ラクダの二人乗りについて承太郎も千里もなにも言わなかった。出発の際にさも当たり前のように千里をうしろに座らせた承太郎に皆は瞠目したが、ラクダの数が足りないのだと気が付くのにそう時間は必要なかった。承太郎と背中合わせに、荷物の上に座った千里はフードとマフラーでしっかりと顔を隠してしまったために様子を窺うことは誰にもできなかった。
一行は無事サウジアラビアに入り、ヤプリーンで宿を取った。ジョセフが村人と交渉してセスナ機を手に入れる。今度はそれを使って一気に砂漠を抜けるのだとジョセフは嬉しそうに説明するのだが、過去に三回も乗り合わせた飛行機を墜落させている彼と同乗することに安心感を覚える者はいない。通常墜落するはずのないそれを当たり前のように落とすのだから、今度もそのつもりでいたほうがいいんじゃあないか、とポルナレフが呟いた。
久々のベッドを前にしても千里の気が緩むことは決してないが、それでも夜通し四方に神経を尖らせる必要がないのだから少しだけ緊張感を解いたことは否めない。なにせ彼らに緊張感も危機感もないのだから、気を緩める暇もないのだ。最終的に頼れるものは自分自身だと彼女は知っているため彼らに頼ろうと思うことはないにしても、不要な危険にさらされたいとも思わない。油断大敵という言葉を意味からしっかり理解する必要のある者が二人もいるのだから仕方ないことなのだが。
砂漠の横断中は行っていなかった鍛練を終えて千里がホテルに戻ってきたのは夜もだいぶ深まってからであった。久々ベッドであるのは皆同じだったためか、同室のポルナレフと花京院は深く眠っているらしく、千里の気配にまったく気が付いていないようだった。これが敵だったら簡単に寝首を掻かれているだろうに呑気なものである。フットライトだけがついている薄暗い部屋の中で千里はリボンタイとマフラーを取り、寝間着用にと仕分けていたシャツに着替える。彼女は平時服装に無頓着ではあるが、だらしないわけではない。やむを得ない状況ならいざ知らず、面倒臭いからと着替えを怠ってしわくちゃのシャツとプリーツスカートで平然としていられるほど怠惰ではなかった。
ベッドに入り、眠りに落ちたか落ちないかの辺りをさ迷いながらしばらくして千里の意識は覚醒する。悪夢でも見ているのだろう花京院の呻き声に意識を引き上げられたのだ。その隣でポルナレフが大きないびきをかいて眠っている。どちらも決して心地のいい音とは言い難い。劣悪な環境で上質な眠りを求めない限り、千里にとってそれらが仮眠の邪魔にはなることはないが、少ない睡眠に慣れてしまった体は完全に覚醒してしまっていた。時計を見れば起床するに早くない時間である。仮眠を取ろうと思えばこれから乗る予定のセスナ機の中でも可能であるし、セスナ機の騒音はいびきと呻きより何倍も大きい。結果、千里は起床を選択した。睡眠不足ではないのだからなにも問題はない。
村人からセスナ機を買い取ったはいいが、熱を出した赤ん坊を病院のある町まで連れていくことが条件となってしまったことに不平不満をもらすどころか、殺伐とした旅に不釣り合いの赤ん坊の存在が一行の雰囲気を和らげた。期間限定ながら赤ん坊が加わったということで、ジョセフとポルナレフは骨抜きにされてしまう。当初、女なんだからと赤ん坊の世話は千里に押し付けられそうになったのだが、彼女に近付けられた途端に赤ん坊が火のついたように泣き出してしまい、ジョセフがあわてて赤ん坊を千里から引き離した。
「千里がこっわーい顔してっから赤ん坊も泣き出したんだぜ」
ポルナレフが千里をからかう。確かにジョセフに抱かれた途端に赤ん坊は泣き止んだ。それどころかきゃっきゃと無邪気に笑う。しかし千里はまったく興味がないらしく、その赤ん坊を一瞥しただけでセスナ機に乗り込んだ。同じく赤ん坊に泣かれた花京院は黙ってそれを見送る。彼としては赤ん坊がどうしても気になってしまう。なにかを忘れているような気がしていたが、それが思い出せずもどかしい。しかし気のせいだろうと無理矢理自身を納得させ、セスナ機に乗り込んだ。操縦席にジョセフ、助手席に承太郎が座り、そのうしろに花京院とポルナレフが腰を下ろし、そして最後部には荷物とともに千里が席に座らず直接床面に座っていた。そもそも四人乗りであるにもかかわらず充分に定員オーバーしているのだ。赤ん坊はともかく、千里は完全に荷物としてカウントされているが、そのような扱いもラクダでの移動時にすでに受けている。今更とやかく言うことでもなかった。荷物にもたれかかり、ホルスターからS&W M19を抜いて銃身を磨き始める。その目の前でポルナレフと花京院がセスナ機の揺れに揺られて眠くなったのか船を漕ぎ初め、いつの間にか夢の世界へと旅立っていった。
ポルナレフと花京院の呻き声はセスナ機のエンジン音に掻き消されてしまうほどに小さなものであったが、千里の耳は確かにそれを拾っていた。銃をホルスターに収めて顔を上げる。千里の座る場所からは彼らの後ろ姿しか見ることはできないが、ぴくぴくと痙攣していることだけはわかった。そこで彼女は昨晩も花京院が魘されていたことを思い出し、悪夢でも続けて見ているのだろうかとふと思う。だがそれ以上の感想を抱くことは決してなく、視線を窓の外に向けた。まだ落ちる気配はない。しばらくしてジョセフが赤ん坊のおしめを替えるようにとポルナレフを起こした。それまで彼は怖い夢を見ていた気はしても、どんな夢を見ていたのかまったく覚えていない。だがまあいいか、と赤ん坊のおしめを取り替えようとするのだが、ポルナレフはおしめの交換方法を知らない。布タオルを適当に巻いて安全ピンでとめればいいとのジョセフのアドバイス通り、適当におしめを変えたところでようやく花京院が魘されていることに気が付いた。同じくして承太郎も気が付く。
「うわああああああ! やめろッ、やめてくれッ!」
刹那、眠ったまま花京院が暴れだした。狭い機内で暴れられては避ける余裕もなく、また落ち着かせようとしたところで相手は夢の中である。仲間の声は一切届かない。花京院の足がジョセフの席を思いっきり蹴り飛ばした。その衝撃でジョセフは思わず操縦桿を手放してしまう。操作を失ったセスナ機は機体を大きく旋回し、軌道修正もできないまま垂直に地面へと落ちていくことに承太郎は嫌な予感が過った。否、この時点ではほぼ確信に近い。
「お……おい……ひょっとして墜落するのか? ……このセスナ」
時速約百キロのセスナ機で五百キロほどの距離を移動するのだから所要時間は五時間程度。たったそれだけの時間内で自らの操縦する飛行機を落とすのだから、これはもう一種の才能と言って差し支えはないだろう。だがこれ以上飛行機が落ちてはジョセフの人生に不名誉な汚点が増えるばかりだ。咄嗟ににハーミットパープルを発現させて操縦を試みる。そんな不安定な状態の中なおも暴れ続ける花京院をポルナレフが押さえつけられずにいると、千里が磨いたばかりのS&W M19を抜き、銃床で花京院の後頭部を殴り付けた。彼の腕から血が流れ出ていることに眼を細めるも、今はそれどころではないと理解している。千里に殴られ花京院はぐらりと大きくよろめき、それと時を同じくしてセスナの機首が持ち上がった。それまで急降下していた機体が体勢を立て直し、安定する。
「みんな見たかーッ、どんなもんですかィィィーッ! わしの操作はよぉー!」
人生の汚点が増えるどころか一躍英雄となったジョセフが得意げに歓声を上げる。だが一瞬の油断が命取りになると未だ彼は学習していなかった。調子に乗った結果、操縦桿から片手を離してよそ見をしたために目の前のヤシの木に気が付くことはできなかった。つまるところ、ジョセフは人生数度目となる稀有な経験を重ねることとなる。
「やれやれ。やはりこうなるのか」
承太郎も祖父に対してそれしか言葉が出なかった。それよりも今は地面へ衝突したときの衝撃から身を守る方が大切だ