牧神の午後

 千里がだんまりを決め込むことはこれが初めてのことではなかったが、それでもその日の彼女はどれだけ問われようとも決して答えようとはしなかった。昨日今日と続いた戦闘は確実に千里の体力を奪っている。口を開く労力をいつも以上に不必要だと判断したのである。
 弟が敵だったなど人には言えないことだろうと承太郎と花京院はそれをジョセフをポルナレフには言わないことにした。特にポルナレフがそれを知れば詳しく聞き出したがるだろう。なぜなら彼には妹がいた。聞き流すはずがない。そのため彼らは口裏を合わせることにする。敵のスタンド使いと交戦し、退けた。うわべだけの情報で充分だ。
 その後一行はペルシャ湾を渡るためにクルーザーに乗る。一般人を巻き込まないためにチャーターされたそれを運転するのはジョセフの役目である。アラビア半島沿岸沿いに進んでアラブ首長国連邦に入る予定だ。
 船内で手当てと着替えを終えた千里が外に出たころにはすでに陸地は遠ざかり、経由地であるオマーンの先端が見えていた。天気はすこぶる良好で、白波を立てながらクルーザーが軽快に海を走る。全身に海風を受けながら千里は船上を見回した。ジョセフはもちろん舵を握っているが、他の者は思い思いの場所に腰を下ろして言葉を交わしている。警戒心のないことだと千里は思ったが、今更だと思い直す。大型船ならまだしもこのサイズのクルーザーならば敵が潜んでいようともすぐに発見できるし、船自体になにかが仕掛けられることもないだろう。なぜならこれまでの敵は例外なく自己顕示欲が非常に強く、また金で雇われているものばかりだ。ならば自分が殺したという証拠と実績を手に入れるためには人知れず千里たちを殺せるはずがない。生死不明などという曖昧さで満足するような殺し屋ならば恐れるだけ馬鹿馬鹿しい。それ以前に今のところ敵に暗殺者はいないのだから呆れるしかないのだが。堂々と名乗るなど一昔前の話だ。
 適当な場所に腰を下ろした千里は目を閉じる。疲労と負傷ばかりの体は休息を欲していた。それでも癖のようにライフルを発現させて銃口を上に向けて肩に立て掛ける。深くは眠らない。ただ陸に着くまで仮眠を取るだけだ。クルーザーのエンジン音を聞きながら、彼女はほんの少しだけ意識を沈めた。

「千里のやつ、やけにぴりぴりしてるな」

 まるで戦場の兵士みたいだぜ。ポルナレフが呟く。最近ようやく丸くなり始めた雰囲気が出会ったころのように戻ったようだ。近寄りがたく、馴れ合う気など毛頭ないと主張しているような。千里の雰囲気が豹変した理由を説明するならば、彼女と交戦した敵以外に思い付かない。満身創痍に輪をかけて負傷した上に誰も近寄らせようとしない手負いの獣に戻った千里に与えた影響は大きいのだろう。

「そんなすげえ敵だったのか?」

 千里と一緒に敵と交戦したという承太郎と花京院にポルナレフは尋ねてみたが、二人は顔をしかめるだけだ。

「狙撃手のようだったからな、プライドを刺激されたんだろ」

 しかも実の弟となれば穏やかでいられないはずだ。真実は心の中に止めて承太郎が答える。答えながらも彼は敵のスタンドを見ていなかった。ただ少年の発言やスナイパーライフルを持っていたことから推測したまでである。
 会話が聞こえているだろう千里はぴくりとも動かない。きっと敵が弟であったと承太郎がポルナレフに告げたところで我関せずを貫くだろう。彼女にとって弟が敵であったことなどすでに重要事項ではない。最優先すべきは体力の回復であると彼女は理解している。千里にとって少年はすでに弟ではなかった。
 オマーンで給油がてら一泊し、そのままアラビア半島沿いに一行はアラブ首長国連邦に入った。ここからはまた陸の移動となる。アブダビで一行を待ち受けていたSPW財団の職員が彼らの車や物質と共に非常に言いにくそうながらも一つの情報をジョセフに告げた。ジョセフの表情が曇る。職員と別れてからもしばらく躊躇い、思案したのち千里を呼び寄せた。それまで突っ立っていた彼女は素直にジョセフに近付く。ごくりと彼の喉が鳴った。

「千里、落ち着いて聞いてくれ」

 落ち着けないのはジョセフの方であったが、それでも年長者であるという矜持の元に千里を見下ろす。灰色の瞳と視線がぶつかった。何事かと回りが耳をすます中、ジョセフは躊躇いを圧し殺す。

「きみのご両親が――亡くなられたそうだ」

 さすがにDIOの手下に殺されたようだとは言えなかった。鋼のような娘だとわかっていても肉親の死を告げるなど簡単なことではない。親とは特別な存在だ。少なからず千里は動揺するだろうとジョセフは思い、慰めの言葉を考える。
 千里が一度瞬きをする。やはりさすがの彼女も驚くかとジョセフは思ったが、すぐにそれが誤りなのだと理解する。前髪に隠されていない鋭く茫洋とした右目を揺るがせることもなく、また声を震わせることもなく、ただ一言、はっきりとそれを言った。

「知っています」

 千里の反応はジョセフの想像していたものとは違った。もしかしたら彼も心の奥底ではそれを想像していたのかもしれない。だが認めたくないがために黙殺していた。つまり彼女はいつも通りの反応だったのである。興味はまったくないようだった。驚くのはジョセフの方だった、というわけである。

「知っていたとは、どういうことかね……?」

 知っていてなお動揺した様子すら見せない千里に不安を覚える。両親に興味がないとは聞いていたが、それでも本心は違うだろうと思っていた。どれだけ憎んでたって親が死ねばなにかしらの感情を抱くはずである。悲しむにしろ喜ぶにしろ、そうやって感情を露にして当然だとジョセフは思っていた。だが千里は例外だったのである。ゆえにジョセフは彼女の弟が行方不明だと言い出すことを躊躇った。しかし千里はそれについてなにも尋ねない。知っているからだ。
 親だった男女を殺してやったのだと弟だった少年は言っていた。それで自由を得たと喜ぶ愚か者に向ける言葉を千里は持っていない。子供が殺人を犯し、他人が二人死んだ程度で彼女の目的に対してなんら影響はないからである。敵討ちなどまったく思い浮かばない。周囲が言葉を失う中でも千里だけがいつも通りだ。ゆえにジョセフの問いに答える気はない。興味のない人間の話題など時間の浪費程度にしか役に立たないからだ。

「千里」

 花京院が思わず声をかける。しかし千里の隻眼は中東の街並みへと向けられた。いつでも出発する準備が整っているにもかかわらず、未だに動き出そうとしない一行など意識の外だ。だがそれでも一方的に意識される不愉快さを千里は覚える。彼女がどれだけ気にせずとも周囲は気にする。それでも千里は自分が気にしていないということを声高に宣言する気もなかった。哀れみたければ勝手に哀れめばいい。ただそれだけのことである。