院はなんでも言える。あの瞳で心の奥底を見透かされることも反論されることもないからだ。卑怯だと思わないわけではない。だが彼女と向かい合っていない分だけ冷静でいられる。
寸分の反応すら示さない千里が寝ているとは思わない。間近にあるビターチョコレートの髪。頭を撫でたらどんな反応をするのだろうかと遥か遠くで考える。最近千里は人間臭くなったように思える。ならば驚いたり顔を顰めてみせてくれるかもしれない。だから周囲との接し方も考えてほしいとも花京院は思った。もっと人と向き合うことができれば承太郎もあれほど罪悪感に苛まれることもなかったのかもしれない。
「ぼくだって後悔しているんだ。敵スタンドをもっとしっかり縛り上げておけば、きみが無駄に傷付くことも片目の視力を失うこともなかったのだから」
なにも罪悪感を抱いているのは承太郎だけではない。千里が肌身離さず持っていたS&W M19を預けられて信用されているのだと喜んだのも一瞬のことで、結局ジョセフは救えても千里を犠牲にしてしまった。信用されていてもそれに報いることができなかったと花京院は悔やむ。すべてが後の祭りであるが。
それなのに千里だけが他人のふりを貫いている。当事者になろうとも無関心だと無責任にも傍観者に徹することに花京院は気が付いた。周囲がどれだけ一喜一憂しようともどこ吹く風と彼女は知らんふりをするのだから、承太郎や花京院の後悔が報われない。
「それなのにきみは無責任だ。自分が気にしていないのだから、なんて思わない方がいい。きみはもう一人じゃあないんだ」
声の余韻はすぐに消えた。花京院は息を吐き、膝の上で組んだ手を額に当てる。言いたいことを言い切った達成感と言い過ぎただろうかと心配する気持ちがちょうど半分ずつ同居する。未だ感情は高ぶったままだ。花京院もまた千里が絡むと冷静でいられなることに気が付いていない。
「どいつもこいつもやかましい」
地を這うようなアルトが響く。驚き花京院が顔を上げると、それまで微動だにしなかった千里がちょうど起き上がるところだった。ゆっくりと花京院へと振り返り、前髪を掻き上げる。ダークブラウンの隙間から覗く瞳はとても鋭く花京院を睨みつけるが、それも片方の瞳からだ。左目の瞳孔は開ききっていてなんの感情も孕めていない。だが、いらついているのだとすぐにわかった。最近の千里は感情が豊かになりつつある。ただし負の感情に限るが。
「過干渉という言葉を知っているか。他人は他人だ、不要な感情移入をするな」
「あいにく千里は他人じゃあない。それにこうでもしないときみは話を聞かないだろう?」
「−−やはり同行すべきではなかった。馴れ合いたいのならば他を当たれ」
千里は後悔している。目的が同じことが共に旅をする理由にはならないため、一人でエジプトに向かっても差し支えなかった。それでも共に行動すると決めたのはDIOに関する有益な情報を得られるかもしれないと考えたからだ。問題が起きたらすぐに離脱する予定だったのだが、ジョセフの背後にいるSPW財団の力を知ってからその考えを改めた。DIOを殺せるならば使えるものはなんでも使うつもりであったため、SPW財団という存在は千里にとって有益なものだった。だが一人旅でないと必然的に生じる人間関係は彼女にとって煩わしいもの以外の何物でもない。最低限の接触だけて干渉してこない関係が望ましかったが、どうやら彼らは違うと気付いてから久しい。切羽詰まっているはずだが彼らはどこか物見遊山の風を見せる。そして千里との関わりを欲し、あまつさえ不躾にも内側まで踏み込んでこようとする。放っておくことができないのか。彼女は思う。優先順位を間違えているとしか思えず、やはり煩わしいものでしかない。