ポルナレフと花京院と千里というその三人部屋に夕食から彼らが戻っても、未だ千里の姿はベッドの上にあった。部屋を出る前から寸分の変化もなく、寝返りを打った様子もない。出掛けに花京院が毛布をかけてやったのだが、それもそのままで新たな皺一つ見当たらない。花京院とポルナレフが部屋に戻ってきたと言うのに目覚めるどころか反応すら示さない。試しにポルナレフが千里のベッドに近づいてみるも、やはり彼女からの反応はない。まさに死んでいるかのように眠っている、ようだ。彼女のトランクはそのままの場所に置かれており、ベッドサイドにも緋色のリボンタイと眼帯が変わらずにある。やっぱりきみは自分勝手だ。花京院の呟きはポルナレフの耳には届かない。
「やっぱり千里も人の子だった、ってか」
からかうようにポルナレフが言ってみたところでやはり起きる気配もなく、朝までこのままではないかと思ってしまうほどに疲労が蓄積されていたのだろう。花京院はこれまで音を上げるどころかそのようなそぶりも見せなかった千里を思い出す。忘れたわけではないが彼女とて女性なのである。基礎体力からして男に劣るのだから、男と同列に考えるには無理がある。だが千里は女として扱われることを嫌がるだろう。男として扱われたいとは思っていないだろうが特別扱いは望んでいないはずだ。女としての限界は理解していながらもそれを逆手に取ろうとも利用しようとも思っていない。皆が知っていることである。
「おい見てみろよ。寝顔まで無表情だぜ」
回り込んで千里の顔を覗き込んだポルナレフが指を差して言う。寝ているときほど無防備な状態はないのだから寝顔くらいはいつもと違うだろうと期待したのだが、あいにくポルナレフの予想を裏切って瞳を閉じた能面顏がそこにはあった。なにが楽しいのかと花京院は思ったが、他人に寝顔をさらす彼女は珍しいと気が付いた。同時に心配になる。本当に千里は寝ているだけなのか、実は違うのではないかと勘繰ってしまう。だが確かに千里は寝ているだけのようであった。花京院が近付いたところで微動だにしなかったからだ。
「丁度いい。顔に落書きしてやろうぜ」
「明日生きていられるんなら、いいんじゃあないか」
「−−ちぇっ。つれねぇなあ」
つまらなそうにポルナレフは鼻を鳴らす。そして千里への興味を失ったのか、花京院に背を向けて自身のベッドに寝転がった。入り口から見て一番手前のベッド。自動的に花京院は真ん中のベッドと決まる。諦めて花京院もポルナレフと千里に挟まれたベッドに腰を下ろした。気まぐれでハイエロファントグリーンを発現させ、その触脚に指を絡める。
それから二人は他愛のない会話をし、眠りについた。そして朝が訪れ、朝食の時間になろうとも千里が起きる様子もなく、夕食も抜いたのだからと花京院は彼女を起こそうとしたのだが、よっぽど疲労が溜まっていたのだろうとポルナレフがそれを止めた。出発に間に合えばいいのである。後ろ髪を引かれるように花京院は部屋を出る。果たして千里はちゃんと起きるのだろうかと、らしくもない心配事のせいで取ったか取ってないかわからないような朝食を終え、ポルナレフやジョセフに笑われながら一人先に部屋に戻る。
ドアを開け、まず目に入ったのは生乾きの髪をそのままにベッドに腰かけタイツを履く千里の姿だった。部屋に誰かが入ってこようともその横顔の表情は変わらず、黙々とタイツに足を通す。似たようなことは以前にもあり、そのときとは違ってスカートとカッターシャツはすでに着てはいたが、それでも花京院は戸惑う。起きてからシャワーを浴びるのはなんの変哲もない行為だ。
「す、すまない……っ!」
謝罪の言葉もそこそこに顔を背けた花京院の視界にドアが開けっ放しにされているバスルームが映った。まだ湯気の余韻を残すそこには無造作に包帯が散らばっている。シャワーを浴びる際にほどいてそのままにしたのだろうと先ほど視界に入った出来事を頭から追い出すように考える。そしてその白い包帯とともになにか短く細いものが大量に落ちていることに気が付き、目を凝らす。見慣れたダークブラウンのそれがなんだったかと思い出そうと記憶の引き出しを漁る花京院の思考は紆余曲折しながらも確実にその答えへとたどり着いた。まさかと呟いた彼は慌てて千里へと目を戻す。タイツを履き終えた彼女は濡れたままの髪をタオルで包んでいるところだった。そして花京院の視線に気付くと鬱陶しそうに一瞬だけ目を合わせ、すぐにそらした。
出会ってから二週間、元々肩に触れるか触れないか程度だった千里の髪の毛は短くなっていた。一瞬だけ見えた正面からの様子では、前髪の分け目も変えようとしているのか、左目を隠すように流れていた。失明した瞳を隠したがっているように見えた。言葉を失う。前髪の分け目こそ違うが、全体的な髪の長さは彼らと出会う前、DIOと遭遇する前の長さに戻っただけだと知っているのは本人だけだ。それを知る由もない花京院からしてみれば、女性が髪を切るという行為に酷く動揺した。髪は女性の命、という言葉があるように、そう易々と髪を切ることに違和感がある。いくら彼女が自身のことに無頓着だろうとそこまでしなくても、とも思う。
眼帯をつけて左手に包帯を巻き、慣れた手つきでホルスターを付けてリボンタイを結んだところで千里はようやくマフラーがホテルのランドリーサービスに出されていることを思い出した。血と砂と埃まみれのそれを殊勝にもクリーニングに出したのは花京院である。朝にはできあがっていると聞いていたため、それを取りに行き、軽く朝食を取ってこようと思い立つ。首を外気にさらしたままというのはどうも落ち着かない。未だに軋む全身を叱咤し立ち上がる。煙草を押し付けられた左の掌は軽く拳を握っただけでも酷い痛みを走らせるため、当分は右手を使わなくてはならないだろう。面倒だ、と彼女は思った。
立ち尽くしたままの花京院を一瞥し、千里は口を開いた。彼について考えるのは時間と熱量の無駄だ。必要なものとそうでないものの取捨選択は非常に大事である。
「出発時間は」
「……っあ、ああ。一時間後にロビー集合だ」
一瞬なにを問われたのか花京院は理解できなかったが、頭の中でそれを幾度か反芻してようやく思考が追い付いた。しかし花京院がどんな表情をしていようとも返事もせず、お構い無しに千里は部屋を出ていった。やや髪が短くなった後ろ姿はどこか新鮮で同時に違和感がある。いくら苦言を呈しても、どれだけ心配しようとも、彼女にとってあらゆることが些末なのだと思い出したときには彼女はいない。そうしてようやく千里が別行動を取らずに自分たちと共に旅を続ける気なのだと気が付く。昨夜あんなことを言っていたはずなのに一人旅の危険性を理解して思い直してくれたのかと期待したが、彼女のことだから利害を優先したのだろうと思った。やはりなにを考えているのかわからず、自分勝手だと言ってはみたものの、それに自ら振り回されるようにして一喜一憂してしまう。花京院はそんな情けない自身を失笑し、のろのろとベッドに座り込んだ。情けなくて涙も出ない。
きっかり一時間後に現れた千里は髪型以外はいつも通りだった。今はまだ前髪が短く眼帯が目立っているが、時間が経てば覆い隠してしまうだろう。どんな目で見られようともなんと言われようとも一切合切意に介さない彼女の荷物を特になにかを言うわけでもなく承太郎が奪い取る。それが贖罪代わりなのだろうとは誰の目から見ても明らかであったが、承太郎も千里も黙ったままだ。承太郎は当たり前のように荷物を持っているし、千里も別に気にも留めていない。本人がやりたがっているのだから勝手にやらせておけばいい。そう考えているのだろうと誰もが思った。
「船でペルシャ湾を渡ってアラブ首長国連邦に入り、アラビア半島を横断する」
ジョセフが一同を見回しながら昨夜の夕食でも言ったことを今一度反芻する。彼の怪我は大したものではなく、一晩分の睡眠と波紋を使えばある程度回復できた。これよりもっと酷い怪我をジョセフは何度も体験している。そして一般人を巻き込まないためにも船のチャーターをしてくると、ポルナレフを伴って一足先にホテルを出て行った。残る三人は荷物番である。