失われた系譜

 室内に響く医師や看護師の音とは違う無機質なノックが一つ。花京院が返事をする前に誰かが病室に入ってくる。静かすぎる足音を訝しんでスタンドの目を借りて来訪者を見れば、見慣れたビターチョコレート色の髪が無造作に揺れた。左手に布に包まれたなにかを持っている。スタンドの視線に気が付いたのか、鋭く茫洋とした隻眼が花京院を一瞥してそらされた。数日ぶりに見る顔だった。検査で病院に来ていることは知っていたが、こうして面として会うのは花京院が入院したあの日以来のことである。もう十日近く前のことだ。昨日の検査では今日の夕方頃には包帯が取れるだろうと医者から告げられていた。それほど長い時間、彼は入院している。

「……千里」

 久々に舌の上に乗せた音が不思議と懐かしい。花京院は上体を起こす。見舞いだろうかと思ってすぐにその考えを改めた。彼女は決してそのようなことはしない。これまでの数日間だって一度たりとも病室に現れなかった彼女が今さら見舞いに来るとは思えなかった。わざわざ来るとすれば理由は一つ。用事があるからに相違ない。それ以外で千里が花京院を訪ねる理由がないからだ。彼女は情に動かされない。
 閉められたドアの前に立つ千里とベッドの中にいる花京院との距離は三歩か四歩程度。近くも遠くもない距離を保った千里は決してそれ以上近付こうとはしない。ハイエロファントグリーンの目を通して見る彼女は沈黙を保つ。その沈黙は花京院にとって不思議と安心でき、心地好かった。

「――なぜ助けた」

 しばらく時間を置いてから発せられた静かなアルトは鋭くなった花京院の聴力をもってしても、やはり感情の欠片も含まれていない。それでもなにを考えているのか、花京院にもなんとなくわかったのは共に過ごした時間のおかげなのだろう。一ヶ月近く行動を共にしていれば小さなことが見えてくる。それに彼は何度も千里に苦言を呈されていた。それも少なからず関係しているのだろう。包帯の下で目を細める。

「きみを助けて自分が怪我するなんて、しかも入院してしまうなんて馬鹿だときみは思うんだろうね。……でもぼくは後悔していない。なぜならぼく自身が選んだ行動だから」

 千里に牽制されたからとて、それが彼女を助けない理由にはならない。平気で仲間を見捨てられるほど花京院は薄情ではなかった。結局は千里もアヴドゥルの身を守って怪我しているわけだが、それはどう説明するのだろうかと彼は思う。千里がアヴドゥルを守ったことと、花京院が千里を助けたことになんの違いがあるのだろうかと。しかし、わからないながらもわかることはある。彼女は助けられることを嫌っているのだ。だから花京院のように他人を助けながらも自身が傷付くような人間など大嫌いなのだろう。優しさと甘さを履き違えない彼女は自己陶酔に似た自己犠牲を嫌悪する。
 彼女のスタンドの弾がまっすぐにしか飛ばないように、彼女もまたまっすぐにしか突き進まない。一週間以上もアスワンに留まっていたのはきっと花京院のためではなく、そうジョセフに指示されたからだ。ジョセフがいるおかげでSPW財団の後ろ楯を得ることができていると千里は理解している。決して利害を間違えない。些細なことなら一切無視しても、些細でなければ指示に従う。それが彼女なりの義理の果たし方なのだろうと理解しているものは誰もいないが、少なくとも自分のために留まっているのではないと花京院は気が付いている。彼女が誰か一人のために行動するなど今までになかったからだ。誰か一人に心を割いたことすらない。
 わずかに首を竦めて千里は一度ゆっくり瞬いた。リボンタイは変わらず白いカッターシャツを彩っているが、その首を覆うマフラーはない。花京院の止血に使ったはいいが、それ以来どこにもなかった。きっと医者が治療後に捨ててしまったのだろう。惜しいとは思わなかったが、どうも首元が軽くなったような、涼しくなったような気がして落ち着かない。忌まわしい傷を撫でる回数が増えたのも、きっと傷を隠していたマフラーがなくなったからだろう。改めて買う気にならなかったのは不必要だと判断したからだ。敵の喉元まであと数歩まで近づいているのだから、今さら醜い傷など気にする必要もなかった。毎日ホテル暮らしで戦闘もないために千里のカッターシャツには汚れ一つない。しかも無駄な皺一つなく、まるで彼女の性格そのもののようだ。リボンタイがふわりと襟元を飾ってもまるで頸動脈から吹き出る血のようである。白いカッターシャツを汚すことなく血を流す千里はまだ生きている。
 千里が左手に持ったままだった布の塊をベッドの上に放った。花京院はスタンドの目を借りてそれの布を解く。中から現れたのは一梃のリボルバー。彼には見覚えがあった。霧の街で男の死体から拝借したそれは千里からジョセフに渡され、そして修理という名目で再び千里の手元に戻っていたものだ。

「リペアは終わっている。弾数は六。五発まではただの弾丸だが、六発目には銀弾を入れてある」

 淡々とした千里の声を聞きながら花京院は内心首を傾げる。律儀にリボルバーの手入れはしただけでなく、きっちり弾丸も込めたというのになぜそれを自分に渡すのか。ジョセフに頼まれたのだから彼に直接渡せばいいものを。これでは代わりに渡してくれと言われているようなものだ。
 花京院の考えを読み取ったのか、千里は言葉を続ける。彼女はすでに義理を果たした。

「わたしに課せられたのは目の見えないきみの護衛だ。目が見えるきみに護衛は必要ない」

 今日の夕方頃に花京院の包帯が取れるだろうと看護婦が話していたのを昨日千里は自身の検査の合間に聞いていた。かっこいい日本人の男の子の目は何色だろうと噂しあうミーハーの声は姦しく、嫌でも千里の耳に入る。だが通常無益ばかりの彼女たちの会話も珍しく千里に有益をもたらした。彼女の検査は昨日の午前中にはすべて終了している。その時点でアスワンに留まる理由はほぼなくなっていた。それでも留まったのは義理を果たすためだけに他ならない。だがそれもこれで終わった。あとは一路カイロを目指すだけである。
 想定の範囲内でありながらも賛成しかねる千里の行動を前にして、止めなければと花京院は思った。すでに承太郎たちが何人か敵を倒しているとしてもこちらに刺客がこないとも限らず、それは決して安全とは言えない。

「きみ一人では危険だ。まだどれだけ敵が残っているか……」
「危険だろうとここに留まる理由がない」

 当然だと言わんばかりに千里が言う。彼女の中でアスワンを発つことはすでに決定されいる。どれだけ花京院が説得しようとも無駄な行為であった。千里は危険をかえりみない。一人より二人の方が安全だとは考えない。誰かと協力しようとは思わない。馴れ合いなど真っ平御免だと、彼女は花京院の退院を待つつもりは毛頭なかった。
 自身に背を向けた千里を引き止めなければと花京院は手を伸ばす。それを反映するように伸ばされた緑色の腕が彼女の肩を掴んだが、拳銃があっさりそれを払い落とした。それでもと往生際悪く展開される触脚に千里は絡め取られる。手足体を拘束されても振り返ろうとしない彼女に花京院は声をかける。それは純粋に彼女を心配してのことであり、みすみす仲間を危険の中に踏み込ませないがための心遣いであったのだが、あいにく千里はそれを理解しない。仲間を持ったことのない少女は残酷なまでに冷徹に冷酷に、短く的確に吐き捨てる。

「足手まといは必要ない」

 拘束が緩まる。その隙をついて千里はハイエロファントグリーンの腕の中からするりと抜け出した。立ち止まろうとも振り返ろうとも歩みを緩めようともせずに、ドアを開ける。
 再び一人となった花京院は力なく倒れ込む。固めのスプリングが無機質に彼を受け止めた。そっとハイエロファントグリーンが消える。両目を開いたところで彼の世界は真っ白だ。