それは直感と言うべきか、それとも経験則と言うべきか。ホテル近くのカフェテラスでジョセフとポルナレフが戻ってくるのを待っている間、頼んだ紅茶がミルクと砂糖たっぷりの甘さで辟易していた千里がいち早くそれに気が付いた。二度目だったから察するのが早かったのかもしれない。見られている、ではない。狙いを定められていると千里は感じた。霧の街で感じたときのそれと寸分も変わらない。ねっとりとした悪意と羨望が入り混じった視線。敵意がありながらも熱っぽく、油のようにどろりとしていて体にまとわりつく不快感。間違いなく千里に向けられているものだ。霧の街以来に感じる視線だが、それでもここまでその敵がついてきているとなると、ここで倒しておかなくてはと冷静に千里の脳が判断を下す。ペルシャ湾を渡っている最中に船を沈められでもしたら面倒だからだ。これまでだってすでに二度、船は沈んでいる。
そこまで考えて千里は敵の狙いが自分ではなく隣に座る承太郎だと気が付いた。あの不快感を催す視線は彼女に対してのものなのに、殺意の対象は確かに承太郎に向けられている。花京院でないのは敵にとって最も脅威であるのは承太郎だからだと理解し、このままでは狙撃される、そう確信した。なぜ狙撃だと思ったのかわからない。だが狙撃以外は考えられなかった。そしてそれは自身への挑発行為でもあるのだと、彼女の中で警鐘が鳴り響く。
しかし千里に自身より三十センチは違う身長で、筋骨隆々の男を突き飛ばすほどの力はない。だが今は幸いなことに彼は座っている。しかも丸テーブルを囲んでいるのだから腕を伸ばせば届く距離だ。来る、と直感が囁いた瞬間千里は身を乗り出して椅子ごと承太郎を押し倒した。刹那、それまで承太郎の頭があった場所を銃弾が通り過ぎていく。自身になにが起こったのか理解が追いつかず、さらには千里が自身の上に馬乗りになっていることに酷く驚いている承太郎をよそに、弾丸が飛んできた方向から敵の居場所を突き止めた彼女はそちらに向けてライフルを発現させた。花京院が千里の名を呼ぶ。しかし彼女に苦情など聞いている暇はない。左掌に走る激痛も、反動によって全身を襲う鈍痛も、敵を前にした彼女にとって意に介する価値もない。
千里の放った銃声でようやく敵襲だと二人がが理解するよりもさらに早く、昨日の今日で未だスティーリー・ダンから受けた怪我が治っていないどころか包帯すら取れていないにもかかわらず、承太郎の上から降りた彼女は走り出す。灰色の隻眼は見えない敵に焦点を定めていた。ライフルはすでに投げ捨てられている。
「千里!」
花京院が静止の声をあげた時、とっくに彼女の意識は敵だけに向けられていた。他の音すべてが遮断されている。全身の痛みを気にする暇もない。それまでの戦闘から千里の運動神経は悪くないと皆は思っていた。しかしこれはどうしたことこか。怪我人であるにもかかわらず予想以上の速さで千里が遠ざかる。咄嗟に花京院が、次いで起き上がった承太郎が追いかけたところで追いつくどころか引き離される一方だ。あっという間に千里の姿は街の中に溶け込み、見えなくなってしまった。だが敵の奇襲、それを追いかけていってしまった千里を考えると悠長にジョセフとポルナレフの戻りを待つわけにもいかない。とにかく二人は彼女を追いかける。
「千里のやつ、足が速すぎるぜ……」
走りながら承太郎が呟く。どれだけ全力で走ろうとも追いつけないのだ。力比べならば女の千里が一番弱いだろうが、脚力は違った。足の長さだって一番短いくせに、だ。さらに今は一番の怪我人であるはずなのに四足歩行の獣のように彼女はあっという間に行ってしまった。しかもすでに見失ってしまっている。がむしゃらに走り回るのは効率が悪かった。
「いや、まだ追いつける」
承太郎の隣を走る花京院の後ろにハイエロファントグリーンが浮かび上がる。その指先は絹糸ほどの太さになってどこかに伸びていた。花京院はその先を指差す。
「彼女のマフラーにハイエロファントの触脚を引っ掛けた。それを辿れば彼女に追いつける」
どれだけ離れようがぼくのハイエロファントグリーンが彼女の居場所を教えてくれる。見失うことは絶対にない。そう言い切りながらも内心彼は焦っていた。咄嗟に彼女に触脚を引っ掛けることができたのは我ながらよくできたものだと思ったが、ハイエロファントグリーンを通して感じる千里の居所がどんどん遠ざかっているからだ。どこまで敵を追いかけるつもりかわからないが立ち止まらないことからまだ戦闘になっていないとだけは把握する。だがそれも時間の問題だろう。ハイエロファントグリーンの指す先を追って二人は走り出した。
承太郎と花京院を遥か後方に置いていきながらも未だ千里は走り続ける。半ば闇雲に走ってはいたが、それでもあのねっとりとした粘着質な視線を時折感じるためにそれを目指していた。誘導されているとはわかっていた。その目的が自身を孤立させるためだろうとも察している。千里を誘導しながら敵も移動しており、それを追いかけているうちに大通りから離れて曲がりくねった裏道に入った。華やかな表通りとはまったく違う、荒んだ雰囲気と住民たちの視線を一身に浴びながらも彼女は敵を追いかける。一番初め、千里が承太郎を狙撃したときと同じように敵は彼女より高いところにいるのだと考えた。しかし未だその敵の姿を掴めていない。
話では何度も聞いていたが、当然のことながらこれまで千里自身が戦場に立ったことはなかった。これまでの戦いだって戦争と呼ぶには程遠いものばかりだ。だが恐ろしいほどに研ぎ澄まされた感覚が彼女を助けた。鋭くなった五感が彼女の未熟な実力を補う。ストッパーが外れたような、スイッチが切り替わったような。それが遺伝なのか才能なのか本能なのか、千里にもわからない。しかしそれを明確にする必要などなかった。今の彼女はまさに獣である。それまで幾度も称されてきたように野良犬のようでもある。
来る、そう直感が告げたと同時に鳴り響く銃声を合図に紙一重で体を反転させて狙撃を避ける。そして同時に体勢を立て直し、銃弾の飛んできた方向にライフルを発現させ、撃つ。当たるか当たらないかは問題ではなく、牽制できればそれでいい。千里はすぐさまライフルを投げ捨て、間近の建物の陰に身を隠した。すぐさま新しいライフルを発現させる。クリアになった視界から得た情報を脳内がハイスピードで処理していく。銃弾が飛んでくる方向が変わっていることから、やはり敵も移動しているようだ。しかしその入射角から自身より高い位置に敵がいるのだと理解する。建物の屋根や屋上を飛び移りながら移動しているのかと考えたが、それにしてはどこにも敵の姿は見えない。だが敵の位置が明確にならない限り、いつまで経っても不利なのは彼女の方だ。一方的に狙われ続けるばかりである。
どうすべきかと千里は思考する。考えてばかりでは埒が明かないとわかっていたが闇雲に走り回ってなんとかなる相手でもない。これまでの敵のように愚直に名乗り出るか、一般人のふりをして接触してくるようであればもっと楽であっただろうに、今回の敵はやや知恵があるようだ。しかも彼女を指差して嘲笑しているようでもある。わざわざ孤立させるように千里を誘導し、本気なのか遊びなのかわからない狙撃を続ける。いつでも殺せるのだと主張しているようだ。
なぜ自分が狙われているのか千里にはわからない。当然心当たりもない。同じ銃タイプのスタンド使いであるホル・ホースは狙撃手ではないのだから除外される。それにあの目立ちたがりな男ならばこそこそと隠れて狙い撃つ芸当などできないだろう。そうなると彼女の知る狙撃手は一人しかいないのだが、あいにく彼はスタンド使いではないし、こんなところにいるはずがない。もしかしたらスタンド使いかもしれないが、千里と敵対する理由がなかった。仮に敵対したとしても彼は厳しい人だから敵を嬲るような狙撃はしない。狙われた瞬間には殺されているはずだ。ならば一体、と考えたところで時間の無駄だ。敵であるということだけは明確なのだから余計なことを考える必要もない。今一番必要なのは冷静な思考と平常心なのだと彼女はよく理解しているつもりだ。