泡立ちクリーム

 テレンス・T・ダービーの手によって承太郎たちが床に作られた穴に引きずり込まれてから、時計の長針は六十度傾いた。ジョセフが指示した時間が経過する。アヴドゥルはジョセフから合図がなければ館に火を放てと言われたことを思い出し、緊張感から吹き出す冷や汗を拭って呟いた。

「すでに十分経った。館の中へ突入するぞ、ポルナレフ」
「ああ……」
「ポルナレフ、突入する前に一つだけ言っておきたい。わたしはもしこの館の中でおまえが行方不明になったり負傷しても助けないつもりでいる……イギーおまえもだ」

 全滅を免れるためにも自分の安全を第一に考えろと告げるアヴドゥルに対して一人と一匹は小さく頷いた。アヴドゥルの言葉は非情であったが、また至極合理的でもある。全員生きて帰ろうだなんて思っていない。たった一人の男を倒すためならば、味方が倒れてもそれを踏み越えていかなくてはならないと理解していた。そして彼らの脳裏に浮かぶのは一人の少女。彼女の思考は常にそうであった。
 相変わらず館の内部は外から見た時とは同一の建物とは思えないほどに恐ろしく広く、また複雑に入り組んでいる。それが敵スタンドによる幻覚だと把握したアヴドゥルは、ジョセフの言う通りに火を放つことをしなくてよかったと小さく安堵した。館の構造がわからない以上、炎に巻かれて死ぬのが自分たちである可能性もあったからだ。これでは敵に奇襲されてしまえば不利だとアヴドゥルはマジシャンズ・レッドを発現させて炎の生命探知機を出す。一定の距離以内にいるものならばどの方向にどんな大きさの物が隠れているのか炎が教えてくれる。
 生命探知機を発現させてすぐに炎が左前方へと反応を示した。ポルナレフとアブドゥルが視線をそちらへと目を向けると同時にイギーの鼻が敵の存在を察知した。ザ・フールを発現させて壁を破壊すれば小男が血を噴き出しながら姿を現す。攻撃してくるかと思いきや、野太い悲鳴を上げて倒れてしまった。同時に幻覚が解け、それまでの間取りが一変する。幻覚が消えて代わりに現れたのはただの広間だ。どこにも異常な様子は見られない。幻覚はイギーにあっさりやられた小男のスタンド能力だったのだと想像に難くない。

「これでこの館の間取りも普通に戻ったわけだ。炎には今……生物反応なし……」

 炎の様子を注意深く眺めるアヴドゥルはふと壁になにか文字が刻まれていることに気が付いた。ちょうど彼の左手の親指がそのわずかながらも不自然な凹凸に触れたのである。なにが刻まれているのかアヴドゥルが確認しようとする前にポルナレフの声が彼の意識をそれからそらした。

「お、おいちょっとこれ見てみろッ!」

 ポルナレフが指差す先に残っているものは壁や床に空いた無数の小さな穴。まるでなにか硬いものが突き刺さってできたような穴から想像できる物は少ない。決して壁の模様ではなくまるで集中砲火したようなそれを見て彼らの脳裏に浮かぶのは一人の少女。顔を見合わせ、互いの予想が同一であることを確認する。

「プラネット・スマッシャーズの弾痕、か……」
「畜生! 千里は無事なのか!?」

 周囲を見回したところで当然千里の姿はない。そもそも館に侵入して以来銃声が聞こえていないのだから、本当に彼女がここにいるのかどうかすら定かではない。壁の弾痕から敵との交戦があったのだと推測するも果たして千里は無事なのか。館に潜入前は自分の安全を第一としていた彼らもさすがに気にせずにはいられなかった。
 ポルナレフが弾痕をを覗き込んでいる間、無意識に壁に手をついたアヴドゥルは先ほどの壁に刻まれた文字の存在を思い出す。一度ちらりとマジシャンズ・レッドの炎とイギーの様子を見やり、改めて壁の文字へと目を向けた。『うしろをふり向いた時おまえらは』中途半端に文章は途切れているが、続きは彼の親指の下に隠れている。そっと親指を退かして現れた文字は『死ぬ』の二文字。若干ながらも感じた嫌な予感に再度炎とイギーの動向を確認し、彼はそっと左肩越しにゆっくりと振り返った。
 それはアヴドゥルのすぐ近くにいた。なにもない空間からわいて出てきたように現れたそれは音も気配もなく、またイギーの鼻にもマジシャンズ・レッドの炎にも反応されずにおぞましい姿を彼に見せる。アヴドゥルがそれを敵だと認識し、また非常に危険だと理解したのはほぼ同時であった。彼は叫ぶ。
 
「ポルナレフッ!! イギーッ! 危ないッ!」

 アヴドゥルの声が耳に届いたときにはすでにポルナレフは強い力で殴り飛ばされていた。並大抵ではない勢いで吹っ飛ばされた背後でガオンと不可解な音が響く。壁にぶつかり起き上がったポルナレフはなにをするのかと非難の声を上げようとしたが、たった今いたはずのアヴドゥルの姿がそこにない。文字通り掻き消えてしまったのである。

「お……おい、アヴドゥル! どこだ? な……なんだ今のは一体?」

 ポルナレフの呼びかけに返事はない。先にその異常さに気が付いたイギーの呼吸が荒くなる。彼の鼻がなにも嗅ぎ取っていなかったからだ。人間の嗅覚よりも百万倍から一億倍も優れたイギーのそれがなにも見つけ出さなかったことが信じられない。それがさらにイギーの警戒心を強くさせる。全身からにじみ出る冷や汗が彼の心情を代弁しているようだ。炎の生命探知機はいつの間にか消えていた。
 そのとき彼らの視界の外側から小さな呻き声が聞こえた。はっとポルナレフとイギーは声の元へと目を向ける。そこにいたのは人影が二つ。喜びか驚きか安堵かわからない感情がポルナレフを叫ばせる。

「アヴドゥルッ! 千里ッ!」

 無事だったかとポルナレフとイギーが駆け寄るも、すぐにアヴドゥルの様子に気が付いて瞠目する。なぜなら彼は右足の膝から下を失っていた。すっぱりと噴き出す鮮血をものともせず、千里が出血部を圧迫して止血を試みている。傷口を押さえ付けている布はアヴドゥルの上着の一部のようだった。すでに血が浸透しており、真っ赤な雫を浮き上がらせている。
 アスワンで別れて以来の再会となる千里の姿は全身真っ黒だった。黒いセーラー服に身を包んだ彼女は緋色のリボンタイも深緑色のマフラーもしていない。袖は手首までを覆い、筋肉で引き締まった両足も黒いタイツで隠されている。ポルナレフはそのセーラー服に見覚えがあった。ほんの一ヶ月と少しほど前、初めて千里と出会った時、彼女は今と同じ服装だった。
 アヴドゥルも千里の姿は認識できていた。しかし今は再会の喜びに浸る余裕はなかった。突然現れた敵に対する動揺と、自身の怪我。千里は彼の傷口を押さえつけたその力は少女のそれにしては非常に強い。火事場の馬鹿力とでも言うべきそれでも激痛を和らげることはできない。

「な……なにが起こった! なぜアヴドゥルが怪我をしているんだッ!?」
「――焼いて止血を」

 ポルナレフの声もなにもかもを一切合切無視して千里は静かにアヴドゥルに言った。鋼鉄をも一瞬で溶かすマジシャンズレッドの炎ならば足の切断面など一瞬でローストにしてしまうだろう。焼灼止血法は古くからある止血方法だが現代では医療行為として認められていない。重度の火傷とそのショックで死ぬ場合があり、また傷口から感染症にかかる可能性も充分にあるからだ。しかし医者のいない今、止血だけでは間に合わない。失血死を起こす前に確実に血を止めるとするならば傷口を焼いてしまうしかなかった。
 激痛のために思考と感覚が麻痺し始めたアヴドゥルが自身のスタンドを発現させる。千里は手早く傷口から布を剥ぎ取る。なにもしないで死ぬよりはいいと思う一方で、霧のかかる意識の中で死ぬかもしれない恐怖に諦めながらも一瞬、業火で自身の足の切断面を焼いた。肉の焼ける嫌な臭いと彼自身を襲う熱と激痛に呻く余裕もなかった。意識を手放す。

「早く外へ」

 ポルナレフとイギーにそう促し、千里は虚空を睨みつける。その両手にはすでに銃が発現していた。いつも彼女が握る銃より幾分か大ぶりのそれの名をポルナレフは知らない。しかしその代わりに彼女の左腰を飾っていたリボルバーとホルスターがなくなっている。単独で適地へと突入してから約一日。その間千里の身になにが起こったのか、ポルナレフがそれを尋ねる時間はまだなさそうだ。