次に千里の目が覚めたとき、彼女は花京院の膝を枕に横になっていた。狭い救命ボートゆえ仕方のないことなのだろう。目覚めて最初に見るのが花京院とはこのシチュエーションに覚えがあるなと思いつつ、ひりひりとして頬の皮膚が突っ張った感覚に思わず顔を顰める。手や顔が熱を持ち痛みを伴っていた。やはり衝撃熱で火傷をしてしまったようだ。さらに耳鳴りが残り、目の奥がチカチカとして頭が軋む。しかし仕方のないこととはいえ、短時間で二度も気を失うとはかなり間抜けである。千里は内心溜め息を吐いた。
「目覚めたんだね。具合はどうだい?」
千里の目覚めに気付いた花京院が声を掛けるこの状況もまた覚えがあった。短く返事をし、千里は起き上がる。ぱさりと体からなにかが落ちた。見れば見覚えのある緑色の学ランで、花京院のものであるとすぐに気付く。なんともまあ面倒見のいい男だと千里は思ったが、いつもの如く表情には出さない。気にするほどの事柄ではなかったからだ。花京院の学ランが落ちたことで露呈する所々穴の空いたセーラー服。スタングレネードが爆発したさいに飛んだ火の粉のせいだろう。さらにぼろぼろになってしまったセーラー服も買い替える必要がある。それは傍目から見ても明らかであるらしく、花京院が困ったように笑いながら落ちた自身の学ランを千里の肩にかけた。
見回せば四方は海で、あの貨物船の影すらない。救命ボートにジョセフ一行だけが乗っていた。なにがあったのかは大体予想がつく。あの船自体がオランウータンのスタンドだったのだから、オランウータンを倒せば船も大破するかもしくは消滅する。ゆえにあの船から脱出するのは当然のことだ。
「千里、やっと起きたのね!」
起き上がった千里にいち早く反応したのは家出少女だった。狭いボートにも関わらず、喜色満面の笑顔で飛びつくように千里に近付く。少女の高い声が酷く頭に響いた。しかしそれを顔に出すことは決してない。
「ああ……すまなかったな。大丈夫か?」
「ちょっと耳鳴りが残ってるけど大丈夫。あのあとすぐにJOJOが来てオランウータンを倒してくれたのよ」
千里が承太郎に視線を向けると承太郎は軽く帽子のつばを下げてそれを遮った。千里は少女の言うことが事実であるらしいことを感じながら、思ったより家出少女に影響がなかったことに安堵する。一人で密航するくらいの図太さがあるから大丈夫だろうとは踏んでいたが、無事でよかったことには変わりない。薄っぺらながらもカーテン越しであったことと、シャワーに守られていたことで火傷をした様子もなく、無事ジョセフに頼まれた通り少女を守ることができたようだ。安堵したことにより一気に疲れと眠気が襲ってきたらしい。家出少女は千里の体に寄りかかるようにして眠りに落ちてしまった。
結果的に千里の行為でオランウータンは行動不能に陥り、承太郎がとどめを刺したことにより一同は無事であったのだが、千里がスタングレネードを使用したことに納得していない者もいた。ジョセフである。ジョセフが千里が女であることを一番に考慮している。だから家出少女を預けたのだ。千里のスタンド能力がどのようなものであるか未だ知らないが、女の子は体を張って無茶をするものではないとジョセフは思っている。これだけ屈強な男がいる中で、それと対等であろうとする必要はないと考えているのだ。ただでさえ男女の体格差、力の差から生まれる優劣は簡単に埋められるものではない。
「しかしのう……近距離でフラッシュバンを使うのは無謀じゃぞ。女の子なんじゃから顔に傷が残ったらどうするつもりじゃ」
「まあまあジョースターさん。彼女の火傷も軽いのですから跡も残らないでしょう」
女の子が無茶なことをと苦言を呈すジョセフをアヴドゥルが宥める。そして反省しているのかしていないのかわからない千里の表情を盗み見て、これは大人しく言うことを聞くような子ではないだろうと内心溜め息を吐いた。無表情であり無感情。最初に襲撃に遭ったときは肉の芽に影響されてそのような性格になっていたのかと思ったのだが、肉の芽がなくなった今も変わらず鉄のような灰色の瞳は感情を映さない。千里のどこにDIOはつけ込んだのか。簡単に甘言に乗るような性格ではないだろうと予想する。DIOを倒すための戦力としてパーティーに入ってくれないかとアヴドゥルは思うのだが、扱いに難儀するのではないかという不安もあった。
「――千里、聞きてえことがある」
流れを断ち切るようにそれまで黙っていた承太郎が口を開いた。湿気った煙草をくわえたまま、緑色の瞳を千里に向ける。名前を知られているのは花京院が皆に伝えたのだろう。千里も全員の名前をDIOから聞いて知っていた。承太郎の双眸に孕むその強い光に臆することなく、千里も灰色の瞳をそれに重ねた。向けられた視線を承太郎は肯定と取る。
「DIOでもこれから襲ってくるスタンド使いでもいい。持っている情報をすべて教えろ」
その瞬間、千里を除く全員に緊張が走り、緊迫した雰囲気に一変する。花京院は精神的に屈し、ポルナレフは復讐心につけ込まれて肉の芽を植え込まれた。そのためか、敵から寝返ったものが二人もいるというのにDIOに関する情報はまったくと言っていいほど持っていない。ゆえに承太郎は千里がわずかでも情報を持っていることに期待したのである。だが千里の返答は一行の期待を裏切るものであった。まずDIOの館がエジプトにあることは千里も知っていたが、それがエジプトのどこであるのかまでは地理の知識がないためにわからなかった。また、千里自身最初は贄として差し出されていたために他のスタンド使いと接する機会はなかったため、それに関する情報も一切持っていない。DIOはエジプトにいる。それを裏付けただけであった。
有益な情報を得られなかったことに一同は落胆したが、そうそう簡単に情報が手に入るものでもないし、今は無事救助されてシンガポールに辿り着くことが一番だとと思い直す。雰囲気を一掃するようにジョセフが口を開いた。花京院の学ランを肩にかけ、微動だにしない千里の顔を覗き込む。
「千里はこれからどうするつもりじゃ。家に帰るというのなら陸に着き次第、知り合いに送らせるが」
「いえ、あの男には借りがありますので」
「DIOに? まさか一人でエジプトに向かうつもりかね」
「はい」
あまりにも迷いのない返答にジョセフはわずかにたじろいだ。千里の双眸は決して虚勢でも嘘でもないと告げており、本気であるのだと察する。承太郎や花京院とあまり年の変わらないだろうティーンの少女の瞳にしてはあまりにも暗く、鋭すぎた。どうしたらこんなにも荒涼とした瞳になるのかと思うほどに、だ。年相応の教育を受けてこなかったのか、それとも育った環境が異常だったのかジョセフにはわからない。承太郎も花京院も高校生離れしているといえばしているが、千里とはベクトルが違う。親からの愛情を十二分に受けていなかったのかもしれない。だがすべては想像の範疇であるため、決めつけるには早計過ぎる。
無茶だ、と最初に声を上げたのは花京院だった。一度精神的に屈してしまった経験があるため、花京院はDIOの恐ろしさを強く認識している。そのため同じ年頃の、しかも女の子が一人でDIOに立ち向かおうなど無謀としか言いようがない。そして同時に千里にわずかながらの恐怖を覚えていた。出会ってからまだそう時間は経過していなかったが、その中で一度も現れることのなかった感情と変わらず真っ直ぐな視線をぶつける人形のような瞳が、花京院の中に隠された弱さを醜くむき出しにするような錯覚に陥っていた。承太郎とはまた違った強さを持っているように見えたのだ。そして同時に同年代の中で自分が一番弱いように思ってしまう。DIOを前にして屈しなかった千里が感情を揺るがさず無感情であればあるほど、DIOに屈した自身の弱さが露呈するような気がして仕方なかった。
「一人は危険だ。DIOはきみ一人で勝てるような相手じゃない」
「花京院の言う通りだ。我々もDIOを倒すためにエジプトに向かっている。我々と共に行く方が一人より勝ち目があると思うが」
どうだろうか、とアヴドゥル探るような目つきを千里に向ける。千里は変わらず感情の読めない表情であったが、アヴドゥルの提案について熟慮していることは確かであろう。互いの利害がどのくらいのものか推し量っているに違いない。酷く慎重な性格であるようだ。
だが結論が出るまで長い時間はかからなかった。よろしくお願いしますと無表情のまま千里は呟いた。