潜水人形

「おい……花京院。なぜカップを七つ出す? 六人だぞ」
「おかしいな、うっかりしてたよ。六個のつもりだったが………」

 テーブルに並べられたカップの数に気付いた承太郎が指摘する。千里のそばに置かれたカップを引いても六つ。やはり一つ多い。確かに最初カップは六つあると確認したはずなのにいつの間に七つも用意してしまったのだろうかと花京院は首を捻るも、間違いなく一つ多い。
 深くは考えず六つのうち一つをジョセフが手に取り、口に近付けた。その瞬間カップは弾けて二本の腕が生え、鋭い爪がジョセフの義手を切り飛ばす。さらには義手の指をも切り飛ばし、ジョセフの首に突き刺さる。カップだったものが床に落ちると同時に顔面から腕の生えた異様なスタンドが姿を表した。

「バカなッ! スタンドだッ! 艦の中にスタンドがいるぞッ!!」

 アヴドゥルの声を掻き消すように一発の銃声が艦内に響く。資料を投げ出した千里の右目はすでに敵を捕捉していた。しかし銃弾は計器の一つを破壊したにすぎなかった。すでに敵スタンドの姿はどこにもない。姿を消したのではなく、コーヒーカップに化けていたのと同じように無数にある計器のどれかに化けたのだと彼らは気が付いた。

「千里! 艦内で銃を使ってはならないッ!」

 アヴドゥルが叫ぶ。今はメーターを壊しただけだったからよかったものの、分厚い艦内の壁に当たれば跳弾するおそれがあった。千里もそれを諒解してかスタンドを消す。プラネット・スマッシャーズが使えなければ当然左腰のS&W M19も無用の長物となる。完全な丸腰となった彼女は腰を低くし、周囲の気配に意識を張り巡らしながらゆっくりと壁から距離を取る。

「『女教皇』だ。敵は『女教皇』の暗示を持つスタンドだ」

 記憶の中から探し当てた敵の正体をアヴドゥルは呟く。鉱物性のものを始めプラスティックやビニールなどの人工物にも化けることができ、攻撃してくるまでは決して見分けることができない厄介なスタンドは質の悪いことに遠隔操作型のため、本体は海上にいるだろうとアヴドゥルは察していた。だが潜水艦という密閉された空間にどうやって入ってきたのかとポルナレフが疑問を口にしたところで、彼の背後から激しい水音が上がる。理由は酷く単純なものだった。女教皇の能力ならば潜水艦に穴をあけること程度造作もない。
 しかも敵のスタンド使いは馬鹿ではなかった。丁寧にも潜水艦の浮上システムを破壊していたのである。浮上できなければ沈むしかない。これまでの例に漏れず、潜水艦は大破した。つまり海底に激突したのである。

「花京院……スタンドのやつ、どの計器に化けたか目撃したか?」
「た……たしかこの計器に化けたように見えたが……」

 無数の計器の中から花京院が指差したその一つに対して承太郎はスタープラチナの拳を向けた。攻撃されるまで見分けることができないとしても、敵とて攻撃されるまで悠長に眺めているはずがない。花京院が指差すそれが敵の化けたそれであれば、破壊する価値はある。

「違うッ! 承太郎ッ! もう移動しているッ! 花京院のうしろにいるぞッ!」

 花京院の背後の機器が歪んだ瞬間をアヴドゥルは見逃さなかった。咄嗟に仲間に警告を発したはよかったが、同時に女教皇は花京院の首を狙って飛び出す。アヴドゥルの声に気を取られて彼の方へ意識を向けたのが幸いしてか、敵スタンドの鋭い爪は花京院の首筋を擦っただけだった。壁から飛び出し無防備になった敵スタンドをスタープラチナの拳が狙うも、間一髪で避けられてしまう。

「みんなドアの方へ寄れ! い……いつの間にか機会の表面を化けながら移動しているんだッ!」

 隣室に逃げ込み、密室にして敵を隔離するとのアヴドゥルの指示により一行は隣室につながるドアに後退る。その間にも壁に開いた穴から海水はどんどん入り込み、すでに膝下まで水位は上昇していた。浸水スピードは早い。攻撃手段のない千里が四方に気を配りながら最初に隣室に滑り込む。次いでアヴドゥルがドアの取っ手を掴んだ瞬間、敵スタンドが姿を現した。すでに敵は壁を移動してドアの取っ手に化けていたのである。アヴドゥルの腕を切断しようと鋭い爪を振り下ろす敵を今度こそスタープラチナが捕捉し捻り潰そうとしたが、その手の中で剃刀に化けられておもわず手を離してしまう。その隙にハイプリエステスは逃げ出して再び壁と同化した。敵を見失う。
 全員が隣室に逃げ込み、さらに脱出用の区画にまで移動したはいいが潜水艦の中では逃げ場などたかが知れている。潜水艦から脱出したところで海面まで四十メートルもある上、急上昇すれば減圧症を起こして最悪肺が破裂する。だが生身でゆっくりと浮上するなどできるはずもなく、結果彼らの選択肢はスキューバーダイビングしかなかった。万が一に備えてか、人数分の機材がしっかりと用意されている。だが都合の悪いことにジョセフ以外の全員が未経験者であった。
 とにかく悠長にしている暇はないと機材を装備する一行の中で千里だけがなにかを思案している様子を見せていた。それに気付いた花京院がどうしたのかと声をかけるも、当然のように彼女から返事はない。ジョセフの説明を聞いている様子ではあったが、BCジャケットとフィンを身につけただけでタンクを背負おうとする気配がない。流石に彼女も不安を覚えたのだろうかと思った花京院だったが、すぐにその考えを打ち消した。背負ってみればわかるタンクの重さを千里は予測したのだろう。すでにすべての機材を装備した花京院が実感する重さは生半可なものではない。一歩も動けなくなるほどの重さではないにしてもそれはあくまで花京院の場合であって、筋力の差から千里にはそれ以上の負荷になることだろう。敵の襲撃を警戒して脱出ぎりぎりまで背負わないつもりなのかもしれないと花京院は思った。足手まといは彼女の嫌うところである。
 花京院に次いで千里の様子に気付いたのはポルナレフだった。しかし彼は花京院と同じ思考をたどることはなく、深く考え込む前に一つの結論に至る。酷くシンプルで簡単な答えだ。そこに至った途端、ポルナレフの口元に深い笑みが浮かんだ。

「はっはーん。千里、お前……もしかして、泳げないのか!」

 鬼の首を取ったようにはしゃぐポルナレフの声にそれまで説明を続けていたジョセフの声が止まった。承太郎とアヴドゥルの意識もそちらへとそれる。そして彼の言葉と千里の様子を見て状況を理解し、その視線が一点に集中する。彼らもまたポルナレフに近い疑念を抱いたのだが、そのような中でも千里だけは変わらず冷静であった。ジョセフがその真偽を問いかけたところで彼女は恥じるそぶりすらも見せない。

「――泳いだことがない」

 臆面もなく平然と言ってのけた千里の言葉に一行は凍りつく。スキューバーダイビングをしたことがないならまだ理解できた。そうそう当たり前にするようなことではないからだ。また、泳げなくてもまだ分かった。さすがの彼女にも苦手なことがあるのだと笑い話にできたことだろう。しかしそう易々とはいかない。千里は泳ぐという行為に対してまったくの経験がなかった。まず水に入るという行為など浴槽に浸かるくらいのものだ。しかもそれも十年近く前に途絶えている。浴槽に浸からない生活が当たり前となっているのだから仕方がない。
 しかし千里はそのことについてまったく危機感を持っていなかった。問題にするほどのことでもないと思っている。不安を抱いたところで無駄であると理解しているからだ。泳いだことがないと不安がったところで泳がずにすむわけでもない。それよりも彼女は資料を置いてきたことに対してわずかながら残念に思っていた。すでに水没してしまっているだろう部屋の中で浮遊しているであろうそれらは敵を知るための貴重な情報源であったが、また頼めば手に入るだろうと思い直してすぐに思考を切り替える。S&W M19が海水にたっぷりと浸ることもやや気になってはいたが、リボルバーは単純な構造のためそこまで影響はないだろうから陸に上がったときに分解して手入れすればいいと考えた。これで彼女の中に残る憂いはなくなった。
 当の本人がそんなことを考えているとは露知らず、言葉を失う一行の中で真っ先に思考が戻ったのはポルナレフだった。彼としては千里は泳げないのだと邪推し、指差してしこたま笑ってやろうと心積もりしていたところを大きく空振ったのである。さらには常識の範疇を超えていたのだから度肝を抜かれたと言ってもあながち間違いではない。

「いやいや……嘘だろ! その年で泳いだことがないって、おまえ、山奥や砂漠のど真ん中にでも住んでたのかよ!」
「許可されていなかった」
「千里、“泳いだことがない”だけだな? “泳げない”わけじゃあないんだな?」

 念を押すようなジョセフの問いに対して恥じてはいないが決して嘘ではない頷きが一つ。それを受けてよし、とジョセフは小さく呟いた。

「それなら問題ない。水を入れて加圧するぞ」
「ジョースターさん!」
「正確には泳いだことがない、じゃ。胎児は羊水の中で泳いどるらしいからな、問題ない」

 アヴドゥルを制してジョセフはハンドルに手をかけた。脱出区画満たし始める海水を一瞥してようやく千里はタンクに手をかけた。