朝の献立

 砂漠のど真ん中でセスナ機を墜落させたという、彼らからしたら慣れきってしまった悲劇から一夜明け、SPW財団に救助された一行は赤ん坊を次の町で降ろし、またしばらく砂漠を進んで再び船に乗り換える。そこから紅海を渡ればついにエジプトだ。そこに彼らの目指す吸血鬼がいる。
 赤ん坊がタロットの死神の暗示を持つスタンドだったと後でこっそりと花京院から聞かされたとき、千里の眉がほんの少しだけ、本当にほんの少しだけしかめられたのだが彼は気が付かなかった。彼女の手が思わず首筋の傷口に触れてしまったところでなにかがあったと把握したくらいだ。もちろんそこで尋ねたところで千里から回答を得ることはない。彼女がなぜそれに反応したのか花京院が知るときはきっと訪れないだろう。マニッシュボーイが知っていればぺらぺらと喋っていたことだろうが、あいにく赤ん坊は知らなかった。知らないことが幸いしたとも言えた。
 クルーザーの航路が大きく西にそれ、無人島らしい小さな島に到着した。エジプトに入る前にある人物に会わなければならない、とジョセフから島へ訪れた理由を告げられても、それが島内が安全であることとイコールではない。皆がクルーザーから下りる中、千里だけが船上に残った。こんな無人島然の場所で船を壊されでもしたらまた足止めを食らうこととなる。大丈夫という言葉は大丈夫でないとよく理解しており、警戒心を持つのは常に彼女ばかりだ。
 草陰から誰かが一行を見ていたが、その視線に敵意が含まれていない時点で船上からそれを眺めていた千里の意識の範疇から追い出されてしまっていた。この島に住民がいたところで、さして驚くほどのことでもない。それがジョセフの言う目的の人物だとしても彼女にとってなんの関係もなかった。正体に興味はない。時間が限られているにも関わらず、こんな辺鄙な島に立ち寄ることに対しての若干の不信感といらつきはあったが。無駄な行為は非常に無益だ。
 ジョセフたちが人陰を追いかけて島の奥へ行ってしまってから千里は一人クルーザーの甲板にいた。S&W M19の手入れをしたりガン・カタの真似事をしてみたりと、相変わらずの時間の過ごし方を選択していた彼女はぴたりとその動きを止めた。クルーザーに近付く人陰を彼女は看過しなかったのである。
 年の頃はポルナレフと同じくらいか、見知らぬ青年、しかも赤の他人に見せる表情をしていない。明らかな敵意を向けられれば推測する必要もない。牽制の意味を込めて千里はプラネット・スマッシャーズを発現させて、発砲する。男の足元の砂が飛び散った。

「ごきげんよう。ミス・クオレマ」

 悪意と敵意をたっぷりと乗せた笑みを向けられ、千里が静かに殺気立つ。こういう敵は大抵ろくな人間ではない。だがそんな千里の反応にも構うことなく、自身のスタンドを発現させることもなく青年は口角を上げた。

「死神の暗示のスタンドを持つマニッシュボーイを倒したと聞いてね。嬉しいだろう? これで晴れておまえが死神だ」

 死神。その単語を耳にした途端、千里の眉がわずかに跳ね上がった。そしてこの場に自分一人でよかったと、頭の片隅で考える。彼らはお人好しの詮索好きな迷惑な男たちだから、話が拗れて面倒になることなど火を見るよりも明らかだからだ。いちいち首を突っ込みたがる迷惑な人種である。
 マニッシュボーイが誰か、など興味はない。だがその人物があの赤ん坊だと推測するのは簡単なことだ。死神の暗示を持っていると花京院から聞いていたために小難しく考える必要もない。
 少女の穏やかならぬ物々しさを察したと同時に敵が猫のような瞳を細めた。それはもう、嬉しそうに。

「喜べよ。DIO様が名付けてくださった名前だろ。それにおまえのスタンドも立派な死の暗示だ。死を操り司る、立派な死神じゃあ……」

 プラネット・スマッシャーズが火を吹いた。その一発は青年の声を遮りながら、たしかにその顔面を貫いた。酷く冷徹な、冷えきった鉄のような右目は確かに敵の顔面から血が噴き出す瞬間を目視した。しかしそれを確認した瞬間には敵の顔面には傷一つなく、また血液の一滴も付着しておらず、不愉快な薄ら笑みを浮かべているのみだった。まるで銃弾が当たったことが幻だったような。

「おいおい、人の話は最後まで聞くのがマナーってもんだぜ? 別におれはおまえを殺しに来たんじゃあない。親切に助言しに来ただけなんだから、そう……」

 アサルトライフルがフルオートで銃弾をばらまく。青年の顔面から上半身にかけて二、三十発ほどのカービン弾が撃ち込まれ、頭が粉々に砕け散った。肉片が、骨片が、血糊が、脳髄が飛び散る。そこにとどめと言わんばかりに追加の手榴弾が投げ込まれた。
 しかし結果敵は無傷だった。撃たれている最中は確かにザクロのようにぐちゃぐちゃな顔面になっていたにもかかわらず、千里の攻撃が終了した瞬間にはほんのわずかな擦り傷すらもなかった。それがスタンド能力のせいなのだと理解する必要はない。考えずともわかることだからだ。
 新たなアサルトライフルに切り替えて再度構える。しかし千里が瞬きした一秒にも満たない一瞬で正面から青年の姿が消え、同時に背後で声がする。千里の首筋を男の指が這った。

「だから、殺しにきたんじゃあない。雑談を楽しむくらいの心の余裕は必要だってのに、まったく躾のなっていない野良犬だな」

 少女の全身からにじみ出る殺気を青年はせせら笑い、彼の体から伸びた腕がするりと彼女の手からアサルトライフルを奪い取り、投げ捨てる。その間も青年の指先はぬるりとマフラーの下に潜り込んで首筋をなぞり、彼女の嫌う傷口を撫でた。思い出したくもない屈辱を強制的に記憶の中から引きずり出されて千里の表情がどれだけ厳しくなろうとも彼の場所からは決して見えないが、見えたところで態度を崩すこともないだろう。
 そして青年が楽しそうに語り出す。きっと酷く愉快なのだろう。口角がずっと上がりっぱなしだ。

「この島にいるのはおまえと同じ審判の暗示を持つスタンド使いだ。だがあっちは正位置でおまえは逆位置……おまえの仲間はそいつを倒しておまえを正位置にしようとしているらしいが……残念だったなあ。おまえは最初から死神の正位置だってのにな」

 全身に意識を張り巡らせて敵の隙を窺いながら、そういえばそんな暗示を受けていたと千里は思い出す。敵も味方もタロットカードの暗示を与えられていることを忘れていたわけではないのだが、彼女は占いを信じるような性格ではないためにまったく意識していなかったのである。そのため自身のタロット暗示が審判であったことも、それにこめられた意味も運命もすっかり失念していた。ゆえに自身のタロットが審判であろうと死神であろうとまったく興味がなかった。しかし興味がないと言えども、死神だと言われるのは好ましくない。

「なあクオレマ、おまえは悪だ。自覚がなかろうともDIO様と敵対しようともおまえは間違いなくこちら側の人間だ」

 青年の指が首筋の傷にねじ込まれ、彼の体から伸びた腕がリボンタイをするりと抜き取る。猫のような瞳が弧を描く。対照的に千里の隻眼はますます鋭く研ぎ澄まされる。

「躊躇なくおれを殺そうとした。それが証拠だ、それが答えだ。少なくとも善じゃあない。おまえの根源は真っ黒な悪だ。だからおまえは死神と名付けられた。最後の審判を下すのが死神だってなんら不思議なことはない。――ほうら、やっぱりおまえが死神だ」

 以前どこかで聞いたことがあるような口上が千里をさらに不愉快にする。よく喋る口だと思いつつも、背後を取られた上に首を押さえられてしまっていては反撃のチャンスも望めない。その不愉快なお喋りを黙って聞く以外にできることはないのである。
 このまま黙っていればジョセフたちの誰かが戻ってくる可能性はあった。千里の目は自身のマフラーから長く伸びる緑色の細い絹糸の存在に気付いている。さすがに同じことを何度も繰り返されればいい加減気が付くというものだ。どれだけ他人のことを気にするのかと思う一方で、敵の話がすべて筒抜けであると考えると面倒だとも思う。周囲が好き勝手に騒いでいるだけなのだから、その矛先を自身に向けられるだけで迷惑だ。

「さて、ここで親切に助言をしてやろう。DIO様に忠誠を誓えば死神のままでいられるが、刃向うというのならおまえは審判だ。――忘れたのか? そもそもおまえのタロットの暗示は死神の正位置だっただろう」

 敵の言葉を深く考える気のない千里は知らない。なぜなら覚えていないからだ。肉の芽を植え付けられていた数日間の記憶はしっかりあると彼女は思い込んでいるが、そのところどころに穴があることに気が付いていない。