プロメテウスの創造物

 ゆったりと巻かれた緑色のマフラーは千里の首の傷はおろか、カッターシャツの襟元までしっかりと隠してしまっていたため、誰もその出血には気付かない。彼女自身も急所ながら傷口がそこまで深くないと分かった途端に放置である。止血するほどの出血ではない。それにそこまで頓着する性格でもなかった。襟ぐりが汚れようと知ったことではない。

「おい!! みんな驚くなよッ! 誰に出会ったと思うッ!」

 遅れて一行と合流したポルナレフは負傷しているにも関わらず、喜色満面に現れた。腰を抜かすほどの驚きを引っさげて戻ってきたというポルナレフは間違いなく一行が驚くだろう未来を予測し、そして自身の思い描く感動の演出を遂行できると確信していた。

「なんとッ喜べ! パンパカパーン! アヴドゥルの野郎が生きてやがったんだよォ! オロロ〜〜ン!」
「――さ、出発するぞ」

 しかしポルナレフの予想を反して一行の反応は恐ろしいほどに冷ややかであった。アヴドゥルが姿を現しても特に驚くこともなく、彼がここにいることが当たり前だというような反応を見せたのである。残念ながらポルナレフを除く全員がアヴドゥルの生存を知っていた。彼が生きていたと知らなかったのはポルナレフばかりである。口が軽いから知らされなかったというのだから、ポルナレフは相当信用されていないようだ。
 アヴドゥルがわざわざ身を隠してこの島に来た理由はただ単に仲間たちと合流するためだけではない。敵わざわざ返送してまで彼が用意したものは潜水艦だった。敵の目を欺くために海中を通ってアフリカ大陸に上陸するのだとジョセフが説明する。こんな孤島までしっかり敵に捕捉されているのだから無事に紅海を渡ることなど決してできないだろうと千里は思ったのだが、決して口にすることはなかった。言ったところでどうにかなるわけでもないからだ。

「千里」

 十数日ぶりに聞いた声は以前のそれとまったく変わりがない。三日前に立てるようになったにしてはまったく衰えを見せない男に呼ばれ、千里は思考を止めて振り返った。まさか呼び止めることができると思っていなかったアヴドゥルは彼女の行動に瞠目するも、この旅がなにかしらいい影響を与えているのだと思うと微笑ましいものを感じる。頑なに凍りついた彼女を彼らは確かに溶かしつつあると。

「あのとき、きみがすぐに応急処置をしてくれたから生き延びることができた。礼を言いたい……ありがとう」

 相変わらずなにを考えているかわからない瞳がアヴドゥルを一瞥する。戦いにより彼女は隻眼になったとジョセフから聞いていた。髪も短くなった。インドにいたころよりも全身の傷も増えたことだろう。彼女は常に第一線に立ちたがる。それは相変わらずのようだ。
 千里は決してアヴドゥルの身を案じたり、労りの言葉をかけることはない。それは他人に対して興味関心がないと言えるし、また結果だけを見ているとも言えた。インドで致命傷を受けようとも結果としてアヴドゥルは戦線に復帰した。おそらく、それだけのことと彼女は思っているのだろう。彼女の興味の範疇など誰も知らない。

「――ところで。分かれば教えてほしいのだが、わたしはきみになにかを貸していたかな?」

 それはインドの病院に収容された際、耳にしたことだった。千里は意識を回復したアヴドゥルの見舞いには来なかったが、あらかじめ承太郎に託けていたらしい。律儀にも承太郎はそれをアヴドゥルに伝えていた。つまり「借りは返した、だとよ」だ。なにかを貸していただろうかとアヴドゥルは病床の中で首を捻るも、まったく覚えがない。貸し借りするほどのことをした記憶の断片すらないのだ。答えを期待してはいなかったが、それでもずっと考えていたことである。単純に聞いてみたくなったのだ。
 千里の言う“借り”にさっぱり心当たりはないが、彼女は案外義理堅いらしい。それが意外だと思ったのは確かである。アヴドゥルが覚えていないほどの、貸しとも言えないほどの些細な事柄でもきっちりと千里は覚えているらしかった。言葉はないから推測でしかないのだが。どこまでも誠実で義理堅いと捉えるべきか、些細な貸し借りですら嫌がるのか。解釈のしようはいくらでもあるが、アヴドゥルは当然前者を選ぶ。なぜなら千里は彼らの仲間だからだ。
 やはりアヴドゥルの予想通り、千里はなにも言わなかった。アヴドゥルに向けていた視線を戻し、さっさと潜水艦に乗り込んでしまう。相変わらずだと彼は思いつつも、いつかもっと心を許してくれる日が来るのだろうと予測する。確かに千里は変わりつつある。
 本物の潜水艦に乗ることなど滅多にないことだ。しかも決して安い買い物ではないだろうにいとも簡単に購入に踏み切る祖父が馬鹿なのかどうなのか承太郎にはわからない。海底を進むというアイディアは評価できようが、それがジョセフ発案だとなれば事情は変わる。なにせジョセフには前科がある。敵の妨害によるものが多々あるも、それでも飛行機からラクダまで一つも安全な乗り物はなかった。おそらく徒歩が一番安全なのだろうと思っても口にはしない。その皮肉にジョセフが拗ねてしまうだろうことは想像するに容易い。
 潜水艦の設備は必要最低限のものだろうと予測していた花京院はコーヒーや人数分のカップがしっかりと揃っていることに素直に感心した。潜水艦に乗るのはこれが初めてになる彼にとってそれが当たり前の設備なのかまではわからなかったが、少なくともラクダよりは快適だと思った。あの独特な歩き方から生じる揺れは少なくとも心地好いものではなかったからだ。

「おい! アフリカ大陸の海岸が見えたぞ。到着するぞッ!」

 潜望鏡を覗いていたアヴドゥルが歓声を上げる。艦内に響いたその声に一行は弾かれたように顔を上げ、地図を広げるアヴドゥルに近寄る。ただ一人、千里だけがそれを無視してずっと資料を読み続けていたが、すでに見慣れた光景だ。だが彼女とて緊張感は抱いている。その証拠に資料に向けられる瞳はいつも以上に真剣である。残り数日で一つでも多くの情報を得ようとしているようにも見えた。
 淹れかけていたコーヒーを人数分入れてテーブルに運んだ花京院は少し考えたのちカップを一つ、未だ書類を読みふける千里に差し出した。しかしそれを彼女が受け取らないとなれば静かに近くにカップを置き、今はなにを読んでいるのだろうかと千里の手元を覗き込む。図とともに英文が並ぶそれはSPW財団の調査と研究の結晶の一つであり、そして吸血鬼について論じられていた。千里がそれを読む目的はもちろん花京院も理解している。何度読み返しているのだろうそれはどこかくたびれており、そしていくつか書き込みを見つけることもできた。千里の性格をよく表したような固いアルファベットがきっちりと並んでいる。書き込みが多い割には決して資料自体が読みにくくなってはいないあたり、無闇矢鱈に書き込んでいるわけでもなさそうだ。
 ふと彼女の母国語は英語なのだろうかと考えてから、さて千里の国籍はどこだったかと花京院は思案し、そういえば彼女の国籍はおろか出身も知らないことを思い出す。それどころか年齢もなにも知らない。知っているのは二つ名やタロットの暗示くらいのもので、千里が嫌うようなものばかりだと思い至った。未だ花京院は彼女についてなにも知らない。
 以前に千里のことを知りたいと本人に面と向かって言った記憶があるが、あれからかなりの時間が経過したにも関わらず、花京院の立ち位置は以前とほとんど変わっていない。それでも千里についての情報が皆無というわけではないのだが、どうも花京院は無欲な性格ではないらしい。もっと知りたいと際限のない欲求が彼を刺激する。
 その根源は酷く簡単なものだ。同じ地を目指して何日も寝食を共にしていれば情もわく。誕生日にはおめでとうの一言を言ってやりたいと思える程度の感情は抱いていた。しかし誕生日にプレゼントを渡すとしたら、なにを渡せばいいかが分からない。好みも趣味も分からないのだから選びようがない。友人ならばそのくらいのことは知っておきたかった。