「当然のことながら水中では喋れない……ハンドシグナルで話す……簡単に二つだけ覚えろ」
脱出区画が徐々に浸水して行く中、ジョセフは一行を見回しながら簡単なハンドシグナルを二つ行ってみせた。だが彼らはスタンド使いだ。スタンドを介して話をすればいいのではないかとアヴドゥルが意見すれば、あっさりとジョセフは頷いた。初心者ばかりのスキューバーダイビングを行う中でつつがなく意思の疎通ができることは非常に便利である。
「なあ〜んだ。ハンドシグナルならおれも一つ知ってるのによ……」
ポルナレフがどこか残念そうな様子を見せ、そしておもむろにそ自身の知るハンドシグナルを実践してみせた。そばにいた花京院がそれを解読する。
「パンツーまる見え」
「YEAAAH!」
ピシガシグッグ。意思の疎通が図れたことが嬉しかったのか、なにか通じるものを感じ取ったのか。そんなポルナレフと花京院を見て呆れたように承太郎が呟いた。
「……千里、おまえは最後尾だ」
命に関わる事態の中でも相変わらず呑気な一行を千里はただ冷ややかに一瞥しただけだった。さすがにタンクを背負ったまま立っているのは辛かったのか、片膝をついている。スキューバダイビングの機材はボンベを含めて二十キロはある。大の男たちは軽々とそれを背負うが、千里だけはそうもいかない。浮力がなければ背負えても易々と立つことは難しい。艦内に海水が満たされるまで腰を下ろしているしかなかった。
そしてポルナレフの冗談を予測していたかのように、いつもは首に巻き付けている深緑色のマフラーは広げて腰に巻いていた。マフラーを首に巻き付けたままスキューバーダイビングの器材を装備して泳ぐのは危険だとジョセフに指摘されたためである。元々大判のストールだったそれは、彼女の膝あたりまで充分に包み込んでいた。ちらりと向けられたポルナレフの表情が残念そうに見えたのはきっと気のせいなのだろう。遅れてそれに気がついた花京院が慌てて謝罪と言い訳を口ごもるも、大して意味はない。
脱出区間が海水で満たされ、潜水艦から脱出するという時分になったとき、敵は姿を現した。正確にはポルナレフのレギュレーターに化けていたのである。ポルナレフの唇に噛みついたと思いきや、敵はするりと彼の体内に潜り込んだ。体内を食い破る気なのである。それをハーミットパープルとハイエロファントグリーンの触脚が追いかける。喉の奥へ潜られる前に捕捉して吐き出させたはいいが、敵は水中銃へと姿を変えた。先に潜水艦の外へと出ていたアヴドゥルと千里がポルナレフを引き上げ、彼を押し上げるようにして残る三人は脱出する。水中銃が発射されるとほぼ同時に潜水艦のハッチは閉じられた。
初めて水泳、さらには泳げる者でも大半が苦戦する着衣泳を実践する千里の手を花京院が引っ張る。ハイエロファントグリーンの触脚も千里を支えていた。泳ぎ慣れていないためにどうしても遅れる千里だが慌てる様子はなく相変わらずの冷静さを保っている。こういう時は落ち着くことがベストだと知っているようだった。二人の前を泳ぐのはタンクをシェアする承太郎とポルナレフ、義手を失ったジョセフをサポートするアヴドゥルがいる。時折振り返っては最後尾の二人の様子を見ながらも敵を警戒しながら少しずつ浮上して行く。
潜水艦から脱け出してからしばらくして、千里は自身の酸素メーターの針がゼロに近付いていることに気が付いた。潜水艦内で見たときは確かに満タンを指していたはずだ。一瞬ながらも思わず息を止める。どれだけの時間、呼吸を止めていられるかなど試したことはない。気付いてしまった途端に彼女を襲う真綿で首を締められるような息苦しさ。息を吐き出せばその分吸い込まなくてはならない。だが残り少ない酸素がなくなれば吸い込めるのは海水だけだ。呼吸回数や酸素を吸う量を減らそうとしたところでそうそううまく行くはずもない。千里の眉間に皺が寄る。このまままっすぐ海面まで上昇したって間に合わないだろう。急上昇すれば窒素酔いや減圧症を起こす可能性があることを彼女は知らないが、それでも急な水圧の変化は体に危険だと察していた。
「……千里?」
千里の異変に花京院が気付く。ハイエロファントグリーン越しに声をかけたところで、彼女の眉間に刻まれた皺が薄れるはずもない。原因を究明せずとも敵にタンクかホースに穴でも開けられたのだろうと千里でも予測できた。大方潜水艦内でポルナレフのレギュレーターに化ける前のことだろう。脱出区画が海水で満たされる前から少しずつ空気が抜けていたのかもしれない。
推測を確信に移してからの千里の行動は早かった。花京院の手とハイエロファントグリーンの緩い拘束を振り払い、タンクと体を縛りつけるベルトをほどく。水中での作業はかなり手間取ったが、泳ぎの経験のない彼女にしてみれば荷物などあれば動きが制限される。体に負荷がかかるほうが体力を消耗すると、素早くベルトを緩めて残り少ない酸素を大きく吸い込み、スキューバダイビングの機材を脱ぎ捨てた。レギュレーターの先から小さな気泡を出しながらタンクが海底へと沈んでいく。
「なにをやっているんだ!」
スタンドを介した花京院の驚く声が脳内に響いた。一行が振り返る。しかし千里のスタンドは物を言わない。ハーミットパープルやハイエロファントグリーンと違って相手に触れて語ることもできない。そのため彼女はなにも言わなかった。ただわずかに厳しい表情を浮かべつつ海底を睨み上げるばかりである。敵か、と尋ねる必要はなかった。千里が無意味な行動をしないと知っている一行はさらに周囲を警戒するばかりである。それに千里が突飛な行動を取ることも今に始まったことでもなかった。
マスクしかしていない千里の口に花京院は自身のレギュレーターを押し付けた。バディブリージングという技術を彼が知っていたわけではない。ただ無我夢中にそれを実行したまでである。
そこでようやく、久しぶりに花京院は千里の双眸を真正面から受け止めた。仄暗く瞳孔の大きさが違う二つの瞳が確かに彼を捉えた。平時は前髪に隠されている左目は花京院と承太郎の後悔の証だ。ぽっかりと穴の開いたような瞳孔の奥は暗闇で、なにもない。感情に乏しい千里の瞳はどこまでも虚無である。海中を漂うワインレッドのリボンタイがまるで千里の首から血が溢れ出ているように見え、さらに彼女を生から遠ざける。ただただ鋭い目つきだけが辛うじてわずかに彼女を彩っていた。
レギュレーターを花京院に戻した千里はゆっくりと周囲を見回した。敵の姿はない。しっかりと握られた手は馬鹿なことをしないようにと牽制されているようだ。ゆるやかに体に巻き付き泳ぎをサポートする緑色の蔦も本体の意思を反映しているように思える。時折渡されるレギュレーターから酸素を得ても最小限に留める。二人分の酸素に対してタンク一本は非常に心許なかった。
ゆっくりとしかし順調に浮上していく一行の目の前にぽっかりと二つの穴があいた岩壁が現れた。アヴドゥルが指を指す。
「見ろ! 海底トンネルだ……ついにエジプトの海岸だぞ! この岩伝いに泳いで上陸するのだ……」
ようやく旅の目的地に到達したことが一行の気を緩めたのだろう。大きく口を開けた海底、否、敵スタンドの口内へと吸い込まれてしまった。彼らは敵スタンドの能力を失念していた。また、まさか海底そのものに化けていると想像していなかったのである。なす術もなく彼らは敵スタンドに囚われてしまった。もちろん花京院にしっかりと手を握られてしまっている千里も道連れである。