花京院の耳にはすべて聞こえていた。生い茂る木々や草葉のざわめく音に掻き消され、また浜からかなりの距離があるために他の者たちには聞こえていない音も彼のスタンドはすべて拾っていた。銃声も爆発音も、知らぬ男の声もすべてハイエロファントグリーンを通して筒抜けである。千里を一人にすることについて花京院はいつも心配する。ゆえに自身のスタンドの特性を利用した。覚えているだけでも三度目のことだ。こういうとき彼のスタンドは非常に便利である。
スタンドを介して聞こえていた激しい銃声がぴたりと止んだ時点で花京院は走り出していた。驚くジョセフと承太郎に「千里が敵に襲われている」と短く言葉を残し、草木を掻き分け、来た道を駆け戻る。ハイエロファントグリーンを発現させてその触脚が伸びる先を辿りながら、その間にもあちらの状況に耳を傾け続ける。敵の独白が続いており、その内容が千里の気に障るものだと把握した。彼女は自身のテリトリーに踏み込まれることを酷く嫌う。他人は他人だ、というスタンスを貫くゆえに絶対に胸の内を見せようとはしないため、無遠慮な詮索を嫌がるのだ。相手が理解者面をしていればなおさらのこと、彼女は排除も厭わない。今まで幾度も花京院が踏み込んでしまった部分であるからよくわかる。
いつもなら即座に反撃するだろうに銃声の一つも聞こえないとなると、おそらく千里は動けない状況にあるのだろう。千里がプラネット・スマッシャーズを発現させていればそれを介して会話が可能になるが、彼女がスタンドを発現させていないとなると、一方的にあちらの様子を傍受するしかない。
千里と接触している敵とはまた別の敵がこの島にはいるようで、なんて面倒なんだと花京院は小さく舌打ちながらもなお走る。もう一方の敵はポルナレフとアヴドゥルの方に現れているかもしれない。ほんの数日前に退院したばかりのアヴドゥルのことも気になったが、今はそれ以上に千里を懸念する。
『デスサーティーンがいなければおまえが死神クオレマだったのにな。あいつの方が現れるのが一歩早かった。だがあいつが引いたのは逆位置だ。所詮、おまえの代替品さ』
敵の話はなおも続く。それはまるで子供に言い聞かせるような口調で、千里を引き戻そうと説得しに来たのかと最初は花京院も思ったのだが、どうやらそうではないとしばらくして気が付いた。言葉の端々に含まれる悪意と嘲笑。敵の目的は説得なんて生易しいものではない。千里の内側をえぐり、さらけ出そうとする単純な嫌がらせだ。
『ジョースター側についたおまえは審判の逆位置の暗示を受けたらしいが……知っているか? 死神の正位置にも審判の逆位置にも共通する意味があるんだぜ』
男の声に呼応するように猫の鳴き声がした。この島に猫がいるのだろうか。それを考えるほどの余裕など今の花京院にはない。敵の言葉を一言一句聞き漏らすまいと集中する。
脈絡がありそうでない一方的な話を耳にし、一体千里はなにを考えているのだろうか。花京院は考える。きっと静かに怒っているに違いない。なぜなら彼女は静寂の中に激情を秘めているから。
『運命が変わろうともおまえに与えられた暗示は破滅だ。本来仕えるべき最高神を裏切った死神には最後の審判が下されるぞ。――ああ、もうすぐお仲間が来るな』
気付かれてたかと理解して触脚を引いたのと茂みから飛び出すのはほぼ同時であった。そして敵と千里の姿を認め、花京院は瞠目する。どこにもいない猫が鳴く。
クルーザーの上で青年が楽しそうに笑った。しかしその目にこめられているのは悪意だけだ。人質のように千里を自身の前に立たせている。彼は片手を千里の首筋に這わせながらもう一方の手で腕を締め上げていた。リボルバーは変わらず千里の左腰にぶら下がるホルスターに収められており、彼女の手はそこに添えられている。いつでも抜く準備はできていると言わんばかりの様子を青年が見過ごしているはずがないだろうにあえて自由にさせているということは、抜かせない自信があるからだろう。もしくは銃など脅威に思っていないか。リボンタイが血溜まりのように彼らの足元に落ちていた。
「なあんだ。DIO様の前でゲロを吐いた花京院くんじゃあないか。もう大丈夫なのかい? また吐くならエチケット袋の中にしてくれよ」
「千里を離せ」
「嫌ぁだよ」
笑う敵の影からぬるりと小柄な影が滑り出た。頭部を真っ黒に塗り潰されたそれがにゃあと鳴く。満月のような猫の目がぎょろりと動いた。敵のスタンドは長いしっぽを揺らしてクルーザーの先端で子供のようにくるくる回る。首輪の鈴がちりちり鳴った。
「ちょうどいい。花京院くんも再びDIO様に忠誠を誓わないか? 恐怖なんて忘れさせてくれるぞ。毎晩安心して眠れるなんて幸せじゃあないか」
「それはお断りだ。ぼくは二度と恐怖に屈しはしない」
「それは残念。屈伏するのも一つの勇気だとおれは思うけどねえ……」
愉快だと言わんばかりの表情はまったく残念がってはいない。すべてが想定の範囲内だと言いたげで明らかに挑発している。相手の神経を逆撫でしようとしているのは明白だ。
それまでくるくると回っていたスタンドがぴたりと動きを止めた。クルーザーの先端より花京院の背後をじっと見つめているような様子を見せたのち、小さく鳴いてずるりと溶けるように影の中へと滑り込んだ。
「あーあ、正義のヒーローの登場だ。これじゃあ悪役は退散しないとな」
つまらなそうに鼻を鳴らし、爪先をいっそう深く傷口にねじ込む。えぐられる千里の白い首筋を血がか細く流れ出す。しかしマフラーの下で行われている行為のために花京院には見えないし、千里も鈍い痛みに眉根すら動かさない。
敵のくせに殺意はない。その反面たっぷりと浮かべられている悪意と嘲笑。彼らを殺そうとする意思はないが、なにもしない理由にはならない。彼が残すのは溢れんばかりの悪意だけだ。
「死神は最高神の忠実なるしもべだ。教皇じゃ神の断罪から死神を救えやしない」
歌うように言い、ぱっと男の手が千里から離れた。千里は即座に反転して左腰からS&W M19を抜き取り、発砲した。超至近距離から放たれた弾丸は確かに眉間に命中し、その血飛沫は間違いなく千里の顔面に吹き付けられた。新鮮な血液の生温かさと鉄臭さを彼女は確かに感じ取る。
しかし一呼吸後、血液など千里のどこにも付着していなかった。生温かい鉄独特の臭気さえ残っていない。なにもないとしか言いようがないのだ。撃ち出した弾丸だってどこにも残っていない。それを理解するよりも早く、千里は直感的に右手にプラネット・スマッシャーズを発現させて背後に向ける。そうそう何度も背後を取られるつもりはなかった。
「迷子の迷子のプッシーキャット。もう二度とおまえたちと会うことはないよ」
しかし男はクルーザーから降り、さらには花京院の背後にいた。スタンドを傍らに発現させて、やっぱり笑っている。花京院がハイエロファントグリーンを出すより、千里が引き金を引くよりさらに早く、敵の姿が消えた。一瞬蜃気楼の揺らいだかと思った次の瞬間にはどこにもいなかったのである。そして千里がプラネット・スマッシャーズを消したと同時に承太郎とジョセフが現れる。彼らは敵の姿を確認することができなかった。