国を裏切る者

 赤ん坊――マニッシュボーイは勝利を確信していた。セスナ機が墜落しかけたときは焦ったものだが、九死に一生を得た彼は内心にやりと笑ったものだ。ここで一行を殺せば金も名誉も自分だけのものだ。周囲の愚かな大人たちを嘲笑する赤ん坊は確かにそれだけの実力を持っている。
 彼の正体にもっとも近づいた花京院をマニッシュボーイは危険視していたが、赤ん坊が敵だと仲間たちに信じてもらうどころか逆に気でも狂ったのかと疑われ、孤立無援となってから彼は花京院はもう終わりだと信じて疑わなかった。夢の中で花京院自ら自身の左腕に『BABY』『STAND』とナイフで刻み付けていたことには冷や汗を流したが、結局誰もそれを鵜呑みにして赤ん坊が怪しいと言い出した者はいなかった。ここまで苦楽を共にしてきた旅の仲間の信頼を失うなど滑稽なものだ。仲間に信じてもらえず絶望に染まる顔など笑いを堪えるのに大変苦労したほどである。頼みの綱だったらしい千里にさえ一瞥されるだけだった惨めな様子など笑い話ものである。マニッシュボーイとしては一番警戒していた千里がそのような態度を取ったものだから、これはしめたと思った。彼女は自分だけがまったく無関係と言わんばかりの態度を貫いているのだから警戒するだけ無駄な労力だったのかもしれない。すべてはもみじのような小さな手の中で転がされる。
 あとは無防備に夢の中に落ちる一行を彼のスタンドで殺すだけだ。夢の世界は彼の世界、何人たりとも侵すことのできない難攻不落の王国である。夢の中で無防備な状態となった精神をデスサーティーンは包み込む。ゆえに精神力を具現化したスタンドを発現させることはできない。スタンドを発現させられなければデスサーティーンを倒すことはできない。つまりマニッシュボーイの独壇場である。圧倒的な強さと絶対的な恐怖を味方に付けた今の彼ならば大の男が相手だろうと負けることはない。戦いは力ではなくブレインが大事なんだ。赤ん坊は考える。
 これからじわじわと殺してやるぜ。食べ損ねた夕食を鍋から直接拝借しながら赤ん坊は寝入った一行を見回す。今、彼のスタンドと対峙しているのは承太郎とジョセフとポルナレフの三人。花京院と千里の姿は見えないが、二人ともぐっすりと眠っているようだから夢の世界のどこかにはいるはずだ。男たちが寝袋にくるまって眠る中、ただ一人千里だけが寝袋を使用せずたき火の前で座ったままの姿勢で眠っていることが少しだけ気になったが、微動だにしないし杞憂だろうと赤ん坊は考える。たき火の明かりに映し出される横顔を注意深く眺めてみても、まぶたはぴくりとも動かなかった。ぐっすりと眠っている証拠だ。
 全員を一度に殺すのも悪くないが、まずは目の前の三人を。思考を切り替え、まずは目の前の馬鹿な男たちを始末しようと赤ん坊は結論を出す。髪の毛が伸びて近くの柱に絡み付いてしまったポルナレフ、襟につけたアクセサリーの鎖に首を締め上げられる承太郎、義手が巨大化してその重さ自体が枷となってしまったジョセフ。三人が三人滑稽な姿で動けない。どれだけその姿に笑ったところでマニッシュボーイに危険はなかった。自身が敵なのだと知られようとも所詮は夢の中、彼の独壇場である。それに夢から覚めれば彼らはなにも覚えていない。殺しそこねようが問題はどこにもなかった。

「それでは最後に『余裕ある勝利』と『ハッピーでさわやかな気分』を象徴した叫びを発させてもらおうかな〜」

 ラリホー。叫びかけたデスサーティーンの首が絞まる。ばきりと嫌な音がして恐る恐る肩越しに背後を見れば、見覚えのあるスタンドが一体。緑色の手が彼の首を締め上げる。いつの間にハイエロファントグリーンのスタンドを作り上げただろうかと疑問を抱いたが、手駒であろうとも今は必要ないのだから消そうと彼はハイエロファントグリーンの消失をイメージした。しかし一向に首元の感覚は消えない。それどころか首を絞める両手に力がこもる。ラリホー。聞き覚えのある声でハイエロファントグリーンが彼の台詞を奪った。

「ほっ、ほっ、本物の『法皇』! こいつは本物のスタンド! バ……バカなッ! この法皇はおれの作った偽物じゃあねーっ」
「あっ、花京院だ! 花京院はあそこだ!」

 奇妙な拘束が解けた三人が優雅にコーヒーカップに乗った花京院の姿を見つける。彼とてそう何度も主導権を取られるつもりはなかった。強敵とはいえ、所詮は赤ん坊。いいように手玉に取られては大人の沽券に関わるというものである。

「ぼくがさっき気を失ったとき『法皇』を出していたのを忘れたのかい? そして法皇を地面に潜り込ませ隠したのさ。眠りに入る前にね……」

 仲間たちの信頼を回復し、合流したところで花京院は気が付いた。一人足りない。千里がいないのだ。夜になれば彼女も眠る。眠れば赤ん坊のスタンドによってこの世界に引きずり込まれるはずだから、どこかにいるはずだと花京院は予想していた。

「千里は一緒じゃないのかい?」
「いいや。おれたちがこの世界にきたとき千里はいなかったぜ」
「ま、まさか、すでに千里はやられたのか……ッ!」

 ジョセフが顔を青ざめさせる。プラネット・スマッシャーズのない千里などただの女の子だ。大の男三人がかりでもデスサーティーンに苦戦しているのだから、無力な少女などひとたまりもない。どこからも銃声や騒ぎは聞こえないため、最悪の想像が脳裏を過った。しかし承太郎だけがそれを否定した。

「いや、あいつは眠っていないはずだ。おそらくすでに……気が付いている」

 言葉は推測ながらもその声色は断定していた。おそらくたき火の前に座って目を閉じているだけなのだろう。以前過ごした夜を思い出しながら承太郎はデスサーティーンに視線を向けた。現実世界の赤ん坊に身を守る術はない。

「いいのか? おれたちばかりを気にしていて。あいつは赤ん坊相手でも決して容赦はしねえぞ」

 はっとしてマニッシュボーイは意識を現実に切り替えた。夢の中ではずっとどうやってハイエロファントグリーンを倒そうかとばかり考えていたために、現実に向ける注意がおろそかになっていた。さすがに夢の世界と現実を同時に意識することは難しい。どうやったって一方に傾いてしまう。彼は恐る恐るたき火の方へと振り返る。そして一気に血の気が引いた。
 ぱちぱちと小さく爆ぜる炎の明かりに照らされて、なにを考えているかわからない鋭い灰色の瞳が確かにマニッシュボーイを捉えている。座ったままの姿勢は変わらず、頭だけをそちらに向けた千里が瞬きをしていなければ石像と見間違えたことだろう。その右目に感情はない。

「ば、ばぶー……」

 必死にあどけない表情を浮かべ、苦し紛れに無垢な素振りを見せる赤ん坊を千里がしばらくじっと見つめる。たらりと冷や汗がマニッシュボーイの額から流れ落ちた辺りでおもむろに彼女は立ち上がった。ゆっくり赤ん坊に近付き、片膝をつく。なにをする気かとマニッシュボーイは身構えた。夢の中では無敵とはいえ、現実では非力な赤ん坊である。大声で泣き出してやろうかと思うも、それでは寝入っている一行を起こしてしまう。
 ならば先にと夢の中のデスサーティーンは空に浮かぶ雲を集めて手の形を作り、大鎌を握らせてハイエロファントグリーンを腹部から自分ごとまっ二つに切り裂いた。どうせ死神の本体は胸部から上しかないのだから腹部を切り裂いたところで支障はない。だが完全な人形であるハイエロファントグリーンはそうはいかない。上半身と下半身が別れることは必須である。これでまずは危険因子を一つ片付けられた。スタンドを連れている花京院さえ始末すれば、残る三人は敵ではないからだ。しかし安堵する暇など赤ん坊にはない。内心冷や汗を流し続ける赤ん坊に対して、千里は手榴弾を発現させた。途端に赤ん坊の顔が強張った。小さな瞳は間違いなくそれを凝視している。

「……やはりか」

 酷くつまらなそうに千里は呟き、ぱっと手榴弾を手離した。びくりと大きくマニッシュボーイは体を震わせる。しかし手榴弾は地面にぶつかる前に消え失せてしまい、からかわれたのだと彼が気付くころには夢の中のデスサーティーンは紐状になったハイエロファントグリーンに耳から体内へと侵入されていた。これが夢の中だけに集中できてさえいればハイエロファントグリーンが紐状になって大鎌の攻撃を避けたことに気が付けただろう。しかし残念なことに彼の敵は夢の中と外、それぞれにいる。絶望的な状況と言って差し支えないだろう。
 千里がたき火の前に戻ってしばらくして寝袋にくるまり眠る全員が静かになり、また赤ん坊は真っ青な顔をして自身の寝床に戻って行った。夢の中の戦いに決着がついたのだと理解した千里はたき火に燃料を投げこんだが、ふと思いついて赤ん坊に近づいた。まだなにかされるのかと顔面蒼白の赤ん坊を無視し、手榴弾をいくつか発現させる。そしてそれを赤ん坊が横になる籠の中に投げ込んだ。赤ん坊の力ならば手榴弾のピンを抜くことはできない。脅しならそれだけで充分だ。そしてたき火の元へ戻って再び腰を下ろす。
 千里には赤ん坊のスタンドが具体的にどのような能力かはわからないが、花京院が何度も悪夢にうなされていた様子や、彼が口にした夢の中、という単語からなんとなくは理解している。手榴弾に対する赤ん坊の反応からスタンド使いであることは確実であるし、また寝袋にくるまった一行がやかましくうなされているため夢の中で戦っているのだろうとも考えていた。男たちの呻き声ばかりでは眠気も吹っ飛ぶ。むしろ黙らせたいと思ったほどだ。
 たき火に燃料を投げ込む。赤ん坊を殺すつもりはなかった。なぜなら一行が完全に敵スタンドの術中から脱したのかがわからないためと、ここで赤ん坊を殺して果たして夢の世界から解放されるのか確証がなかったからだ。術者が死んで一行が夢の世界に閉じ込められては今後の旅に支障が出る。男四人の死体など相手にしたくなかった。
 数時間後、東の地平線が明るくなり、太陽が昇ってくる。最初に起きたのは花京院だった。

「おはよう、千里」

 昨夜までの彼とは打って変わって憑き物が落ちたような、すっきりとした表情の花京院は千里に朝の挨拶をし、おもむろに赤ん坊に近づいた。そして思わずくつりと小さく笑う。手榴弾に囲まれた赤ん坊の表情が酷く滑稽だったからだ。