毒を盛る恋人

 テレンス・T・ダービーの挑発に乗ったのは千里ではなくヌケサクだった。彼にだって吸血鬼としての矜持がある。それがどれだけ糞みたいなものでも、ヌケサクにとっては確かに必要不可欠なものであったし、彼が彼たりえるものであることには違いない。それを侮辱されれば誰だって、ヌケサクだって頭にくる。そして矜持の侮辱は人格の否定だ。そこを否定されて平気な人間などごくごくわずがだ。

「この……このオレ様がそんな女より弱いだとッ! この吸血鬼たるオレ様がっ、そんな出来損ないのスタンドしか持たない女よりッ!」

 しかしテレンス・T・ダービーはどこまでも冷静で、また非情だ。自身より格下の相手に対して容赦がない。それが敵であろうと味方であろうと例外はなく、軽蔑し嘲笑し侮辱する。それは彼が彼の兄に対してのものとまったく同様だ。弱肉強食の世界では上下関係の明確化は当たり前のことである。それによればヌケサクはDIOの部下の中でも下の下に位置する。なぜならただの吸血鬼は夜しか役に立たないからだ。しかもスタンドを持たない旧時代の化物など使い道はほぼないに等しい。しかもオリジナルではなく模倣体。彼らの主人と比べてヌケサクは非常に劣った吸血鬼である。

「なにを憤っているのです。わたしは事実を言ったまで。少なくともその出来損ないのスタンド使いを未だに倒せずにいる時点でおまえは役立たずなのですよ」

 わざとらしく溜め息を漏らしながらテレンスが目を細めれば、ヌケサクの目尻はさらにつり上がる。元から相容れることのない関係だったのかもしれない。
 目の前で繰り広げられる仲間割れにも似たそれの様子を窺いながら千里はじりじりと後退する。しがみつく子供の背中に片手を添えて、本物のS&W M19を吸血鬼に対して構えたままだ。部屋の隅では他の子供たちが怯えた瞳で大人たちを見ている。ここで戦闘になれば子供たちは死ぬことになるだろう。一人ならまだしも複数人の子供を守りつつ戦うほどの余裕など千里にはない。それに彼女には目的がある。それを達成するためにも子供たちを犠牲にするのもやむを得まい。なぜなら千里は決して正義の味方などではないからだ。
 ふと千里はあの優男なら全員守るべきだとでも言い出すのだろうかと想像して、すぐにそれを掻き消す。こんな時に余計なことなど考えるべきではない。彼が他の一行と合流してこの館を目指していようとも、その戦力を期待する気はまったくなかった。これは彼女自身の戦争だ。

「――ああ、話がそれました。あまりDIO様をお待たせするわけにはまいりません。さあ……クオレマ、ご案内いたしましょう」

 テレンスが千里に向き直る。彼女の隻眼が鋭くなるのも、その手に銃が握られているのもお構いなしだ。しかし警戒したまま動こうとしない千里に対して、その瀟洒な身なりや所作に似合わない歪んだ笑みを浮かべる。いくら少女が鉄仮面を被っていようとも問いかければ問いかけるだけ雄弁に心は返答する。彼にとってそれが愉快でたまらないのだ。目は口ほどに物を言う、とは言うがそれ以上に魂は素直でおしゃべりだ。それは誰であろうと、彼の主人だろうと目の前の少女であろうと例外はない。

「フフ……そんなにその子供が心配ですか? ならば約束しましょう。あなたが大人しくついてくるというのであれば、その子供に手出しはさせません」
「……」
「なるほど、敵の言うことは信用できないと――結構、結構。なに、実を言えばその小男に子供を殺せる権利などないのですよ。曲がりなりにもDIO様の子供なのですから」
「てめーテレンスッ、オレを無視すんじゃねーっ」
「ああ、まだいたのですか。おまえと話すことはなにもない。それとも……なんですか? DIO様のご意思を邪魔するつもりなのですか?」

 ヌケサクは目を血走らせてテレンスを睨みつけるが、言われたことは事実なのだろう。子供に手出ししようとする意志は見られない。じっと注意深く敵を眺めたのち、千里はリボルバーを左腰のホルスターに収めた。しがみつく子供の背中を押して他の子供たちの元へ戻るよう促す。彼女の行動に満足したらしいテレンスが目を細め、ヌケサクを押しのけて大破した扉の前に立つ。

「さあ……」

 ゆっくりと千里が一歩を踏み出す。多数の視線に注目されるのは酷く鬱陶しい。左手はいつでも抜けるよう左腰のホルスターに添えられたまま慎重に歩く千里がヌケサクの脇をすり抜けようとした瞬間、敵が動き出す。せめて一発でも食らわせなければ気が済まないと叫ぶヌケサクの鋭い犬歯が鈍く光り、研がれた爪が千里の腕や肩を抉ったと同時に彼女はS&W M19を抜き放ち、発砲した。指先が二度素早く動き、千里のカッターシャツが二人分の血液により赤く染まる。銀の銃弾はヌケサクの肺と心臓を確実に撃ち抜いていた。いくら不死身の吸血鬼であろうと、生体機能を破壊させられれば動きは鈍る。膝をついたヌケサクを一瞥し、千里は視線をテレンスへと向けた。無駄な戦闘をするつもりはない。それに決定打にはならずとも銀弾は吸血鬼に効果がある。それだけでもわかれば充分だ。
 満足そうにテレンスが口元を緩める。彼は自身の思い通りに事が運べばそれで満足できる人間だ。思い通りほど気持ちのいいこともそうそうない。しかも千里の着るカッターシャツはところどころ破けて血に染まっており、なんともみすぼらしい姿だ。そのくせ微塵も表情を変えようとはしない気丈さとは裏腹に、大人しくテレンスに従う以外に選択肢のない状況。これ以上惨めなこともないだろう。非常に愉快だ。これで千里が悔しがればそれこそ彼の好みなのだが、さすがに彼女もそこまでの望みを叶えてはくれないようだ。だがそれが更によかった。すべてを兼ね揃えた人形など面白くもない。
 仲間のスタンド使い、ケニーGが館内に幻覚を展開していようとも、テレンスは迷いなくその中を歩く。絵画ギャラリー、ミュージックホールを抜けようとも彼の後ろを歩く千里の目には変わらず酷く入り組んでいるようにしか見えていないことだろう。正しいルートを覚えていなければ決して抜け出すことのできない幻覚だ。きょろきょろと周囲を見回すこともなくまっすぐ前方を向いて歩いてはいるものの、彼女の左手は変わらずホルスターに添えられているし、右手もすぐにスタンドを発現させられるよう指先まで意識を張り巡らせている。だが千里一人では幻覚から抜け出すことはできない。今だけは敵に従わざるを得ない状況がテレンスを満足させる。

「そう警戒せずともDIO様の命がなければあなたに手出しはしませんよ」

 くつくつと喉を鳴らしてテレンスが笑う。事実、主人の命令があったから彼は千里の前に現れた。しかしその真意を彼は知らない。だがそんなことなどどうでもよかった。魂を奪うことは叶わないが人形のような少女だ。また着せ替えくらいはできるのではないかと思えば充分だった。やはり死神には黒が似合う。白いカッターシャツより黒のセーラー服がよく似合う。彼女のための服ならまだ残っている。
 テレンスが振り返る。その双眸が千里の隻眼とぶつかった。まっすぐ鋭く彼を射抜く視線から自然な動作で目をそらす。そのまま彼女の姿をゆっくりと頭の上から爪先まで眺めれば、そのみすぼらしさが更に際立つ。カッターシャツが破れ血塗れても、黒色のタイツが裂けても彼女は頓着しない。だがそれが決して彼女の品位を貶めることはなかった。しかしテレンスの趣味からすれば千里の姿はあまり気に入らない。

「ああ……しかし、その格好はいけませんね。レディならば身嗜みにも気を使わなければ――」

 テレンスが最後まで言い切る前にぶわりと膨れ上がる真っ黒な瘴気。テレンスと千里を包み込み、圧し潰そうと締め付ける。ぴたりと千里の足が止まり、自身の趣味に陶酔していたテレンスは自身の役目を思い出す。気を抜けば瞬時に呑み込まれてしまうだろうその圧倒的な存在感は決して無視できるものではなく、どれだけ目をそらそうとも視線を向けざるを得ない。絶対に拒絶を許さない重圧を千里はよく知っていた。それと再び相まみえるために、彼女はここまで辿り着いたのだ。
 図書室に置かれた一人用の豪奢なチェアにゆったりと座って本を読むその横顔。敵が現れようと決して崩れないその余裕。千里など館内に迷い込んだ、取るに足らないただの虫程度にしか認識していないのだろう。
 静かに本が閉じられる。するりと隙間から入り込み、脳髄から溶かしてしまいそうな声が千里の鼓膜を震わせた。

「ようこそ……いや、おかえりと言うべきところかな――なあ、クオレマ」

 ゆったりと赤い瞳が彼女に向けられる。