花京院はハイエロファントグリーンの触脚を街灯に巻きつけて跳躍する。間髪入れずさらに高いところへ移動しようと屋根に引っ掛けて街灯を蹴った。隠れる場所は少ないが少なくとも地上よりは逃げ場がある。足を止めることなく花京院は屋根から屋根へと飛び移った。両腕の傷が熱を帯びて痛みを発する。学生服の袖は斬り裂け、肌の上に深々と赤い溝ができていた。
千里が気にならないと言えば嘘になる。しかし彼女ばかりにかまけていられないのも事実だ。花京院は走りながら思考する。突然千里が現れたことに酷く動揺してしまったが、DIOの前に姿をさらした理由を忘れるわけにはいかない。彼には『世界』の能力を見極める目的がある。そのために法皇の結界を展開してDIOをおびき寄せたのだから、その続きを行う義務があった。いつまでも敵のスタンド能力に戸惑っているわけにもいかない。
半径二十メートルにも及ぶ法皇の結界をDIOは一瞬にして断ち切った。ほんのわずかな時間差もなく、同時にすべてを。元々花京院は頭の回転が早い方だ。ゆえに時間は要したが、結論に達することはできた。ザ・ワールドの能力は時を止める。それがわかれば次にすべきことはDIOが狙っているジョセフに伝えることだ。言葉で伝える余裕がないのだから行動で伝えるしかなく、一秒たりとも無駄にはできない。花京院はすぐに行動に移った。
建物の間から時計台がちらりと見えた。法皇の結界を展開する前から常に視界に入ってたそれならジョセフからも見えているはずだ。しかし時計台まで距離がある。エメラルドスプラッシュの射程圏内に入るために近場の建物の屋上に設置されている貯水槽にハイエロファントグリーンの触脚を絡めて飛び移った。正確に、そして確実に時計盤に攻撃を当てて針を止める必要がある。
はるか下方から悲鳴が聞こえた。その合間に聞こえる喧騒や銃声が花京院に現状を知らせる。千里は確実に花京院を追いかけてきている。しかし屋根の上には登らずに建物沿いに道路を走っているらしい。そしてなんの関係もない一般人を巻き込んでいることは見なくてもわかった。奥歯を噛み締め、花京院は時計台に狙いを定める。千里を止めることも非常に重要ではあったがジョセフにDIOのスタンドの正体を伝えることも同様に重要であり、また先決事項である。
貯水槽の上に立つ花京院が一呼吸したのち、エメラルドスプラッシュが時計台を攻撃する。内部の歯車が破壊され、同時に時計の針が止まった。大きく響いた破壊音にジョセフも気がついたことだろう。もっともすべきことを終え、花京院は小さく安堵の息を吐き出した。だがすぐに気を引き締める。ここから先も一切気を抜く暇などない。ハイエロファントグリーンを近くに発現させたまま花京院は四方を見回す。いつの間にか銃声は止んでいた。
不意に花京院の頭上に影がさす。花京院が上空を見上げたとき、千里はすでに近くまで迫っていた。当然のように気配はなかった。踵が彼の脳天に狙いを定めている。花京院は咄嗟に貯水槽から飛び降りた。獲物を失った千里の踵が貯水槽を真上から圧し潰すように破壊する。貯水槽は大量の水を撒き散らしながら地面へと落ちていき、また地上が騒がしくなった。突然空から貯水槽が落ちてくれば当然騒ぎになる。もしかしたらその下敷きになった一般人がいるかもしれない。しかしそこまで気を回すほど花京院に余裕はない。
「千里、ぼくの話を聞いてくれ!」
花京院の声はやはり千里に届いていないらしい。茫洋とした目がゆっくりと彼に向けられる。赤い瞳はもはや人ではなかった。一直線に引き結ばれた薄い唇の奥に潜む二本の牙を花京院は知らない。白色の手と褐色の手のそれぞれに一丁ずつ拳銃が握られる。二つの銃口が花京院に向けられた瞬間にはすでに引き金が引かれていた。
一発二発では終わらない弾丸の猛攻を前に避けきれないと悟った花京院は迎撃することを選ぶ。エメラルドスプラッシュと弾丸がぶつかり、破裂する。ばらばらと砕け散る鮮やかな緑色の礫の奥で緋色の瞳が輝いた。軽く地を蹴りアサルトライフル片手に一気に距離を詰めてくる千里に対し、足元に張り巡らされた蔦が即座に反応する。千里の足を絡め取って体勢を崩したのち、無数の触脚が彼女の両腕の自由を奪った。アサルトライフルの銃口も無理矢理夜空に向けられる。
両手足の自由を拘束され宙吊りとなった千里の姿に花京院は既視感を覚えた。初めて彼女と対峙した時も同じような状態になったと思い出す。あのときの千里は肉の芽によって操られていた。今は肉の芽以上のものによって操られていると思いたくて仕方がなかった。しかし鈍い赤色に染まった瞳を間近に見て花京院の思考は悪い方へと向かっていく。その色に見覚えがあったからだ。首筋に深々と刻まれていたはずの傷跡もない。まさかと予感しても彼女の口内を確認するほどの勇気はなかった。その行為は花京院の願望を粉々に砕き、同時に絶望する可能性があったからだ。
「きみがDIOに従っているだなんて信じられないんだ。頼むから嘘だと言ってくれ」
花京院をじっと見つめる能面を被った顔はなにも語らない。わずかでも表情に変化があればそれを読み取ることができるが、そもそも千里は滅多に感情を表さない。これまでの敵のように饒舌だったらどれほどよかったことか。一言二言でも言葉を発してくれれば彼女がどちら側かはっきりするというのに。もしかしたらDIOに喋ることを禁じられている可能性もあったが花京院にはわからない。
冷ややかに花京院を見つめる千里がいつまでも拘束されたままでいるはずがない。強制的に銃口を空へと向けているアサルトライフルに固執する必要はないため躊躇いもなく消した。それからゆっくりと両腕に力をこめていく。DIOと比べれば非力だが、それでも成人男性以上の力は出せる。軋むような音を花京院の耳が拾った直後、千里は両腕を拘束していた触脚を引き千切った。両腕だけでも自由になれば問題は無い。サブマシンガンが現れる。そこに存在する殺意は明確だ。戦闘不能なんて生易しいものではなく、五体満足の死体を作り上げる気もさらさらない。熟れた果実が地面に落ちて潰れたような肉塊を製造するのみである。
花京院と千里の間に銃弾を避けるだけの距離は充分にない。有効射程距離内にしっかり入ってしまっている。防ぐための壁はなく、また続けざまに吐き出される銃弾をすべて避けることも不可能だ。結果、花京院も再度エメラルドスプラッシュを至近距離から放つことを選択する。少しでも被弾を抑えるためには銃弾を落とすしかない。サブマシンガンが弾切れを起こすまでエメラルドスプラッシュを放ち続けて相殺すればいい。花京院の目の前に現れたヴィジョンはすでに掌を千里に向けていた。途端互いの全身に無数の細かい傷ができあがる。
しかしいつまでも弾幕のぶつけ合いをしているわけにもいかない。サブマシンガンが弾切れを起こしたその一瞬、追撃から逃れるために花京院は地上へと身を躍らせた。それを追いかけ千里も飛び降りる。しかし花京院はすぐさまハイエロファントグリーンの触脚を少し離れた建物に引っ掛け、振り子のように大きく空中を移動する。しかし千里はそうもいかず花京院から目を離さぬまま地上へと落下していった。
花京院が無事屋上へ着地したと同時に地上から大きな音がし、そしてあの殺気が彼に向けられる。花京院の聞いた音は千里が車のボンネットに着地し、車が大破した音だったのだが当然花京院が知る由もない。車の所有者らしい男が千里に掴みかかるも腕を一振りして大破した車に叩きつける。血しぶきが彼女の頬を汚した。その匂いに千里は酩酊しかけたがすぐに自身の役割を思い出し、騒ぎが大きくなろうとも構わず千里は花京院を追いかける。彼の血の匂いはすでに覚えた。跳躍してすぐに千里は足元にスタンドを発現させる。靴の下に現れたアサルトライフルの銃身を蹴ることによりさらに上空へと跳躍した。それを繰り返して一気に夜空を駆け上がり、花京院との距離を詰める。
撒いたと思った千里が再度突然現れたことに花京院は瞠目する。体勢を立て直し対策を考えようとした矢先だったため、完全に想定外であった。追いかけてくることは予測していても、まさかこんなにも早く追いつかれるとは思ってもいなかったのである。なぜなら彼女のスタンドは空を飛ぶことも彼女自身の行動をサポートすることもできないからだ。
その一瞬の隙をついて褐色の腕が伸び、花京院の首を掴む。綺麗に磨き上げられた爪が深々と食い込んだ。