「――どうしてDIO様を裏切ったんだ」
高くもなく低くもない、声変わりが始まったらしい少年の声が千里の鼓膜に突き刺さる。その声も、またその言葉も彼女を不快にさせるには充分だった。他にも忌々しい要素はたくさんある。溢れるほどにある。だがそれら一切に対して千里は眉一つ動かさない。
「DIO様はおれたちに新しい名前と居場所を与えてくれたじゃあないか」
彼女にとって少年が誰か、など大した問題ではない。それよりもあの忌々しい男の名を耳にしてしまったことが不愉快であった。思い出したくもない記憶が蘇る。あの男に忠誠を誓っていたなど忌嫌すべき過去だ。だが少年は千里の感情に気が付いていない。自身が優位に立っていることと、彼女に会えたことが嬉しくて仕方ないのだ。同じスタンド使い、同じDIOの手下、それだけでは片付けられない関係にある。
「ねえ、喜んでよ姉さん。おれはあの屑共を殺してやったんだ」
喜色満面の弟の言葉。そこでようやく千里の表情がほんのわずかに固くなる。怪訝な色を浮かべて自身を見返す姉に彼は嬉しくなった。きっと褒めてくれるはずだ。DIOと自分たちを引き合わせたことくらいは感謝しても、それが人としては尊敬するに値しない家畜以下の屑を殺さない理由にはならない。両親は息子を紹介するだけのつもりだったようだが、DIOは彼らより息子に興味を持った。空よりも濃く海よりも薄い青色の奥にそれを見出したのである。発現したばかりのスタンド能力を使って両親を撃ち殺し、弟は思った。これでようやく姉と弟の人生が始まるのだと。DIOは絶対的な安心感とやすらぎを与えてくれる。
「DIO様がくれたこの力で殺してやったんだ。マンハッタン・トランスファーって、DIO様が名付けてくれたんだ! DIO様は喜んでくれたよ。姉さんに似て銃器の扱いがうまいな、って!」
それまで千里の背後にいたスタンドを自身の近くに移動させ、少年は嬉しそうにそれを彼女に見せる。今度は明らかに千里の表情に変化が現れた。いつもよりも目を見開き、嘘だろうと言わんばかりに瞳が揺れる。弟はその意味を履き違えた。本物の銃の扱い方をホル・ホースにくっついて学んだ甲斐があったのだと彼は喜んだ。しかし実際のところ千里は弟にスタンドが発現していたことに驚いたのである。彼女は一歩間違えれば死んでいたところ、運よくスタンドの発現という形で生き長らえた。弟はDIOの手によってスタンド能力を得たのだという。手段や方法に興味はない。弟がスタンド使いになったというその事実と結果ばかりが彼女に動揺を与えたのである。
これまで千里の命を狙ってきたのだって遊びだとか冗談だとか彼は言うのだろう。あの不快感ばかりの視線も単純に姉を切望していただけなのだろう。同じ人間の屑から生まれた、屑と屑を掛け合わせた生まれついての人間失格。傷を舐め合うにはちょうど同じ傷を持っている姉と弟。そっくりなのは目元くらいだ。
「――くだらない」
千里はすべてを否定した。汚らわしいと言わんばかりに吐き捨てる。弟と再会するのは実に数年ぶりのことであったが、残念なことにほんのわずかな感動すらわかなかった。今までまったく興味を持たなかったわけではない。屑同然の親の元に残された弟に同情したことはある。その面影をあの家出少女に重ねてしまったことも何度かあった。別れたときの弟の年齢がちょうど少女と同じくらいだったからだ。彼らに言えばきっと笑われることだろう。だから面倒を見てたのかと言われるに違いない。彼女とて血縁者に向ける情くらいは持っている。だが今はそんなものなど微塵もない。ひとかけら、ひとしずくだって彼女の中に弟に対する情はないのである。なぜなら彼はDIOの手下のスタンド使い、一行の旅路を邪魔する敵でしかないからだ。敵にかける情けなどあいにく彼女は持っていない。
姉の反応が予想外のものであったため、弟は大きく目を見開いた。スタンドが消える。唇を戦慄かせ、信じられないと今にも叫びだしそうな様子を千里はただ冷ややかに一瞥するのみである。
「――父親と母親が、あの犬の糞以下の、腐りきった屑が憎くないのか」
「あんなものなどどうでもいい。それとも憎めばなにかが変わるのか?」
絞り出された言葉さえ、容赦なく切り捨てた千里の瞳は冷えきった金属よりも冷たく、声色もまた酷く凍てついている。自分を捨てた肉親になど興味はなかった。どこでなにをしてようが、野垂れ死のうが大したことではないと思っている。彼女の感情は冷え切っていた。黙っていればぬけぬけと、忙しなく動く少年の口を今すぐ黙らせたいと思う程度には苛ついている。無駄口は彼女の嫌うところだ。だが彼は諦めない。過去の記憶と思慕の念と盲目的な崇拝とその他諸々が今の彼を形成している。彼の考えによれば姉は自分と同類のはずである。
「DIO様はおれたちの痛みをわかってくれる。この理不尽な世界に抑圧されたおれたちを解放してくれる。もう我慢しなくていいんだ。――どうしてそれがわからないんだ!」
「虚言や詭弁に惑わされる馬鹿者が。他人が他人を理解できるものか。誰かに頼って生きるくらいなら死んだ方がましだ」
少年の悲痛な叫びさえ、千里の前ではただのノイズだ。殺すと決めた男に忠誠を誓い、媚を売ることに比べて自殺する方が数段容易い。懇願されても金を積まれても地位や権力を約束されても絶対的な安寧と平穏を約束されても、彼女の目から見ればそれら一切合切すべてが汚らわしく映る。傷口から血が滲み出て、痺れにも似た痛みを感じながら千里はそっと左手を背中に回し、プラネット・スマッシャーズを発現させた。敵の目と視線が交わっている今がチャンスだ。彼女が反応すれば反応するほど、否定し拒否すればするだけ敵は激高し、隙が生じやすくなる。あとは銃を向け、引き金を引き絞るだけのわずかな時間があれば充分だ。
「千里!」
背後で聞き慣れた声が割り込む。しかし千里と声との間には距離があった。なぜ彼らがここに、と千里は思った。自身のマフラーにひっかかる、絹糸よりも細い触脚の存在に彼女は気が付いていない。彼らの今いる場所は千里のいる建物からは二つ隣の建物の屋上だ。ハイエロファントグリーンに導かれた承太郎と花京院は彼女が走り抜けた道のりを同じように追いかけただけである。屋上を飛び移って移動した千里の移動ルートを追いかけたのだから、そこに現れたのは当然と言えば当然だった。それに聞こえた銃声が彼女の居場所を教えていた。街中で激しい銃声を響かせるのは彼女くらいのものだからだ。
千里に振り返る余裕などなかったが、弟の視線がわずかに千里からそれた。彼らは仲間と敵の存在を確認した瞬間スタンドを発現させながら跳躍し、隣のビルに飛び移る。それ以上近づくな。少年が唸った。彼らの動きは止まったが、敵に向けられる視線が増える。敵の意識の半分が承太郎と花京院にそらされても銃口は変わらず千里に向けられている。まだだ、彼女は自身を落ち着かせる。確実に敵を行動不能にするためには数歩の距離が遠すぎた。無駄玉を撃たせてから一気に間合いを詰めてスナイパーライフルの銃口を弾けば、被弾せずに敵の懐に潜り込める。いくつかの行動パターンを脳内に描きながら小さく息を整える。貧血になるほど血を流しているわけではないが、集中力をそぎ落とそうとする程度の体の軋みと痛みはあった。痺れが走る。だからといって集中力を途切れさせ、意識を手放すわけにはいかない。
「ねえ、姉さん。偽善者どもがやってきたよ。自分たちが正しいって思い込んでる愚か者だよ。DIO様の敵だ」
スナイパーライフルを千里に向ける少年から嘲笑と敵意と憎悪を含んだ声と表情を向けられ、身構える承太郎と花京院は彼がDIOの手先なのだとはっきりと理解した。明らかに自分たちよりも年下の子供が千里に銃口を突きつけている光景には驚いたが、それ以上に少年が彼女を姉さんと呼んだことが衝撃的であった。自身のことについてまったく口を開かない千里に弟がいたとは。まさか敵として姿を現すなんて。混乱よりも動揺が先であった。しかしここまで戦い続けてきた彼らが冷静さを取り戻すまでにさほど時間は必要なかった。それくらいのことができる程度には彼らも慣れを覚えていた。まさかただの姉弟喧嘩ではあるまいともちろん理解している。敵と言えど千里が弟を殺すかもしれないという不安はあったが。
「あんなのが姉さんを理解できるはずがないんだ。おれたちが受けた屈辱や理不尽さを理解してくれるのはやっぱりDIO様しかいないんだから!」
恍惚な笑みを浮かべ、敬虔な信者のようにDIOを崇拝する彼の青い目は狂信者のそれとまったく同じである。そもそもそうなる素質もあったが、完全に仕立て上げたのは彼の主人だ。ローティーンの少年を洗脳することは容易い。両親を軽蔑し、姉を憧憬する少年の心の隙間に入り込むなど簡単なことだ。姉はわたしがあるべき姿へと解放した、だが悪いことに今はジョースターたちに騙されているようだ。あの偽善者たちに騙されて、わたしに歯向かっている。かわいそうだとは思わないかね? 両親に付けられた名を捨て、主人にジョンガリ・Aと名付けられた少年が冗談ばかりの甘言に乗せられたのだと知っているのはDIOだけだ。