この状況下、圧倒的に有利なのは少年だ。千里は銃を向けられ動けないし、そのせいで承太郎と花京院は少年を睨みつけることしかできない。そしてそれを理解している少年は狂気を抱き、姉が自分に従ってくれるのだと信じて疑わない。彼にとって信じるべき神がDIOであれば、敬愛すべき存在は千里である。唯一の血を分けた肉親であり、同じ穴の貉であり、同類の傷を抱く哀れな子羊だ。自分たちを迫害する世界を恨み、救い上げてくれたDIOを盲信し、そこに自身のあるべき姿を見出した少年は、姉も同じ道を歩むべきだと思っている。この世の平穏と安寧はDIOの下にのみあると信じて疑わない。
「姉さん、帰ろう。DIO様は優しくて寛大な方だから、ちゃんと謝って忠誠を誓えば姉さんのことも許してくれる」
「――千里はもうDIOの手下じゃあない。彼女はぼくたちの大切な仲間だ」
「汚れた名前で姉さんを呼ぶなッ!」
それまでの恍惚とした表情から一変、少年が吼える。彼の中で自身の名がジョンガリ・Aであるように、千里の名はクオレマ以外にありえない。なぜならその名は自分たちの新しい人生を歩むために用意されたものだからだ。ゆえに姉が赤の他人になるなど許せない。
相手が感情的になればなるほど隙が生じる。幼く、狂気に濁った青色の目に睨みつけられながら花京院は冷静に隙を窺う。ハイエロファントグリーンの触脚は変わらず千里のマフラーに引っかかっている。それをそっと彼女の腕沿いに触脚を伸ばし、左手に握られているプラネット・スマッシャーズに絡めた。距離があろうとも、スタンドを介せば敵に悟られることなく会話ができる。
「千里が動いたら、おれたちも行くぞ」
ハイエロファントグリーンの動きを目で追いながら、承太郎が呟く。ああ、とそれに小さく答え、花京院はそれをそのまま触脚を介して千里に伝えた。返事はない。ただ息をひそめて敵の動向をじっと観察しているとだけが感覚として伝わってきた。やはり彼女は少年を敵としか見ていない。花京院がそれを承太郎に伝えれば、彼は眉をしかめた。少年が本物の弟なのか彼ら二人に判断する術はない。しかし千里に迷いがないことだけは確かだ。身内を殺すことさえも抵抗なくやってのけるタイプ。以前、彼女に銃を売った女主人の言葉を思い出す。
目の前の少年、背後の二人の様子に彼女はいらついていた。血縁者というだけで周囲はいらぬ気遣いをしてくるものだから、それが鬱陶しい。好き勝手に言いたいことを言うだけの弟も、ハイエロファントグリーンを通して話しかけてくる花京院もどれもこれもが煩わしい。騒がしいのは彼女の嫌うところだ。旅路を急いでいるのだからこんなところで油を売る暇など千里にはない。
「――いい加減黙れ」
それは少年に向けられた言葉であり、花京院に向けられた言葉でもあった。せわしなく動き続けていた少年の口がぴたりと止まる。深い青をたたえた瞳をこれでもかと言わんばかりに大きく見開き、唇をわななかせ、「どうして。なんで……」呟く。どうしてわかってくれないんだ。少年が叫んだ。
「DIO様は言っていた! 姉さんの本質は狂気だ、揺るぎのないまっすぐすぎるほどの狂気だ。それをあんな……ジョースターたちみたいな偽善者が受け入れてくれるはずがない!」
「わたしの本質に興味などない。それに受け入れられたいとも思わない」
「姉さんは騙されているんだ! あんな屑共と一緒にいるからいけないんだ。おれたちみたいな存在はDIO様がいて初めてこの世界で認められる。おれたちは生きていいんだ」
「悪だ正義だやかましい。自分がどちらかにならなければ安心できないのか? 認められなければ生きられないのか? くだらない」
感情のままにに叫ぶ少年とは対照的に冷静に吐き捨てる千里のやりとりを見ながら承太郎はそっと一歩踏み出した。今、敵は激昂しており、その視界には千里しか映っていないからだ。いつ殺されてもおかしくないだろうくせに敵の神経を逆撫でする彼女の態度に呆れながら、その瞬間をそっと待つ。その隣で花京院は姉と弟の会話にわずかな動揺を覚えていた。情けないことに、だ。普段の彼女からはまったく想像できないほどに饒舌なのは、おそらく少年の存在が彼女の心を波立たせているからなのだろう。言葉の端々に含まれる棘がそれをよく表している。
「そうさ、DIO様は約束してくれたんだ。おれたちが迫害されなくてすむ世界を作ってくれると。おれたちに絶対的な安心感と安堵の地を与えてくれると!」
限界だと千里は思った。この程度で平静を乱されるなどまだまだ未熟だと考える一方で、弟に対して酷く失望している自分がいることに気付いていた。離れて暮らした数年間になにがあったかなど興味はないが、幼い狂気は盲目的で残酷ながらも、酷く愚かだ。
こんなにも自分は短気だっただろうか。千里は内心舌打ちし、左手に握るプラネット・スマッシャーズを少年に向け、発砲する。軋む体の痛みで弾丸の軌道はそれたが、当たろうが当たるまいが彼女の気にするところではない。少年の指先に引き金を引かせないためだけの目的だからだ。一発の銃声によって敵の動きが停止した刹那、地を蹴り一気に接近する。手の中に発現させたのは一丁のライフル。銃身は少年の持つそれよりも長い。千里は下段から一気に振り上げて、自身に向けられる銃口を弾き上げた。空に一発銃声が響く。そのままくるりとライフルを回して銃身を両手で握り、銃床で少年の鳩尾を鋭く突く。少年がえずくのもお構いなしにさらに銃底を沈ませ、胃袋を持ち上げるように押し上げた。途端、少年が嘔吐する。瞬時にライフルを消し、千里は飛び退いた。そして発現させたマグナムを両手で握り、少年の頭部に狙いを定める。
「あれらを殺したくらいで調子に乗るな。ましてやスタンドに頼らなければ当てられない狙撃でわたしを殺せると思っているのか? 笑わせる」
承太郎と花京院が隣のビルから飛び移り、近寄る気配を感じた。彼らは正義だから自分が少年を殺すことを止めるだろうと予測したが、それでも彼女にその行為を中断する予定はない。敵を殺すことを躊躇ってはならないからだ。
ほんの一瞬で逆転した形勢に少年は歯噛みし、悔しさと驚きの色を浮かべて千里を見上げるが、彼を見下ろす鉄色の隻眼は氷よりも冷たい。そしてそこに映っているのは弟ではなく、一人の敵なのだと気が付いた。力の差を見せつけられた弟の思いは微塵も姉には届いていない。どれもこれもジョースターのせいだと彼の憎悪が増していく。
死ね。吐き捨て引き金を引こうとしたが、千里の指先は凍り付いてしまったかのように動かない。スタンドが自身の意思に反するなどあり得ないことだと彼女は手の中のマグナムに視線を落とす。細い細いハイエロファントグリーンの触脚がプラネットスマッシャーズに絡みついていた。花京院がスタンドを介して話しかけてきたときからずっとそれはつながったままだったのだが、千里はそれに気付いていなかった。鮮やかな緑色の絹糸が彼女の左手を絡め取り、拘束する。鋭く突き刺さるような視線が花京院に向けられた。
「千里、だめだ。家族を殺してはいけない」
説得のため、花京院が言い聞かせるように語りかける。家出少女に家族を大切にしろと言ったのは千里だったと彼は覚えている。彼女が自己矛盾を抱えていることはすでに気が付いていたが、それを糾弾するつもりはない。しかし彼女の不誠実を黙って見ていることもできなかった。
諌めたところで彼女がおとなしく引くような性格ではないと花京院は理解しているため、ハイエロファントグリーンの拘束を強める。念のため彼女の腰にあるS&W M19も抜けないように触脚を這わせた。それでも即座に右手からプラネット・スマッシャーズを発現させようとした千里だったが、その腕を承太郎が掴む。そしてスタープラチナを使って目の前で膝をつく少年の意識を奪う。戻るぞ。承太郎が呟いた。姉弟喧嘩の幕切れとしては随分と呆気ないが、それでも後味は悪い。
押さえつけられた両手を離せば改めてスタンドを発現させて少年を殺すのではないかと彼らは危惧したが、千里は気絶した少年を冷ややかに一瞥しただけであった。彼らの制止を押し切ってまでわざわざ気絶した敵を殺すような労力を使うつもりはなかった。敵が戦闘不能となっているのだからこれ以上は時間の浪費だ。昨日の怪我と今日の傷。全身が痛み、疲労も酷い。昨日の今日で体を酷使したせいだ。ここからは船で海を渡るのだとジョセフが話していたことを思い出し、移動の間だけでも休息を取らなくてはと千里は考える。しばらくは万全に動けそうにもないだろう。
「彼は……」
「こんな愚か者など、知るものか」
花京院の言葉を遮り、忌々しげに千里は吐き捨てて口元までマフラーを引き上げる。それはもう何もしゃべらないという彼女なりの意思表示でもあった。