その女は覚束無い足取りでふらふらと姿を現した。一般的に見目麗しいと言えるだろう女はその色気を全面に押し出すように官能的な服装をしており、あの男の情婦か餌だろうと千里は推測する。無意識に右手が自身の首筋に触れる。仮に女がただの人間でDIOの被害者でも助けてやろうとはまったく思わなかった。そもそも彼女はそんな殊勝な考えを持っていない。
女は身を潜める千里には気が付いていないのか、焦点の定まらない瞳でぼんやりとどこかを見つめている。しかしその横顔からはまったく生気が感じられず、千里はじっと女の動向を窺う。酷く強い香水を身に付けているのか、フランキンセンスとはまた別の匂いが鼻腔に届いた。混ざりあった匂いにわずかに眉をしかめ首元に指をかけようとして、はたと千里は思い出す。今の彼女の首はがら空きであった。あのマフラーがわりにしていた大判のストールはアスワンで失っている。新しいものは必要ないと購っていなかったため、今やその首元を彩っているものは緋色のリボンタイくらいだ。
緩慢に女の唇が動いた。甘い甘い声が流れ出す。
「にんげん……人間の臭いがするわぁ……」
一気に千里の全身に緊張が走る。吸血鬼はあの男一人ではなかったのかと思う一方で、その可能性は充分にあったはずだと考え直す。あの男のように石仮面とやらを被ったのかもしれない。それとも東欧の伝承のように血を吸われて吸血鬼になったのかもしれなかった。可能性などいくつでもある。なぜならSPW財団の石仮面に関する研究はまだまだ充分ではないからだ。
しかし千里の予想は外れていた。女は屍生人、吸血鬼と似て非なるもの、つまりゾンビである。しかしブードゥー教に見えるゾンビとはまた違った。呪術や薬などで蘇った死体ではなく、吸血鬼に精気を吸われ、吸血鬼の体内で生成されるエキストラクトを注入されたことにより下僕となり生者の血肉を求める下等な生物である。
ひくひくと鼻を動かし、女はゆっくり首だけを動かす。一瞬千里の潜む物陰にも視線を向けた。千里に緊張が走ったが、女は彼女の存在に気が付かなかったのかすぐにそらされた。気付かれてもおかしくないと思っていた千里は一層女の一挙一動を注視する。
「なんて、なんておいしそうなのかしらぁ……子供の肉は柔らかくて、甘いのよォ……」
「――ママ?」
いつの間にか幼いすすり泣きは聞こえなくなっていた。女の声に引き寄せられるように子供が一人、近くの部屋から姿を現す。男の子だろうか、酷く幼い。やはり子供がいたのかと千里は二人の動向を見続ける。女の口元が歪に緩む。ただ単に子供の存在に夢中になっていたために身を潜める千里に気が付けなかったのである。その狂気を灯した瞳には柔らかい子供しか映っていない。
「そうよ、ママよ、かわいい天使ちゃん。いい子だからママにちょっぴりその柔らかぁいお肉をかじらせて、ねぇ……」
女の手が子供に伸びるよりも早く、千里が飛び出した。まずはその手を撃ち抜く。続けざまに何度も引き金を引きながら女と子供の間を駆け抜け、片手で子供を抱き上げた。そのまま充分に距離を取る。すでに弾切れした銃に変わる新たな銃が千里の左手に握られていた。子供を抱えての戦闘となるとオートマチックピストルが具合がいい。
手から、体から血を流す女がぐりんと顔を千里に向ける。えぐれた頬から奥歯が見えた。狂気とも恍惚とも違う色を浮かべた瞳でねっとりと千里の頭の天辺から足の先まで品定めするかのように見回す。ママじゃない。腕の中の子供が呟く。
「あなた……覚えているわぁ……あのお方に食べられなかった子、よねぇ。女なのに抱かれなかった、使い道のない子、だわぁ」
千里の右目が鋭くなる。銃弾が数発、女の顔面にめり込んだ。小さな悲鳴が上がる。しかし女は嘲笑うように唇を歪めるばかりだ。続いて心臓を撃ち抜かれたところで女は倒れない。
震える子供の手が千里のリボンタイを握った。片腕で怯える子供を抱き寄せ、新たなプラネット・スマッシャーズを発現させる。荷物を抱えたままの戦闘は非常に不利だ。しかし千里は自身の軽率な行動を忌々しく思いながらも後悔をしていなかった。悔いる暇があれば打開策を見つける方が生産的だと知っていたし、その行動が無意識に近い、本能に似たものだと理解しているからだ。母親とまったく似ておらず、弟とまったく似ていないとわかっていても、である。
「銃弾なんて効かないわぁ。だってあのお方が永遠の美しさをくれたのだもの……」
それに。女の目が千里の腕の中で震える子供に向けられる。浮かべられた笑みは捕食者のそれである。本能のままに動くだけの、下等な生き物の目だ。
「その子じゃあなくても、子供はいるわぁ……だってその子と違う匂いがするのだもの……ああ、早く食べちゃいたい……」
「あの子たち、が……!」
心当たりがあるのだろう、子供が呟く。それを耳にし、千里は厄介だと思った。そして、この女を殺さなければとも思う。また、未だ幻覚の中にいることも厄介だと思ったし、あの憎き男を探しださねばならないという使命もある。だからまず目の前の女を殺さなければ、と再度思うのだが生憎女にハンドガン程度ではまったく無意味だ。さらに強い銃器で死ぬまで殺し続ける必要がありそうだった。
「――どこにいる」
千里の囁きが子供の耳朶を打った。酷く静かな声で、まるで夜のようだと彼は思った。月が浮かぶ明るい夜ではなく、星がいっぱいの夜のような。暗闇のような不安は感じなかった。
「あそこの、お部屋……」
子供が小さな手で指差した先を千里と女が同時に見た。子供が出てきた部屋である。女の顔に歓喜の色が浮かんだ。ふらふらと歩き出す。
「かわいい天使ちゃんたち……ママよぉ……いい子だから、ママにかわいいお顔を見せてちょうだい……」
子供を降ろし、千里はハンドガンからアサルトライフルに持ち替える。怖がるばかりの子供は当然彼女にすがりつくが、その小さな指先を一本一本引き剥がし、自身が潜んでいた物陰に押し込んだ。一人にしないで。子供が悲鳴を上げた。
しかしそれを黙殺して千里は地を蹴った。扉に手をかけた女に接近しながらアサルトライフルをオートで連射し、手の届く距離に近付いたところでアサルトライフルを振り上げて銃床で女の頭部を殴り付けた。さらに前蹴りで追い討ちをかける。続いてアサルトライフルからショットガンに持ち替え、至近距離から散々に撃ち込もうとしたところで女の腕が大きく薙ぐ。咄嗟に千里はショットガンでそれを受け止めたはよかったが人間離れした力に押し負け、吹っ飛ばされた。大破したショットガンの破片が飛び散り、千里の腕から血が吹き出す。
「ふ、ふふ……いたくない、痛くないわぁ……」
人間離れした動きで再び立つ女は皮膚が破れて肉がちぎれ、すでに人間の女としてのていをなしていない。ぐるりと向けられる眼球は眼窩から飛び出ていた。立ち上がる千里の背後で小さな悲鳴が上がる。女の姿は見るも無惨なものに成り果てているが、回復する様子は見られない。千里の脳が女の正体を見抜く。SPW財団の研究資料を読んでいたという経験が役に立った。いつくかの特徴から勘案した結果、女は吸血鬼ではなく屍生人なのだと理解する。資料によれば人間以上の怪力とともに俊敏性をも併せ持つとのことだったが、その女に敏捷な動きができるとは思えなかった。もしかしたら出来損ないなのかもしれない。
左腰に這わせていた手を引っ込める。吸血鬼でないならば銀弾を使うのはもったいない。S&W M19の装弾数は五、そのすべてが銀弾である。購入したのは六発だったが、一発はジョセフのリボルバーに装填してしまっていた。銀の銃弾が吸血鬼に対して効果があるか未だわからない。少なくともあの男にたどり着くまで残しておかなければならないため無駄な消費は避けたかった。
屍生人となった女は動きだけでなく思考までも愚鈍になったのか、千里の存在などおかまいなしに一心不乱に子供がいる扉に手をかけ、引き開ける。崩れた口元が弧を描いた。骨の見える腕が伸ばされる。屍生人の弱点を千里は記憶の中から引っ張り出し、手榴弾を発現させた。首元から抜き取ったリボンタイを手早く安全ピンのリングに結びつけ、そして駆け出す。女の横っ面を殴り飛ばしてからその裂けた口の中に手榴弾を押し込んだ。リボンタイの端を勢いよく引っ張りながら横に飛ぶ。パイナップルのようなそれが弾ければ、赤い果汁が飛散した。頭部を失った肉体はひくひくと痙攣を繰り返しながら崩れ落ちる。
千里はリボンタイを握ったまま、女が動かないことを確認してから立ち上がる。視線を感じてそちらを向けば、開かれた扉の向こうから二人の子供が彼女を見ていた。