戦いの前日

 カイロに入って半日。千里はDIOの館を探して市内中を歩き回っていたのだが、一向に見つけることができないでいた。最終の目的地がカイロであったからそこまでたどり着くのはさほど難しいことではなかった。しかしカイロ市内のどこかにいるという漠然とした情報だけでは見つける方が難しい。市場など人の多い場所に足を向けて怪しい男を見なかったかとそれとなく聞き込みを行ったところで、吸血鬼を見たと言う者はやはりいない。
 どこかでジョセフたちと合流することも考えないことはなかったが、期限が迫っている今、彼らはDIOの館を見つけることに必死になっていることだろう。彼らを街中で見つけることがDIOの住処を見つけることより容易とは思えず、また合流したところで意味はないだろうと千里は判断してその考えを捨てた。もしかしたらすでに館を見つけてしまっている可能性もあった。
 散々に歩き回って半日、自身が歩いている通りに見覚えがあると千里が気付いた時、彼女の脳内が一気にクリアになる。確信はなくとも予感がする。どうせ打開策も見いだせていないのだからと、千里は自身の第六感を素直に信じることにした。そしてその選択が間違いでなかったと気付いたのは見覚えのある館が視界に入ったときだった。肉の芽を植え付けられてからの記憶は曖昧でも、植え付けられる直前までのことはしっかりと覚えている。この館を訪れるのは肉親に拉致されて連れてこられたあの時以来だ。
 しっかりと閉じられた門扉がまるで人を拒絶しているようである。不気味なほどに静かだ。ジョセフたちが中にいるのかどうかすらわからない。しかし千里はわずかな違和感を覚え、そしてすぐにその正体に気が付いた。彼女がDIOを裏切ってジョセフたちについたことはすでに明白であるのだから千里が館の前に現れたとしたらまず間違いなく敵と認識されるはずである。だが物音一つしない。あの門番が現れる気配すらないのである。あの大きく鋭い目を持つ隼がどこにもいない。イギーという前例に会ったからこそわかることだが、あの鳥もスタンド使いなのではないかと千里は思う。それにただの隼が門番を務めているはずがない。DIOがただの趣味で猛禽類を飼育しているとは思えず、そうなるとやはりあの名も知らない隼は番犬ならぬ番鳥だったのだろう。しかし千里という侵入者が現れたにも関わらずその姿を見せないということは考えられる可能性としてここにはいないということ。もしくは門番としての役目を果たせない状態にある、つまりジョセフたちに倒された可能性も考えられる。夕刻が近いと言ってもまだ太陽は沈んでいない。だがすでに吸血鬼との戦いは始まっているのかもしれない。
 このまま悠長にカイロ市内を探し歩いていては手遅れになるかもしれない。千里の決断は早かった。ハンドガンを発現させ、そして僅かな躊躇いを見せたのちそっと門扉を押し開けてその隙間に体を滑り込ませた。やはりあの門番は現れない。その気配すらないのだ。館も同様の様相で物音一つせず、本当は空き家でないのかと錯覚しそうになるほどに静寂に包みこまれている。
 周囲を警戒しながら館のドアを人一人入り込めるだけ開き、音を立てずに侵入する。侵入を悟られずに入れたとは思っていない。これで少しでも騒がしかったならば安心できたことだろう。不気味なほどに静まり返った館の中は酷く気味が悪い。千里の侵入を歓迎していないようでもあった。また、彼女一人侵入したところで痛くも痒くもないと言っているようでもある。息を殺しているはずなのに彼女自身の息づかいが一番大きい音になっているようだ。
 外から見れば大きめの館としか思わないが、一歩中に入ると外からは想像もできないほどに広く複雑な構造をしていた。どこまでも続く廊下、無数の扉、申し訳程度に館内を照らす蝋燭の数。人の気配どころか生き物の気配がなく、不気味さを感じずにはいられないほどに静まり返っている。そのすべてが異常であり、異質である。当然千里もその不可解さに気が付き、そして同時にスタンド能力によるものであると察する。壁も蝋燭も触れればすべて本物のような質感を持っているが、この館の大きさを考えれば幻覚を見せられているのだろうと推測できた。直接脳に作用しているために五感で感じられる幻覚を作り出せているのかもしれない。子供騙しにもならないが、館の主を守るためと考えれば充分な効力を発揮していると言えよう。
 鼻腔をかすめる香りだけは本物だとわかったのは、その香りを彼女の敵が身にまとっていた香りと同じだったからである。しかしわずかな甘さを含んだそれの原因まで千里にはわからなかった。そもそも香の類に興味がない彼女にその香りがフランキンセンスだとは知らない。あの時も同様の香りが館内に満ちていた程度には覚えていても決して心地の良い香りとは思えなかった。どれもこれもすべて千里にとって忌々しいものでしかないからだ。なぜならそれはあの屈辱的な敗北を思い出させるものだからである。
 四方に意識を張り巡らしてクリアリングしながら慎重に進むも、迷路のように複雑に入り組んでいる間取りでは敵を見つけ出すにも難しい。幻覚ならば自身の目だけでは当てにならないと、千里は物陰に身を潜ませながらスモークグレネードを発現させて廊下の奥に投擲する。いくら人間に幻覚を見せていようとも、ただの物質である煙に幻覚を見せることなどできない。つまりスモークグレネードの煙だけが千里に正しい道を示すのである。その行為は敵に自身の存在を教えているようなものであったが、とうの昔に侵入は気付かれていると千里は考えていたためその行為に躊躇はなかった。むしろ逆に敵をおびき出せればそれはそれで都合がいい。
 彼女の予想通り、不自然な形を作りながら白い煙が廊下に充満する。煙は廊下の奥にまで満ちなかった。その境界が本来の壁なのであろう。歩いているように思い込んでいただけで、実際は一歩も動いていないのかもしれない。だがそれももう関係ない。スモークグレネードから吐き出された煙のみを信じて進めばいいだけだ。
 しかし屋内に充満した煙は一瞬にして掻き消えてしまい、再び元の様相へと戻ってしまう。千里はセーフティを外したままのハンドガンをそっと握り直した。実際は屋内に白煙が広がっているはずだが、それが見えなくなったとなると幻覚の一部に組み込まれてしまったに違いない。煙の広がるスピードと煙が消え去るまでの時間を勘案すると、幻覚を操る敵は近くにいることになる。どこかから彼女を見ているに違いない。正しい館の構造を把握することは失敗したが、敵をおびき出すことには成功したようだ。
 それに、と千里はさらに周囲を警戒しながら思考を働かせる。幻覚を使って惑わせはしてきても未だ攻撃はしてこない。タイミングを見計らっているにしては攻撃してくる気配もないために、おそらく攻撃力のないスタンド能力なのだろう。もしくはそこまで考える頭がないかのどちらかだ。例えば津波や大岩が落ちてくる幻覚を見せれば肉体は無事でも幻覚の中で死ぬかもしれない。精神の死は肉体の死だ。実際に幻覚内で攻撃をされてしまうと非常に厄介だが、幸いなことにまだ攻撃を受けてはいない。
 あいにく千里はそのスタンド使いの姿を見たことがなかった。彼女自身自覚していないため気付いていないが、肉の芽に寄生されてから一部の記憶を失っている。それは千里が敗北してジョセフたちに情報を漏らさないようDIOが肉の芽を使って彼女の記憶を操作したからだ。ゆえに彼女は出会っているかもしれない敵のスタンド使いを覚えていない。それにDIOに出会うまでスタンドという概念を知らなかった彼女は館にどんな人間がいたかなど意識して観察していなかったために記憶していなかった。
 物陰に身を潜ませ引き金に指をかける千里の耳が子供の声を拾った。無邪気な声、ではなくしゃくり上げているような声が一つ。なぜそのようなものが聞こえたのかとほんの一瞬彼女の意識が散漫になった瞬間、近くの部屋から人影が現れた。子供の声が聞こえた方向とは違う。千里が咄嗟に銃口を人影の頭部に向ける。現れた人影、それは一人の女だった。