夜になろうとも人足は衰えず、昼間とはまた違った喧噪に包まれる。賑やかな人々の声に喧しいクラクションの音。店々から漏れる光や車のヘッドライト、自己主張の激しいネオンサインが酷く眩しい。雑踏の中を悠然と歩くDIOは異質ながらも異物と成り果てることはなく、千里もまた同様である。一人と一匹の人ならざる者の存在に誰も気に留めることはない。早くも遅くもない歩調は確かに目的に爪先を向けていた。遠ざかる敵の気配はまだ失われていない。
「自動車か……なかなかのパワーとスピードだ。このDIOが生まれた時代は馬車しか走っていなかった」
それは発達した文明への賞賛であり、また侮蔑である。どれだけ便利な道具が生まれ、生活が豊かになろうとも人間の本質は百年前からなにも変わっていない。否、未来永劫変わらぬものなのだろう。猿が知恵をつけたところで所詮は猿、人間には敵わない。同様に人間がどれだけ努力したところで人間を超越した存在には叶わない。ゆえに抵抗はまったくもって無駄な行為だ。
DIOは路肩に停められていた一台の高級車のボンネットを一撫でする。その行動に目の色を変えた人相の悪い男がDIOの肩を乱暴に掴んだ。
「おい貴様……なに触ってんだよ。この車にベタベタ指紋つけんじゃあねーぜッ! 誰の車だと思ってんだ。ウィルソン・フィリップス上院議員様のもんだぞ! 目ん玉からゲロ吐きてーのか!」
しかしDIOは男を一瞥するどころか相手にすらしようとはしない。その代わり横から伸びてきた白い細腕が男の手首を掴んだ。男が細腕の持ち主に目を向ける。能面をかぶったような少女が彼の手首を掴んでいた。その細腕のどこにそれほどまでの力があるのか、大の男が振りほどこうとしてもまったくもって解ける気配がない。千里は表情筋を寸分も動かさぬまま、男の軽く捻り上げた。派手な音とともに外側へと曲げられた腕からは折れた骨が飛び出し血が噴き出す。その痛みと自身の身に起きた非現実的な事実に男は悲鳴を上げた。
飛沫した男の血が千里の腕に付着した。点々と白い肌を汚す赤色に錆びた鉄の匂い。それは酷く飢えた彼女にとって酷く蠱惑的な色彩と甘美な香りだ。乾ききった体が求めてやまない。昨夜から飲まず食わずの上、全身の傷を癒したせいもあり圧倒的に血が足りない。現に褐色の右腕はいまいちうまく体に接合できていない。薄い唇の隙間からちらりと赤い舌が覗いた。千里の瞳は赤い雫に釘付けだ。車のドアに手をかけたDIOが振り返る。
「それを許した覚えはないぞ」
途端舌は引っ込められる。瞳からも狂気の色が消え失せた。よく躾けられた犬である。DIOはその愚かなまでの忠実さを薄ら笑う。服従させるまでにあれほど手がかかったというのに堕ちてしまえばこの様だ。野犬のような荒々しさを持っていた千里も今や借りてきた猫のように大人しい。だが本能的な欲望をも押さえつけてまで主人に忠誠を優先する様は悪くない。
「まだだ、まだ我慢しろ。あとでたらふく血を飲ませてやる」
そう言い残し、DIOは車に乗り込んだ。走り去る車をしばらく眺めたのち、千里はゆっくりと周囲を見回した。夜の町を行き交う人々。誰もたった今起こった出来事に見向きもしない。しかし目立とうが目立つまいが千里の知ったことではなかった。未だ足元で喚く男を蹴り飛ばす。べきりと鈍い音がして男は黙る。彼女の革靴の先が赤く濡れた。それをじっと彼女が見つめる中、歩道から見て一番奥の車線に一台のバイクが車の間を縫うようにして現れた。顔を上げ、それを追いかける灰色の隻眼がすっと細まる。まだDIOから許可は下りていない。バイクはすぐに走り去った。
バイクの後部座席に座るポルナレフはふと何者かの視線を感じたような気がした。振り落とされないよう承太郎の腹に腕を回したまま何事かと周囲を見回す。頭にしがみついているイギーはポルナレフの感じたそれに気付いていないのか、なにも反応していない。
「どうしたポルナレフ」
「いや……」
承太郎の問いかけに生返事を返しながらポルナレフは対向車線の向こう側に目を向ける。夜が始まった時間帯だからか歩道には溢れんばかりの人々がいる。しかし彼は走るバイクの上から目的のものを見つけ出せるとは思えなかった。だが視線は変わらず自分たちに向けられている。遠くから見られているような、敵意も悪意もなにもない無彩色のそれは確かに彼らを捉えている。
その一瞬、たった一瞬のことだった。ゆっくり確認するほどの時間はなかったが、確かにポルナレフがそれを認識したのである。歩道を歩く人々の中に片袖のない黒いセーラー服姿の少女がいた。冷たい鉄色の隻眼がじっと彼らを見つめているように見える。
「千里……?」
しかしそれも一瞬のことだ。再度ポルナレフが確認しようとする前にその姿も雑踏の中に消える。目を凝らそうにも既にバイクは千里らしき人影がいた場所から遠ざかっている。戻って探そうにも夜の町に溢れる人々の中からたった一人の少女を見つけ出すことは容易ではない。それに今はDIOを追いかけているのだからなおさらのことだ。千里は死んだ。亡骸は確認していずとも、あの瓦礫の山に埋まって生きているとは思えなかった。どれだけ女らしくなくとも彼女は決して不死身ではない。仮に生きていたとしても動けないほどの重傷を負っているはずである。
「ポルナレフ、なにかあったのか」
「情けねえことに千里の幻を見ちまったようだ。あいつの無念を晴らしてやるためにも早くDIOに追いつかねえとな」
「――ああ」
ポルナレフはそれが幻影なのだと理解し、納得していた。それが幽霊だと言われても素直に受け入れられることだろう。執念深い千里らしいと笑い飛ばすことだってできそうだった。どこか後悔と哀愁を含ませるポルナレフの声に承太郎は短く返事をし、グリップを握る手に力を込めてアクセルを吹かす。
バイクに跨る男たちの顔を確認したのち黒い影が動き出す。トラックとバイクの二手に分かれ、DIOを挟み撃ちにするのだと気付いたのだ。雑踏の中をすいすいと縫うように歩いて車道へ近づく。後方で悲鳴が聞こえた。動かなくなった男のことなど千里はとうの昔に忘れ去っている。酔っぱらいが彼女にぶつかり罵声を浴びせようともお構いなしだ。因縁を付けて肩を掴んでこようとも、その手を砕きながら払い落とす。彼女の歩みを妨害するものは片端から排除され、悲鳴と呻き声だけが残される。
あまりにも多い邪魔すら気に留めることなく千里は車道に出た。車がけたたましくクラクションを鳴らしながら接近してくるが軽く跳躍してボンネットを踏みつけ飛び越える。そして対向車線を走る車の屋根に飛び乗った。自身の足で走るよりこちらの方が格段に速い。目をよくこらせば小さいながらも二人乗りのバイクを目視することができる。その先に自身の主の乗る車がいるだろうことは予測せずとも分かることだ。千里の乗る車を抜かすトラックがあれば屋根を蹴って乗り換える。渋滞に引っかかれば車の屋根伝いに先へと進む。時折怒声や車内から屋根を叩くような音が聞こえたが彼女の知ったことではない。ただただ二人乗りのバイクを追いかける。
ふと遠くに見える塔の壁に二つの人影が見えた。軽い身のこなしで建物の壁沿いに移動している。そしてそれを追いかける一つの影。バイクに乗る彼らは未だ気付いていないようだ。千里のいる場所から詳しくは見えないが、言う通りに動けとDIOに命じられている以上、バイクを追いかけるより主人を追いかけた方がいいと判断した彼女の行動に躊躇いはない。大型トラックの荷台に飛び移る。そこから街灯に跳躍し、それを足場に建物の壁からせり出す看板やバルコニーなどを利用して建物の屋上に着地した。今度は建物の屋根伝いに人影を追いかける。かなりの距離があるも、今の彼女の足ならば追いつくことは不可能ではない。