砂漠での声

 昔採血をしたときのことを花京院は覚えている。注射器一本程度の量ではあるがなんとなく血管の中が冷えるような、採血という行為から得られる感覚は表現が難しい。なぜそのようなことを思い出してしまったかといえば、現在彼の置かれている状況がそれによく似ていたからだ。しかし注射針ではなく人間の指、しかも血を抜き取られるスピードは比べものにならないほどに早い。それでも花京院はその感覚に対し、吸血されているのだと自覚していた。この間ほんの数秒足らずである。
 千里の指先は花京院の首筋に潜り込み、血液を吸い上げ始めている。千里の指と言うには語弊があるが、それを操っているのは確かに彼女なのだからあながち間違いではない。褐色の右腕は元の腕より華奢で戦闘に慣れていない、普通の女性のもののように見えた。しかし行為は吸血鬼そのものだ。彼らにとってそれは食事である。
 拘束から逃れようと花京院は褐色の手首を掴んだ。しかし鋼鉄のように酷く冷たく、そしてどれだけ力を込めようともぴくりとも動かない。両手で掴んだところで同様だった。普通の少女の力ではない。それは千里が吸血鬼へと成り果てたのだと嫌でも実感してしまう現実である。
 喉仏を強く押し込まれる。その痛みと苦しさに花京院は一瞬意識を飛ばしかけるもどうにか持ち直す。そんな暇はまったくないからだ。間違いなく千里が敵になってしまったと理解してもなお、花京院は彼女に対して本気で立ち向かえそうにない。今だって腹に蹴りを入れることを考えるもそれを選ばない愚かさが彼の中に居座っている。仲間だから。ただそれだけの理由が彼の決意を鈍らせている。
 まだ家出少女がいたころだろうか、過去に彼女は言っていた。情に絆されてはいざというときにそれが邪魔になると。自身が敵に回ることを予測していたわけではないだろうが、こうなる可能性を危惧していたのかもしれない。かつての仲間でも敵対すれば情けをかける理由もない。千里は敵味方関係なく容赦をしない。彼女が言っていたものは仲間を切り捨てる覚悟だ。だが花京院はそれができない。敵になってもなお、千里は彼の仲間だからだ。その証拠に未だ彼は千里を攻撃できていない。
 突然、砂の激流が千里を横から襲う。全身を飲み込まんとするその勢いに負けて彼女は吹っ飛ばされた。同時に花京院の首から指が抜け、接合が甘かったらしい褐色の腕だけがその場にぼとりと落ちた。そのまま千里の体にまとわりついた砂は地面に彼女を叩きつけ、大量の砂で圧し潰す。砂山の端から血が滲み出る。
 いつの間に追いついたのか、花京院の足元でイギーがフンと鼻を鳴らした。小さくとも鋭い双眸が睨みつける先には屋上には不釣り合いな砂の山がある。滲み出る血液は当然のように赤い。それを前にして花京院は不覚にも怯んでしまった。彼にとって仲間の死とはこれが初めてであったからだ。人の死とは呆気ないものだと頭では理解していても心が追いつかない。千里がすでに人間ではなくなっているとわかっていても、である。

「イ、イギー……」

 猛犬は花京院を見上げる。男のくせに情けない声を出してんじゃあねーぜッ。そう言っているようだ。
 ポルナレフが千里の幻を見たという。彼の頭の上でそれを聞いていたイギーは彼の話をあまり信用していなかった。どちらかといえばポルナレフはお調子者であるし、感傷的でもある。千里が死んでセンチメンタルな気分になっていたからそんなものを見たのだとイギーは思った。しかしその後DIOがジョセフと花京院を追いかける様子を遠目に見た時、もう一つ黒い影が彼らを追跡していることを確認していた。そこでイギーはポルナレフが幻を見たと言っていたことを思い出す。嫌な予感がしたため承太郎とポルナレフと別れたイギーは自身の嗅覚と聴力を頼りにその人影を追いかける。そして追いついた屋上で見たものは千里が花京院の首を絞め上げているところであった。千里の指先は花京院の皮膚の下に突き刺さっている。そこでイギーは悟ってしまった。
 ヴァニラ・アイスとの戦いの最中に見た千里の様子、なにかに耐えるような、また抑え込むような姿をイギーは小さな頭の中で思い出していた。体調不良ではなかったのである。そしてヴァニラ・アイスと同様、炎の生命探知機に引っ掛からなかった理由も頷ける。生命探知機の名を冠する通り生き物の存在を探し出すには打ってつけだが、死人にそれが通用するかといえば話は別である。千里は死人だ。しかもヴァニラ・アイスとの戦いの前には死んでいる。一度死んだのだから二度も三度も死ねるはずがない。そして瓦礫に埋まった千里が生きている。さらにヴァニラ・アイスという前例がある。ここまでくれば答えはわかったようなものだ。イギーと共に戦った千里は味方だったが、今の彼女は敵である。しかも吸血鬼として敵対している。
 花京院が我に返るまで多少の時間が必要だった。千里が圧し潰されたことを嘆くべきか、イギーに救われたことを感謝すべきかわからない。ただ彼女が吸血鬼と化したことだけでも伝えなくてはと虚ろな思考が緩慢に囁きかける。首にできた新しい傷を手で押さえる。生暖かいものがぬるりと花京院の手を汚した。

「イギー、千里は……」

 その先の言葉はイギーの表情を見て飲み込んだ。すでに理解している顔だ。彼は覚悟を決めている。花京院は仲間から砂山へと目を向けた。ザ・フールの攻撃で彼女が戦闘不能になったとは到底思えない。
 花京院の視線を受けるように辺り一帯の空気が震えだす。ぞくりと身を竦ませるような殺気が一人と一匹を襲った。発生源は間違いなく砂の下からだ。その威圧に怯んだ花京院の手が学ランのポケットに触れた。その中に収まる硬いものの存在に気が付き一瞬意識をそちらへ奪われるも、それの正体を思い出してそっとポケットに手を入れた。握り締めて得られる安心感は一種の現実逃避であり、また無理にでも決めなければならない覚悟でもある。
 大量の砂が舞い上がった。砂山を突き破るようにして千里が立ち上がる。破れほつれたセーラー服はもはや布切れ同然となっており、彼女自身の血液でぐっしょりと濡れている。黒い生地のために花京院の目ではわからないが、イギーの鼻はその血生臭さを嗅ぎ取っていた。右肩に接合されていた褐色の腕は花京院の足元に転がっている。彼女の肩の傷口はすでに血が止まっており、断面にはうっすらと肉が盛り上がり始めていた。間違いなく人ならざるものの力である。
 目の前の少女は花京院とイギーに対して敵意を向けている。それは今に始まったことではなく、もう何発、何十発と発砲されていた。しかし向けられた銃口をそらすために咄嗟に伸ばされた触脚がプラネット・スマッシャーズに触れた瞬間に聞こえた獣の咆哮。静かなる叫び。花京院の鼓膜を力強く震わせる。そもそも叫ぶどころか大声を出すような性格ではない彼女の声はスタンドを介さなければ決して聞こえはしない。今だって一見すればいつもの無表情だ。動かない表情筋とは裏腹に精神は非常に荒れているようだった。その叫びは残った一抹の自我をもって人格を完全に乗っ取られることを拒んでいるものなのか、飢餓からくる本能的な欲求に従っているものなのかはわからない。花京院の希望としては前者であるが、未だ彼女は花京院の言葉に反応してくれていない。

「千里! 返事をしてくれ!」

 どうにかしてでも声を届けようと花京院が叫ぶ。しかし返答は銃弾ばかりだ。敵意むき出しの隻眼が彼を射抜く。鉄のように冷え切っており、また燃え盛っている灰色の瞳は決して標的を見失いはしない。再度声なき声で千里が吼えた。獅子の咆哮を彷彿とさせるそれは天地を震わせるような、また生けるものすべての身を竦ませるような響きを孕み、そして酷く乾いていた。
 獣の叫びがぴたりと止んだ。鋭い赤眼が花京院とイギーから離れ、どこかを見つめる。その隙をついてザ・フールの爪が千里を殴りつける。それを避けながらも反撃に移らない千里はそのまま二人を一瞥することもなく地上へと飛び降りた。地上から悲鳴が上がる。それまで追う側だった千里が突然逃げ出したことに疑問を覚えつつも花京院とイギーは彼女を追いかけ屋上から跳躍した。