花京院とジョセフを追いかけていた最中、法皇の結界に誘い込まれたのだとDIOが気が付いたのは縦横無尽に張り巡らされたそれに気が付いたときだ。少しでも触れれば動きを花京院に探知され、エメラルドスプラッシュがDIOを襲う。網目状に展開されたそれの合間をくぐり抜けることは叶わない。塔の先端に立つ花京院は無防備に敵にその姿をさらしている。危険であることは彼も充分に承知しているがDIOの持つスタンドの能力を暴くための策だ。
「くらえッ! DIOッ! 半径二十メートル、エメラルドスプラッシュをーッ!」
花京院が叫ぶ。四方から自身目掛けて発射されるエメラルドスプラッシュを前に、DIOは不敵に唇を歪めた。逃げ場を失ってもその顔に焦りが浮かぶことは決してない。どのような攻撃を受けようとも、それが花京院の捨て身の策であろうとも彼のスタンドの能力がある限りピンチに陥ることはないいからだ。
「マヌケが……知るがいい……『世界』の真の能力は……まさに! 『世界を支配する』能力だということを!」
黄色いフォルムのスタンドが現れる。花京院にとってそれを見たのは二度目だ。傷の残ったまぶたを上げ、しっかりと二つの瞳で認知する。まだそのスタンド能力は発動していない。発動すれば即座に法皇の結界をもってして知ることができるからだ。能力を発動した瞬間が敵スタンドの正体を知るチャンス。緊張感が高まる。
「世界!!」
闇夜にDIOの声が響き渡る。その余韻が消えるか消えないかの刹那、時間と時間の間に隙間ができた。エメラルドスプラッシュは固まったようにその場に留まり、崩れ落ちる瓦礫は空中で動きを止めた。時計の針が止まる。DIOの中の時間は狂わず進んでいるが、彼を除くすべての時間は静止する。
「これが……『世界』だ。もっとも時間の止まっているおまえには見えず感じもしないだろうがな……」
止まった時の中でその声が聞こえるのは発している本人だけだ。花京院の目は確かにDIOを映しているが鏡に姿を映しているだけと同様である。そもそも流れる時の中で生きている彼がDIOの世界に入り込めるはずがない。
DIOは周囲に張り巡らされた法皇の結界を切断し、ゆっくりと四方を見回す。その双眸に映るのは無防備に突っ立っている花京院と塔の陰に身を潜めて様子を窺うジョセフ。そして灰色の瞳は停止した世界の中でもまっすぐDIOに向けられている。いつの間に追いついたのか、あと数秒もしないうちに彼の元に到達することだろう。なかなかに忠実で使える駒だ。DIOの目的はジョセフただ一人であるため、ここで増援は悪くない。
そして時は動き出す。
「さあクオレマ、許可しよう」
DIOの声が酷く遠い。半径二十メートルにも及ぶ法皇の結界をあっさりと突破されたどころか、一瞬にして法皇の結界すべてを同時に切断されたことに驚く暇など花京院にはなかった。思考も意識も決して分断されていないにもかかわらず、まるでテレビのチャンネルが切り替わったように眼前の状況は変化していた。法皇の結果で探知する前にDIOは行動を終えていた。脳内で情報の処理が追いついていない。瞬きの瞬間に起こったことだったら違ったかもしれない。だが瞬きをする間もなく状況は一変した。大きな隙が生まれる。
花京院の停止した思考が再び動くよりも先に彼とDIOの間に割って入るようにして黒い陰が現れた。感情のない爛々とした灰色の瞳が花京院を映す。彼に驚く暇など与える前に褐色の腕が振り上げられた。猛禽類の爪のように曲げられた指先が獲物を狙う。後ろに足場がないことを忘れて花京院は両腕を盾にし咄嗟に身を引いた。褐色の指先が彼の両腕の肉を削っていく。落下する花京院が目にしたのは、それまで彼がいた塔の先端に悠然と立ち、真っ赤に染まった指先を舐める千里の姿だった。赤い舌が酷く艶かしい。
「あいにくおまえの相手をしている暇はないのでな。代わりといっちゃあなんだが……我がしもべに頼むとしよう」
DIOの笑い声が夜に響き渡る。徐々に赤みを帯びていく茫洋とした隻眼は決して花京院から離れず、それが標的を定めた獣のそれだと彼は悟った。最大音量の警鐘が脳内で鳴り響く。地面に着地してすぐに花京院は走り出した。咄嗟に取ってしまった行動が逃走だとしてもそれを恥じる余裕はない。DIOに法皇の結界を突破されたことと同等かそれ以上の衝撃が彼を襲う。死んだと聞かされていた千里が生きていた。それだけではない。まさか敵対するとは思いもよらない。
花京院の後を追って千里が塔の先端から身を躍らせた。背後にいるDIOのことも、先刻まで追いかけていた承太郎たちのこともすでに彼女の思考の中から消えている。今は主人に命じられるがままに一人の敵を殺すことだけがすべてである。指先に付着した血液だけではまったく足りない。乾ききった体はさらに多くの血を望んでいる。
落下しながら千里は白い手の中にハンドガンを発現させた。いつもより大型のそれは吸血鬼の力を得たからこそ扱える代物であり、そこに躊躇いはない。逃げる敵の後頭部から狙いをそらさぬままプラネット・スマッシャーズの引き金を引いた。一直線に飛んでいくスタンドの鉛玉は突如発射されるエメラルドスプラッシュにより相殺されてしまうも千里は銃弾が尽きるまで引き金を引き続ける。
地面が目前に迫った中でも赤く染まる千里の目は花京院だけを追いかける。地面になどまったく目もくれず片手で落下の衝撃をすべて受け止め体を回転させながら新たな銃を発現させ、標的に向かって発砲する。両足が地面に着く瞬間には全弾撃ち切っており、同時に彼女の足は地を蹴っていた。そのまま四足で駆け出すのではないかと思うほどの低い姿勢で花京院を追いかける。普通の人間ならば到底できない芸当だが千里はすでに人間ではない。尋常でない身体能力を身につけた吸血鬼なのである。
「千里!」
逃げながらでは満足に叫べもしない。千里が敵に回ってしまった現実を花京院が受け入れるにはまだ時間を必要とする。しかしどれだけ現実を拒絶しようとも彼女の目は花京院に狙いを定めている。ただただ無表情に敵の喉を食らいちぎるまで狼は走り続ける。花京院の声は千里に届いていない。
洗脳かと花京院が思ってしまっても仕方のないことだ。肉の芽という前例を知っているためにその結論に至ってしまうのはごく自然のことである。だが花京院はすぐにその考えを改めた。いつもの冷え切った鉄色の瞳はどこにもなく、あるのは真っ赤に焼けた鉄の色だ。鮮やかな瞳は発光しているはずがないのに輝いて見える。肉の芽の作用ではない。それに彼女が二度までも肉の芽に支配される気がしなかった。それでは特別な洗脳を受けたのか。走るスピードを早めながら花京院は思考を張り巡らせる。加えてDIOの発言。それだけあれば充分だ。証拠はなくとも推察はできる。
あいにく花京院は同年代の中では頭がよかった。分析力に優れ、頭の回転が速い。また察するという行為も慣れたものだ。それは生来のものに加えて千里と接する中で得たものでもある。なぜなら彼女はいつも必要最低限しか喋らないため言葉数が少なかった。言葉にする前に行動に移していた。知らない者からすれば突飛であり面食らうことが多いだろうが決して無意味なことはしないため、彼女の行動は常に合理的であった。それについていくには千里の数少ない言葉とわずかな動きから察しなければならない。千里という一人の少女を理解したいがために身につけた能力は花京院に残酷な現実を見せつける。
最悪の結論を導きだしたところで花京院は即座にそれを否定した。なぜなら肯定する証拠がない。今あるのはポルナレフの証言だけだ。それに彼は実際にその目で確認したわけではない。まだその結論を出すには早すぎる。肉の芽以上の強力な洗脳によって千里はDIOに操られている。彼はそう信じたくて仕方がなかった。だが指先に付着した血液を舐め上げる千里の姿が網膜に焼き付いて消えてくれない。まるで吸血鬼のようだと一瞬でも思ってしまった自身を罵り、彼は自身の目的に思考を移す。どれだけ気になって仕方がなかろうと、花京院が最優先にすべきことは千里ではない。