砂の壁が崩れ落ちたその奥のなにもない空中からクリームが現れ、さらにその口の中からヴァニラ・アイスが顔を覗かせた。敵を確認したと同時に千里は地を蹴り、素早くイギーの近くに寄る。ザ・フールの隣でアサルトライフルの銃口をヴァニラ・アイスの眉間に向ける。
「小賢しい真似を……」
砂で閉じられた隣室の扉を一瞥し、忌々しげにヴァニラ・アイスが呟く。彼の中で敵意と憎悪が肥大する。アヴドゥルを仕留め損ねたことはおろか、ポルナレフとともに逃げられてしまうという失態を続けざまに犯してしまったのだから心中穏やかでいられるはずがない。これ以上の失態は彼の主の期待を裏切ることになるし、敵は千里とイギー以外にも館の中にいる。悠長に目の前の二人を相手にする時間もない。ヴァニラ・アイスに課せられた使命はまだなに一つ完遂していない。
すっとヴァニラ・アイスの視線が千里に向けられた。憎悪と敵意が突き刺さる。
「小娘風情が……一度ならずに二度までもDIO様に楯突くか」
千里は無言のままヴァニラ・アイスを睨みつける。言葉はなくともその感情は留めることなく溢れ出ている。ヴァニラ・アイスはまごうことなき彼女の敵だ。
人間同士でも意思の疎通はそう容易なものではないのだから、それが人間と犬になればなおさらのことである。しかも言葉数の少ない千里と吠えることしかできないイギーでは難しいどころの話ではなく、ゆえに互いの動きを注視する余裕はなくとも把握して合わせなければならない。だが一人と一匹に無駄な言葉は必要ない。ともに戦うのがゲブ神戦以来だとしても野良犬同士、そこに迷いや戸惑いはなかった。
なんの合図もなしに大型のハンドガンの引き金が引かれる。しかしそれよりも早くヴァニラ・アイスはクリームの口に飲み込まれ、姿を消した。反動でふらつく千里を庇いながら即座にイギーが自分たちの前に先ほどよりもさらに分厚い砂の壁を作り出す。壁の外側に向かって二人が跳躍すれば空間を飲み込む奇怪な音とともに砂の壁に大きな穴が開いた。敵が直線距離で襲ってくることは想像できた。壁が砂埃を立てて崩れ落ちる音を聞きながら千里とイギーは階段へ向かって走り出す。目指すは上階だ。DIOに少しでも近づくと同時にポルナレフが館に戻ってくることを考慮して敵を一階から引き離すためだ。
千里と並走するイギーが階段を上りながら一瞬後ろを振り返る。砂埃の舞う中に不自然な円が次々に描かれ、それは間違いなく彼らを追いかけるように近づいている。障害物を飲み込みながらではないと移動できないという敵の特性を把握できても千里に伝える術がない。イギーが唸るように一声鳴いた。ちらりと千里は彼を一瞥し、スモークグレネードを足下に転がす。小さく跳ねるように階段を落ちていくそれが数秒もしないうちに周囲に真っ白な煙をまき散らした。
再度後ろの様子を確認する前にイギーは前方に現れた異常に気が付いた。数段先の階段に丸く大きな穴が開いていたからだ。いつの間にか先回りされていたらしい。目の前には砂や煙の障害はないため敵の居場所は掴めない。ヴァニラ・アイスは前にいるかもしれないし、頭上にいる可能性も考えられた。敵の急襲に備えて立ち止まりかけたイギーの首根っこを千里の手が掴んだ。そのまま抱き上げ、身を屈めながらさらに走る速度を上げた。階段の穴を飛び越えた瞬間、わずかに浮かび上がったビターチョコレート色の毛先が削り取られる。千里が身をかがめていなければ頭部をごっそり持っていかれていたことだろう。
階段の先はギャラリーのようだった。千里が段上に上りきったところでイギーが千里の腕の中から飛び出した。ザ・フールが砂をばらまき、巻き上げる。砂嵐でも起こったかのような勢いで舞い上がった砂はクリームから顔を出そうとしたヴァニラ・アイスの視界を奪い、また舞い上がった砂が落ち着く頃には千里とイギーの姿を隠しさっていた。クリームの口内から様子を窺うヴァニラ・アイスは敵の居場所を掴めていない。
慎重に周囲を見回すヴァニラ・アイスの視界にちらりと人陰が映った。人陰の正体は千里しかいない。柱の陰に巧みに身を隠しているつもりだったのだろうが、今の彼の視覚は研ぎすまされているために見つけ出すのはそう難しいことでもなかった。鈍い銃声とともに銃弾がヴァニラ・アイスに直撃する。だがそれもクリームの中にいる彼の脅威とはならず、銃弾は暗黒空間の塵となる。そして聴覚が敵の動きを捉えた。二発目の鉛玉が着弾する前にクリームの中に飛び込み避ける。そのまま直線距離で一気に壁ごと敵の気配を貫いた。様子は見えずとも確かな手応えと共に暗黒空間に敵の一部が壁とともに粉々に砕かればらまかれる。
しかし敵は一人と一匹であることをヴァニラ・アイスは忘れていない。今削り取ったのは人間の方であったためまだ一匹が残っている。人間より気配を掴みにくい犬の居所を見つけ出そうとクリームの口を開いた瞬間、なにかがヴァニラ・アイスの顔に突き刺さり掴んで引きずり出した。それが鋭い鉤爪を持ったザ・フールの前足だと理解するよりも先に外気にさらされる彼の頭部を千里の踵が捉える。口の端から血を流しながらも彼女はそのまま踵落としの要領で踵を後頭部に引っ掛けるようにしてヴァニラ・アイスを暗黒空間から引きずり出した。そのまま全体重をかけて勢いよく地面に頭から叩きつければ鈍い音とともにヴァニラ・アイスの頭が割れる。
さらに千里は敵の体を踏みつけて至近距離からショットガンを頭部めがけて撃ち込むも、不意に現れたクリームの口の中に散弾のほとんどが飲み込まれる。そのまま千里を飲み込もうと大きく口を開くが咄嗟に千里は飛び退いた。敵が離れた隙に起き上がりクリームの中に潜り込もうとしたヴァニラ・アイスだったが、それよりも早くザ・フールが作り出した砂の塊が彼の頭上に降り掛かり、直撃した。部屋全体を揺るがすほどの轟音とともにヴァニラ・アイスを圧し潰す。
すぐに間合いを取った千里は口内に溜まった血液を吐き捨てながらアサルトライフルを構えた。足元でイギーが体勢を低くして唸り、ザ・フールとともに砂の塊を睨み付ける。二人から少し離れた床に転がっている上半身のなくなった砂の人型が崩れ、そのかたわらで半分ほど銃身を失ったマグナムも消える。プラネット・スマッシャーズを持たせた砂人形は敵の姿を引きずり出すことに充分役に立った。即席でのっぺらぼうながらもヴァニラ・アイスを騙すだけなら問題なかったようだ。
策通り敵を圧し潰すことに成功しても二人は決して警戒を解かない。一行の中でもっとも本能というべき感覚が鋭く研ぎすまされている一人と一匹だ。死体を見るまでは気を抜いてはいけないと無意識下で体現できているのも今いる場所を理解しているためだ。案の定、ほどなくしてガオンと砂の塊の一部が消失する。その中からぬるりと現れたヴァニラ・アイスは決して無傷ではなかったがそれでも戦闘不能には程遠い。確かに敵の頭上に落とした砂の塊に強度はない。圧し潰すその一瞬の力は強くとも、それだけでは敵を倒せなかったようだ。しかしイギーの攻撃はクリームに阻害されることなく確実にヴァニラ・アイスに直撃した。ぺしゃんこになってもおかしくないのに自力で立ち上がれるほどとなると、体が頑丈だというだけでは片付けられない。それはまるで不死身のような。
「このクソどもが……」
歪んだ瞳が二人を睨め付ける。千里とイギーに向けられる敵意や害意は先ほどよりもさらに強く、狂気にも似ている。その威圧感はDIOに遠く及ばずとも、これまでの敵と比べると決して弱いものではない。イギーは唸りながらわずかに冷や汗を流すも、その隣で千里は表情筋を動かすことなくヴァニラ・アイスを睥睨している。荒い息づかいは今に始まった事ではない。
「確実に殺す……ジョースターどもの仲間も、裏切り者も、必ず仕留めてくれる……ッ」
呪詛にも似た低い声で紡がれる言葉。瞬間、ヴァニラ・アイスの姿が消える。正確にはクリームの口の中に飛び込んだのだが、そうなってしまうとイギーの鼻でも行方を捉えることはできない。その中でできることと言えばただまっすぐ突撃してくることを警戒して側面に飛び退くくらいだ。敵の目を眩ませるためにスモークグレネードを発現させることもできたが、それは同時に自身の視界を奪うことになる。二対の瞳が敵の居場所を探し出そうとせわしなく周囲を見回す。暗黒空間に飲み込まれてしまえばそれでおしまいだからだ。
だが二人の予測は外れる。ガオンとその異様な音が聞こえたと同時に周囲の柱が折れ、壁が崩れる。調度品も音を立てて割れ、天井が落ちる。ヴァニラ・アイスが直接攻めてこない理由を推察する必要はないが、建物自体を破壊されるとなると避けるのも容易ではない。小柄ですばしっこいイギーであれば倒れる柱や崩れる天井の合間を縫って走り抜けることは容易だが、彼より何倍も大きい千里ではイギーの通れる隙間を通り抜けることができない。彼女の発現させられる武器の中で瓦礫を破壊できる威力の持つものはない。イギーと千里は瓦礫の欠片を全身に浴びながら柱や天井を削り取る音の位置に注意しながらギャラリーを駆け抜けた。
崩れ落ちるギャラリーを駆け抜ける途中、千里の動きが鈍りを見せた。彼女が驚きと戸惑いに似た感情を抱いているなど気付いていないイギーは彼女を見上げ、走れと言わんばかりに一声吠える。はっとして再度走り出そうとした千里の目の前に柱が倒れてくる。いつもの彼女ならばなんなく回避行動に移っていたことだろう。しかしそれができなかったのはここにはいないはずの男の声がしたからだ。脳裏に響いて反響する甘く、蠱惑的な声は決してヴァニラ・アイスのものではない。
千里はそれを気のせいだと一蹴することができなかった。結果、ほんの一瞬の思考の停止が崩れ落ちる天井に気付くことを阻害した。咄嗟に千里はイギーを救い上げて投げ飛ばす。その勢いでイギーは瓦礫の雨の中から抜け出した。彼の背後で崩れた天井の瓦礫で山ができる。