世界の創造

 凄まじい殺気を前に身の危険を感じたジョセフたちがスタープラチナが破壊した窓から館の外へと脱出してから数分後、最大の敵は満ちた月明かりとカイロの眩しい街の光によってその姿を浮かび上がらせていた。人々を魅了する芸術品のように整った体躯、鍛え抜かれた肉体から放たれる邪悪とも言うべきオーラは遠くにいる彼の敵たちにまで決して弱まることなく届いている。太陽が落ちたばかりの夜の闇よりも黒く、暗い。
 屋根の上から赤い瞳がゆっくりと下界を睥睨して敵のいどころを掴んだのち、足元に控える下僕へと目を向けた。黒衣の死神、隻眼の狼。誰よりも貪欲に、なによりも敵の喉元だけを欲するそれは絶対的な王の忠実なしもべだ。首輪など必要ない。そのような拘束具がなくともしもべの魂はすでに主へと捧げられている。
 鈍色の瞳は伏せられ、長い睫毛が影を落とす。袖が破れて剥き出しになるしもべの右肩から下は褐色の腕だ。雪のように白いかの人種の血筋とは思えないその色はDIOの餌となった女の成れの果てである。しかし色香ばかりの嫋やかな細腕は戦い方を知らない。それは今の彼女にとって罰であり、戒めであった。他人の肉体は馴染みにくい。昨夜から食事を取っておらず、傷付いては修復を繰り返した彼女の肉体ならばなおさら馴染むまでに時間がかかることだろう。死神は血に飢えている。渇いた喉を潤したいと欲している。それは本能に等しい欲求であり、主人の許可なくば存分に満たすことのできない苦しみだ。

「ジョセフ・ジョースターだけは殺すな。あれの血は我が肉体に必要だ。……だが他の奴らは構わん。好きにしろ」

 足元からはなんの反応もない。しかし千里は充分に諒解しているとDIOは知っている。ここまでの旅路共にした男たちを敵に回そうと彼女はなにも躊躇わない。元々彼らとそこまで親しくなかったことも関係しているのだろうが、どちらにしろ今の千里には関係のないことだ。彼女の目に映るものは主と主の敵だけである。
 洗脳前の面影などどこにもなく、大人しく忠実になった千里を見下ろしDIOは小さくほくそ笑んだ。思えばここまで躾に苦労した部下もそうはいない。最初は圧倒的な敗北感を与えることで心の隙間に入り込み、肉の芽を植え付けて洗脳できたが、敗北感を怨恨に変えた少女の精神力は鋼よりも強く、堅かった。それを前にして二度目の肉の芽は無駄であろうと判断したDIOは別の方法を思いつく。吸血鬼は対象に血を与えることによって同族の下僕を得られる。そこで反抗的な相手でも効果があるのかどうか試してみることにした。ヴァニラ・アイスやヌケサクなどは最初からDIOの前に平伏していていたのだから比較対象にはならない。かつて墓場から蘇らせた亡者共は理性の箍が外れかけていため容易に支配できた。徹底的に反抗的かつ敵意剥き出しであり、並大抵ではない精神力を持つ千里を支配下に置くこと。それは純粋な好奇心から始まった実験であり、暇つぶし程度の娯楽だった。
 しかしやはりと言うべきか、少女は吸血鬼のウイルスによる自我の支配を拒絶した。どれだけ肉体が浸食されようとも、精神が蝕まれようとも一握りの自我は常に保っていた。野生の獣を手懐けるのは生易しいことではない。先に肉体を屈服させれば精神は弱くなるだろうと、ジョセフたちが侵入してくるまでの時間を余すことなくたっぷりと使ってDIO自らが調教したにも関わらず、千里は理性を手放さなかった。邪視により精神を絡め取られようとも、ぎりぎりまで傷付けられて本能が身体の回復のために血液を欲しようとも誇り高い少女は瓦礫に埋もれ意識を失う直前までDIOを敵と見た。
 ゆえにヴァニラ・アイスが千里を殺したことはけっして間違いではない。なぜなら彼の行動は千里にわずかに残っていた自我を剥ぎ取るには充分であったからだ。瓦礫に圧し潰されたその一瞬の刹那、千里はそれまでぎりぎり保ち続けていた理性を意識とともに飛ばした。最後の一握りの正気を失った。目覚めた吸血鬼はこれ以上ないほどにDIOの忠実なる部下となった。瓦礫の下から蘇った少女が最初に馳せ参じた先が主人の元だったのだから、彼女が何者になったのかなどもはや疑いようもなかった。
 ヴァニラ・アイスとの戦いではまだ自我が上回り、鋼よりも強い精神力でなんとか洗脳を跳ね除けた千里は味方を全員生き残らせた。さすがのDIOもそれには感嘆し、賞賛した。そしてどうにかして彼女を服従させたいとも思った。また、そのまっすぐすぎるほどの矜恃はどこかジョナサン・ジョースターに似ている気がした。懐かしくはないが思い出してしまったのは不可抗力だろう。だから殺さなかったわけではない。かつての仲間が敵に回ったことへの衝撃と絶望をジョセフたちに与えてやろうとの、DIOなりのほんの気まぐれである。減った部下の補充としても彼女はまあ悪くはない。
 散々に調教されたあげく、吸血鬼の本能に乗っ取られた中で自我を取り戻すことは難しい。今や千里と呼ばれた少女はどこにもおらず、クオレマと名付けられた飢えた狼が一匹あるのみだ。

「わかるな、あのトラックだ」

 ジョースターの気配を感じ取りながらDIOは呟いた。しかし片膝を着いてこうべを垂れる狼は一瞬視線を上げてトラックを一瞥するのみで一言も発することもなく、微動だにせず主の命令を待っている。かその忠実さはヴァニラ・アイスのような狂信者のそれとはやや違ったが、一方では犬にも似ていた。だが媚を売るしか能のない飼い犬でも、薄汚れた野良犬でもなかった。
 かつてのDIOは人間に媚びる犬が大嫌いであった。しかしこの狼は悪くないと思った。彼女は決して尻尾を振らない。それは犬だからではなく狼であるゆえなのだろう。ペットショップがそうであったように誇り高く、主以外には決してこうべを垂れない。ならば誰それ構わず尻尾を振る犬はやはり好きになれそうにないとDIOは結論付ける。

「――さあ、狩りの時間だ。わたしの言う通りに動くのだぞ」

 だが好きなだけ喰らうがいい。その中にはジョセフ以外のかつての旅の仲間が当然含まれているが、他の人間を除外しているわけではなかった。もちろん敵を倒すことが第一ではある。しかしその過程で発生する犠牲など取るに足らない些末なものだ。この人間でなくなった少女が敵を倒すためにどれだけ殺戮を行うのか。そこに躊躇いなどないだろう。そもそも人間であったころから躊躇を知らない娘だったのだから、化物となった今ではさらにそれを増長させるだろうことは想像に難くない。
 屋根から飛び降りるDIOにやや遅れて一匹の黒い狼が付き従う。吸血鬼の姿は月明かりに照らし出され、木陰に身を潜ませ館を見上げるポルナレフと承太郎とイギーから確認することができた。二人と一匹はDIOを追いかけながら戦う役目にある。DIOに血液を狙われているジョセフは花京院とともに逃げながら戦う役目だ。挟撃の形を取ってDIOに対抗するのである。
 しかし幸か不幸か彼らはDIOの後ろに従う少女に気が付くことができなかった。月明かりがあるにもかかわらず黒い姿はすぐに闇の中へ溶け込んでしまう。そもそも残る敵はDIO一人だと思い込んでいることも気付くことができなかった要因の一つだろう。視界の端でちらりとなにかが動いた程度の認識である。まさかそれがかつての仲間だとは思わず、しかも自分たちを殺しにくるなど想像できるはずもない。