炎の天使

 それが夢だったのか現実だったのか、または敵スタンドによる幻覚だったのか。どこまでが幻覚でどこまでが真実なのか。それらは千里にとって至極どうでもいいことであった。頭痛がする上に体は重いがそれ以外に特に体調に異変はなく、両手は無傷だ。衣服はぼろぼろになったため着替えた。彼女からしてみればすべては些末な事象であり、もっとも大切なのは現状だけである。銃を握れる、それだけで充分だ。大ぶりの銃だって躊躇を捨てた証である。彼女はもう止まらない。
 千里の睨みつける先には得体の知れない異形のものが浮かんでいる。アヴドゥルと千里はすでに見ているが、ポルナレフとイギーだけは初めてそれを見た。敵だと認識するまでにそう時間はいらなかったが、それでもマジシャンズ・レッドの炎やイギーの鼻で探知できなかったことに不安がよぎる。音も匂いも気配もなく現れるのならば一度見失えば相当苦戦することは目に見えているからだ。

「な……なんだこいつは? どこから現れたんだ? なぜアヴドゥルの炎の探知機に引っかからなかったんだ? なぜイギーの鼻に臭わなかったんだ? あいつがアヴドゥルの足を切断したのか?」

 全身に浮かぶ冷や汗を抑えきれず、イギーが低く唸る。涎をまき散らすそれは自身の体を吐き出しているのか取り込んでいるのか、まるでウロボロスのようでもある。だが尾を噛む蛇よりもおぞましい。真っ黒な暗闇を形にしたような、そんな印象を彼らに与える。

「わたしの口の中はどこに通じているのか自分でも知らぬが暗黒の空間になっている……アヴドゥルの足もそうだ。吹っ飛ばしてやったのだ。次はおまえらだ……DIO様を倒そうなどと思い上がった考えは……正さねばならんからな……」

 恐ろしく静かにそれは喋り、なにかを拾い上げた。片方の靴、しかも真っ二つにされた爪先半分である。見覚えのあるそれがアヴドゥルのものであるとポルナレフとイギーはすぐにわかったのだが、靴の履き口からちらりと赤い肉と白い骨が見えてしまい、その靴は中身があるのだと同時に気が付いてしまった。アヴドゥルの足の一部分であるそれを敵は涎や血液をまき散らしながら口の中へと押し込んだ。嚥下するわけでもなく、口内で足の欠片は粉微塵になって消滅する。その口に噛み付かれてしまうとどうなってしまうか、一目瞭然だ。

「ひとりひとり順番に順番にこのヴァニラ・アイスの暗黒空間にバラまいてやる」

 宙に浮くそれの口の中に敵本体の頭部が現れ、言葉を発する。低く、敵意の籠った声は静かに肌に突き刺さった。ヴァニラ・アイスとポルナレフたちの間にゆっくりと千里が割り込み、敵を睥睨する。敵意を全身で受けながらも押し返す千里の気迫も静かであるにも関わらず、酷く冷たい。いつもは小さいはずの後ろ姿は怒っているのか殺気立っている。疲労か蓄積したダメージか、万全のようには見えない。そのためにいつもと雰囲気が違うのかとポルナレフは頭の片隅で思いながらも、それに注意を向ける余裕はない。今はただ敵がアヴドゥルの足を奪ったという現実を理解するだけで精一杯だ。そして次に敵が狙うのは自分たちであると。
 敵がどれほど危険であるか、イギーは野生の本能から察知している。体の震えも冷や汗も抑えきれず武者震いと言うには不十分すぎた。怖いもの知らずのイギーでも本能的に警戒するほどの敵を認識したことはない。あの口の大きさならばイギー程度の犬など一飲みだろう。飲み込まれれば一瞬にして粉々になり、文字通りの消滅が待っている。
 二丁の銃を構えたまま言葉短く千里が二人に脱出を促した。もちろんポルナレフが支えるアヴドゥルを指してのことである。ポルナレフもそれに気付ける程度の冷静さは残っていたが、ヴァニラ・アイスに背を向けて逃げ切れるかの不安があった。千里の様子から間違いなく彼女は敵の足止めに残るつもりでいる。短い逡巡をしたのち、彼は決断した。

「……わかったぜ。後ろは千里、おまえに任せる」

 ポルナレフは気を失ったままのアヴドゥルを担ぐ。一刻も早くここから出なければアヴドゥルの命に関わる。誰かが危険にさらされても見捨てると言った癖にアヴドゥルはポルナレフを助けた。その代償として片足を失った。そして生死の境にいる彼を見捨てることができるほどポルナレフは冷徹ではなかった。それに千里やイギーはアヴドゥルを担いで外に出るほどの力はなく、今ここでそれができるのはポルナレフしかいない。
 ほんのわずかに千里の体が震えた。それは本当に些細な変化であったため、気が付いたのはイギーだけである。なにかに耐えるような、また抑え込むような様子が彼女の不調を伝えている。イギーもポルナレフとともに館を脱出するつもりでいたが、気が変わった。女に、しかも調子が万全でない少女に守られるのは性に合わない。ヴァニラ・アイスに向けて銃をを構える千里の前にトコトコと進み出て、フンと鼻を鳴らす。仕方ねーからおれも残ってやるぜ。そう言っているようなふてぶてしい態度の犬に対し、勝手にしろと言わんばかりに千里は彼を一瞥する。
 敵の意思を理解したヴァニラ・アイスはゆっくりと目を細め、そして哀れな末路を迎えるだろう彼らを見回した。もとより生かして帰す気はなかったが、同情の欠片も感じない。主人の敵は彼の敵である。それだけはいつも単純にして明確だ。

「いいだろう。貴様ら全員このクリームの暗黒空間の塵となるがいい」

 アヴドゥルを担いだポルナレフがじり、と一歩後退る。一筋の冷や汗を垂らしながら少女の背中に向かって不格好な笑みを口元に浮かべた。彼にだって意地とプライドがある。

「――なあ千里。後ろは任せると言ったが……先鋒はこのおれに任せてもらうぜッ!」

 シルバーチャリオッツがヴァニラ・アイスめがけて飛び出す。一瞬にして距離を詰め、レイピアによる連続突きを繰り出した。しかしクリームを捕らえることができず、さらにレイピアをがむしゃらに振り回す。周囲の壁や柱が崩れた。手応えはあったが致命的な一撃を与える前に敵スタンドはあっという間に小さくなり、本体もろとも空間に消えてしまった。そして間髪入れずに千里がスモークを発現させて周囲を白い煙で覆い隠す。それを合図にポルナレフはアヴドゥルを担いで走り出した。イギーと千里がそれに続く。
 アヴドゥルを担いだポルナレフをイギーと千里が援護する。煙幕に紛れるようにして一階へ上る階段を目指して直走る。部屋を移動しては即座にドアを閉め、走るスピードは緩めない。背後でガオンと音がすればドアを突破されたのだとさらに走るスピードを上げた。階段が見えた。ガオンというその音がさらに近くなる。

「上だッ! イギー、千里、上階へ行くんだ。階段を上れッ!」

 数段飛ばしで駆け上がった直後、階段にガオンと丸く大きな穴が開く。咄嗟に千里がスモークグレネードを投げた。白い煙がまき散らされる。階段を上り切ればすぐに入口ら彼らの視界に映った。侵入したときのままになっていたのか、ドアは開けっ放しになっていた。太陽の光が差し込んでいる。
 最後尾を守っていた千里が体を反転させて立ち止まった。ポルナレフとイギーの足音を背中に聞きながらアサルトライフルを発現させる。姿の見えない敵に対してあまり意味のない行為かもしれないが動き回っているより立ち止まっているときの方が、その分だけ集中して四方に気を配れる。周囲に変化はない。音も匂いも気配もない敵を発見することは非常に困難だ。
 千里が立ち止まったことに気が付いていないポルナレフはそのまま外に走り出ていいものなのか逡巡していた。敵は自分たちが外に出ようとしていることをわかっているはずであるため、どこかに潜んでいてもおかしくはない。しかも敵のスタンドは姿を消せる。のこのことドアから出ようとした瞬間に暗黒空間に飲み込まれる可能性もあった。だが立ち止まることはできず、どんどんドアに近づいていく。
 そのときポルナレフの背中で呻き声がした。アヴドゥルが途切れ途切れになにかを呟いている。

「アヴドゥルッ! 気付いたのか!」
「ドアは駄目、だ……壁、を……」

 真っ先に動いたのはイギーだった。彼の秀逸な聴覚がアヴドゥルの声を聞き取ったと同時にザ・フールを発現させる。分厚い砂の壁をポルナレフとドアの間に作り出し、続いて自身と千里の間にも出現させて分断した。すぐさま前方から空間の削れる音がしたが、一回で突破できるほど壁は薄くなかったらしい。小さく穴が空いたのみだった。その隙にポルナレフは向かう先を九十度変えて隣室のドアを蹴り開けて、その中へと飛び込んだ。シルバーチャリオッツが現れて壁を破壊する。壁が崩れ落ち、人が通れるだけの穴が開く。

「すぐに戻るからそれまで耐えてくれよッ!」

 振り返って叫んだのち、壁の穴へ向かってポルナレフが走る。だが彼らが外に出ていく様を見届ける前にイギーは彼らを隠すように隣室のドアを砂の壁で塞いだ。同時に千里との間の壁は崩れ、入口側の壁が破壊される。