口笛吹きと犬

 なにがあったのかまったく理解できていないらしい二対の瞳が彼女を見つめる。子供が無事だったことに千里は小さく息を吐き出しながら、未だ出血の止まらない腕にリボンタイを巻き付ける。なぜ人助けをしているのかとも思ってしまったが、敵が一人減ったと考えれば無駄な行為ではない。しかしこれだけ子供がいるのはなぜだろうかと千里は考える。第一に思い浮かんだのはこの女やあの男の餌である、ということだが、死んだ人間だった女の台詞を思い出してわずかながら眉間に皺を寄せた。思い至りたくもなかった推論だ。
 物陰に隠れていた子供が彼女の元に駆け寄った。千里は目を細め、しかしすぐに鋭くなる。彼女が子供の腕を掴んで部屋の中へと乱暴に投げ込み、出てくるなと子供に言い捨てて部屋の扉を蹴り飛ばして閉める。酷く大きな音がしたが気にしている暇はなかった。
 敵地の真ん中にいるのだから敵に襲われるのは当たり前のことだ。しかも幻覚を見せられているのだから気を抜くことなどできはしない。一瞬な気の緩みが命取りだと彼女はよく知っている。それに千里の役目は見ず知らずの子供を助けることではない。一度は守ったが、そのあと彼らが生きようが死のうが、そこまで構ってやるつもりはなかった。相変わらずフランキンセンスの香りが漂う。
 千里が再び警戒レベルを上げたその時だった。背後に気配なき気配を感じ、彼女の体が勝手に動く。前方へ飛び込み転がり、その気配から距離を取ろうとしたがカッターシャツの破れる音がした。どうやら背中を裂かれたようだが皮膚にまでは達しなかったらしい。無傷ならなにも気にする必要はないと、千里は体をひねって発現させたサブマシンガンの引き金を引く。しかし銃口の向けられる先には誰もいなかった。瞬時に四方へ意識を張り巡らせながら立ち上がり、体勢を整える。壁際へ後退しながら両手に新たなサブマシンガンを握り、長い廊下をを睨め付ける。しかし敵の姿はない。彼女の背中が壁にぶつかった。

「くくくくくく……くけっ」

 突然嘲笑が千里の頭上に降り注ぐ。はっとして彼女が天井を見上げると、そこには斑模様の帽子が特徴的な背の低い男が張り付いていた。刹那、二つの銃口が大量の鉛玉を吐き出す。しかし男はひらりと天井から飛び降りた。男の動きを追いかける前にサブマシンガンは弾切れを起こす。千里のはすぐさま新たなサブマシンガンを発現させた。その瞬間には先ほどの女とは比べ物にならないほどのスピードで男が彼女に接近する。鋭い牙が鈍く光った。サブマシンガンでは押し負けると千里の思考がコンマ数秒以下で結論を弾き出し、瞬時に二丁のサブマシンガンが形を変える。使い慣れたマスケットの先に光る槍のようにするどいそれ。腰を落として突き出された銃剣の切っ先が男の口内を貫いた。男の動きが止まる。間髪入れずに千里は超至近距離から喉奥に鉛玉を撃ち込んだ。そしてマスケットを大きく振り下ろし、男の頭部を床に叩き付ける。酷く嫌な、鈍い音がした。男の血が千里の爪先を汚す。

「くけっ……くけけけっ……」

 口内を串刺しにされ、床に叩きつけられてなお男は生きていた。それどころか千里を見上げて閉じない口で嘲笑する。千里の手に二本目のバヨネットが現れ、彼女の全体量をかけて男の腹部に深く深く突き刺さった。銃身部分もねじ込むように力を込めればわずかに床をもえぐる。それでも男は笑うことをやめない。

「この血の匂い、処女だな……おまえ、処女だろ。なァ?」

 ちぎれた声帯を震わせて男が言う。体からマスケットを二本も生やしているというのに、まったく効いていないようであった。品のない言葉と下卑た視線に千里はわずかに眉をしかめる。男の渾名がヌケサクと知れば眉間の皺は増えたかもしれない。もう一本銃剣を局部に突き刺してやろうかとも考えた。しかしプラネット・スマッシャーズは彼女の精神をかたちどったものだ。虚像であれ、下品な男の局部に自身の精神を触れさせたいとは思わない。その代わり脳天を貫いてやろうと三本目のマスケットを発現させる。男の眉間に狙いを定めた。

「馬鹿め……この程度でオレ様を倒せると本気で思っているのかッ!」

 ばきばきと、まるでビスケットでも咀嚼するようにヌケサクは銃剣部分を噛み砕いた。千里の頬に細い切り傷が走る。その一瞬を見逃さず、ヌケサクが跳ね上がるように飛び起きる。その勢いに負けて腹部に刺さるマスケットが床に落ちた。咄嗟に身を引こうとした千里の首をヌケサクは片手で掴み、そのまま壁に叩き付けた。一瞬千里の息が詰まる。マスケットが手から離れ、床に落ちる前に掻き消えた。ヌケサクの手が千里の首を締め上げ、人間離れした力が彼女の体を持ち上げる。気管を圧迫するというよりは首自体を圧し砕かんとする力のせいで充分な酸素が得られない。その間にも敵の傷は修復され、すぐに元通りの姿に戻った。

「オレがその出来損ないの女と同じだと思ったのか、よォ? オレはDIO様から血を拝領した不死身の吸血鬼様なんだぜ?」

 ヌケサクが首のない女の死体を顎で指す。酷く不愉快な声が耳に入ってきても、それを充分に理解するほどの酸素が千里には不足していた。朦朧とし始める意識の中で彼女は危機感を覚え手を握りしめて爪を掌に立てるのだが、鈍っていく感覚を前にしては鈍痛程度では意識を保つには不十分だ。それに相手は吸血鬼、そうやすやすと逆転の隙を与えてはくれない。首を押さえつける腕を両手で押しのけようとしてもぴくりとも動かなかった。プラネット・スマッシャーズを発現させて銃口を向けたところで即座に腕を弾かれてしまえば無意味である。人間と吸血鬼の力の差は歴然だ。無力な人間の悪あがきにヌケサクが嘲笑う。

「そもそもピストルごとき吸血鬼様に効くわけがねーんだよッ!」

 千里の首を絞めていない方の手でヌケサクは彼女の右足をねっとりと撫で上げる。インドで人混みに巻き込まれたときに似た不快感だが、千里は反応を示さない。スカートの下に手が滑り込もうとも彼女の左手から注意をそらせているのであれば問題なかった。そろそろとホルスターに手をかける。早撃ちには慣れていない。しかし希望にはいささか物足りない可能性がそこにある。

「てめーを始末するついでに血もいただいてやるよ。なにせ処女の血はうめーからなァ……」

 千里の頬の傷に滲む血を舐め取ろうとヌケサクの顔が近付く。生臭い息を間近に感じながらゆっくりと安全装置を外す。かちり、と小さく音がした。しかし敵は血の匂いに夢中になっているのか、気付かれていない。朧げな思考の中でシミュレーションを繰り返し、ゆっくりと息を吸い込み、止める。破裂音とともに弾丸が敵の腹部を貫いた。ヌケサクの表情が大きく歪み、吹き出る血飛沫が千里のカッターシャツを汚した。しかし千里は止まらない。間髪入れずに敵の顔面めがけてありったけの力で頭突きを叩き込んだ。蛙が潰れたような声とともに千里の首を締め上げる力が弱まったが、それでも抜け出すにはまだまだ強すぎる。左手からリボルバーが落ちてしまったことを気にする間もなく、千里は自身の首を押さえつける敵の腕を両手で強く掴んだ。残る力で跳躍し、両足を腹の辺りで折り曲げ、畳み込む。そして一気にヌケサクの胸部めがけて打ち込んだ。吸血鬼とはいえ畳み掛けられる攻撃を前にしては耐えきれない。千里の首から手が離れる。敵の拘束から開放されたのはよかったが、受け身を取る暇もなく床に体を打ち付けた。