DIOは敗北を想像したことがない。冷や汗を掻くことはあってもその先に敗北を見たことはない。自身が負けるところなどイメージできなのだから彼は常に勝者であり続ける。取るに足らない人間も、ちょっぴり優れた能力をつけていい気になっているスタンド使いたちも彼の敵ではない。どれだけ小手先で策を弄しようともザ・ワールドの前では児戯に等しい。DIOは一笑に付すばかりだ。百年前に戦ったあの尊敬すべき仇敵相手ならば敬意を持てただろうが、その子孫たちにまで同様の態度を示す必要は無い。
承太郎が止まった時の中に入門した。さすがのDIOもそれには驚いた。しかし承太郎が止まった時の中で自由に動き回れる時間はほんの数秒未満、DIOに遠く及ばない。それさえわかってしまえば恐るるに足らず、ピンチに変わる理由にはならない。
しかし承太郎は凡庸な人間ではなかった。小手先のトリックでDIOを翻弄し、迂闊にも彼はそれに踊らされてしまう。全身にナイフが刺さり倒れた承太郎が生きているかどうか、呼吸の音も心臓の鼓動も確かめたというのに最後の最後で騙された。それに加えてDIOには慎重であるとは言い難い。詰めが甘いとも言えた。いつだって油断してしまうから百年前も今も要所要所で敵を仕留められない。戦闘不能に等しいポルナレフも未だとどめを刺せていないのだから彼の油断はいつも悪手である。
承太郎の首を落とすならDIO自身の世界の中ですればよかった。しかし彼は誤った。時の流れる世界で首を刎ねようとしたのだから、承太郎から手痛い反撃を受けてしまったのである。超至近距離から受けたスタープラチナの一撃は確実にDIOの側頭部に直撃した。頭蓋骨が陥没し、血を吐き出す。しかしスタープラチナは一気にDIOを吹っ飛ばすのではなく、押し込むようにギリギリまで敵の頭に拳をねじ込んでそれから殴り飛ばした。相当な勢いと衝撃をもってDIOは吹っ飛ばされる。
たかが人間に手痛い一撃を喰らってしまったことに忌々しさを感じたDIOだったが、立ち上がろうとした瞬間足がもつれて転倒してしまった。思うように力が入らない。しかも頭痛に吐き気。通常では考えられない体調不良にDIOは混乱する。たった一発頭を殴られただけにしては、と焦りが生じた。とにかく今は逃げなくてはと彼は思う。
どうにかして承太郎を出し抜かなくてはと思考を巡らすDIOの耳に銃声が届いた。夜の喧騒にまみれて人間の耳には聞こえずともDIOは確かにそれを聞いた。途端、自然と口角が上がったのが彼自身にもわかった。承太郎がガソリンの入ったバケツを持って近づいてこようとも気にはならない。なにせピンチはすでに遠ざかったも同然だからだ。一声呼べばいい。承太郎とポルナレフはまだ知らないはずだから丁度いい。力一杯叫ばずともそれは来る。
「来い、クオレマ!」
一瞬承太郎の動きが止まる。怪訝な表情が浮かんで消えた。千里はすでに死んでいるためそれをDIOのハッタリだと思ったのだ。再び歩き出し、バケツの中身をDIOにたっぷりと浴びせる。数秒にも満たない間だったが時間稼ぎには十分すぎた。口上を述べる承太郎を見上げ、DIOは笑う。狼の最高速度は自動車のそれに匹敵する。つまりは、そういうことだ。
「承太郎うしろだッ!」
ポルナレフの叫びと同時に巨大な敵意の塊が物凄い速度で背後から承太郎に接近する。振り返って確認する余裕もないほどのスピードを前に承太郎は振り向きざまにスタープラチナで迎撃することを選んだ。彼の背後にスタープラチナが現れる。それと同時に承太郎は振り返り、スタープラチナは拳を突き出した。月を背後に影が差す。コンマ一秒、承太郎の両目が大きく見開かれた。
そこにいたのは残った左腕を振りかぶる千里だった。ルビーの瞳を爛々とさせ、スタープラチナに殴りかかる。しかし生身ではスタンドに触れることができない。即座にそれを思い出したのだろう、彼女の拳の前に一丁のハンドガンが現れる。常ならば銃口は敵に向いているはずだがその時は横を向いていた。避ける間もなく、プラネット・スマッシャーズ越しに二つの拳がぶつかり合う。しかしスタンドと生身の体では勝敗などわかりきっていた。バキバキと音を立てて千里の拳は砕け、腕から骨が突き出す。使い物にならなくなったことは誰の目から見ても明らかだった。
左腕から血を撒き散らしながら彼女は地面を転がり、DIOを背に立ち上がった。その間に左腕の怪我は修復される。そこでようやく千里はスタンドを握った。承太郎への奇襲はDIOから意識をそらすことが第一の目的であったため直接的な攻撃を選んだ。遠距離から狙撃してもよかったのだが距離があればあるほど着弾に時間がかかり、スタープラチナに銃弾を捕捉されてしまう。スタープラチナに銃弾は効かない。ならば一気に距離を詰めて敵の意識を完全に彼女自身に向けてしまった方がDIOのためにはいい。
DIOに呼びかけられ千里が片膝をついた。背後から彼女の首筋に男の太い指が突き刺さる。第一関節までを肉の中に食い込ませ、少女の血液を吸い上げた。少女の表情は変わらない。
「ン−、やはり同族の血では意味がないか……だが、ナイスタイミングだ」
上体を起こし、余裕と取り戻して笑みを浮かべるDIOとは対照的に承太郎の表情が凍る。数秒遅れて花京院とイギーが追いついた。全身から血を流す承太郎と先ほど叫んだことで力尽き意識を失ったポルナレフ、そしてDIOの存在に気づいて彼らは立ち止まる。新たな敵の登場にDIOは片眉を器用に跳ね上げた。しかし今警戒すべきは承太郎だけで他の有象無象は恐るるに足りない。
「ン? まだ花京院を殺せていないのか? それに与えてやった腕まで失っているとは不出来にもほどがあるぞ」
こうべを垂れる少女を一瞥し、黄金と真紅の入り混じる瞳が目敏く花京院の首に残る傷に気が付く。にわかにDIOの口元は三日月に歪んだ。それはもう愉快だと言わんばかりに口角を上げる。
「だが……食らったな? 花京院の血を飲んだな? 人間を餌にしたな? 喜べ、これでおまえも紛うことなき我が同族だ」
承太郎やポルナレフにもはっきりと聞き取れるよう声を響かせるのは意図してのことだ。明言はせずとも彼らにもわかるよう言葉にする。それは精神的ダメージを狙ってのものであり、動揺を誘えば誘うほどDIOが有利になる。それに敵は一人ではないと知らしめるにはちょうどいい。残る一人の新参の部下とはいえ戦力にはなる。さらには承太郎たちにとってはこの上もなく厄介な敵だ。彼らの顔を見ればわかる。まさに笑いが止まらないというものだ。流れは完全にDIOに向いた。そして時を止める。
「――さて、わたしはこれから行かねばならぬところがある。あとは任せたぞ」
止まった時の中でその声が聞こえるのは承太郎くらいのものだろうが、彼も指先を動かすだけで精一杯のようだ。入門を果たしていない千里は花京院やイギーと同様に停止している。だがDIOはわかっていた。主人の声など聞こえずとも千里は彼の意図するところを察して動いてくれる。生まれ変わった彼女の使命はDIOの命令を忠実に守り、彼の敵となる人間どもを排除することのみにあるからだ。
ちょうど通りかかっていた車のバンパーにDIOが掴まったところで五秒が経過し、車とともに遠ざかる。承太郎は肩に刺さっていたナイフを抜き取りスタープラチナが車のタイヤに向かって投げようとしたところで、それを撃ち落そうと瞬時に千里が大ぶりのマグナムを発現させて発砲したのだが、それよりも早く緑色の触脚がマグナムを弾いたため銃弾は見当違いの方向へ飛んでいく。その間にナイフが車のタイヤに突き刺さった。それならばと直接承太郎を攻撃しようとした千里を鞭のようにしなる触脚が妨害する。ハイエロファントグリーンを背に花京院が彼女を睨んでいた。視線をそらさぬまま静かに承太郎を呼ぶ。
「早くDIO追いかけるんだ」
「花京院」
「彼女は……千里はぼくが止める」
「――わかった」
承太郎はDIOを追いかけて走り出した。主人の邪魔はさせまいと千里も同時に動き出そうとしたが触脚と砂がそれを妨害する。赤い瞳が一人と一匹を睨みつけるも、もはや花京院は怯まなかった。迷いはある。しかし千里が承太郎を攻撃したことで目が覚めたような気がした。声が届く前にまた彼女は誰かを傷つけることは明白だ。力づくで捩伏せるくらいのことはして止めなくてはならないと花京院でも理解できた。
イギーが低く唸る。それに同調するようにザ・フールも姿勢を低くし、唸り声は出さずとも威嚇しているようだ。しかし花京院がそれを手で制す。ポケットの中にあるそれに上から触れれば不思議と声は震えなかった。
「イギー、きみにポルナレフを頼みたい。彼女の相手はぼくがする」
さっきまでびびってた癖に強がってるんじゃあねーぜ。イギーの小さな瞳が雄弁に語る。獣の感覚は人間のそれに比べてはるかに鋭い。花京院の覚悟の中に潜むものには気が付いていた。まったく格好つけようとしやがって。ふんと鼻を鳴らして彼はトコトコと倒れるポルナレフへと歩み寄る。まったく人間というものはどいつもこいつも世話の焼けることだ。
イギーの動きを視界の端に映しながら花京院は学ランのポケットからリボルバーを抜いた。そして千里に向ける。それは霧の街で千里が死体から得たものであり、花京院の手に渡ったのちジョセフに渡し損ねていたものだ。名も知らないリボルバーの持ち主はとうの昔に死んでいる。メンテナンスは完璧、のはず。弾は六発。使ったことなど当然ないが使い方は間近で見てきたからよく知っている。
「こんなものできみが止まるとは思わない。けれど、ぼくがきみを止める」
ゆっくりと瞬きしたのち、千里は花京院を視界に入れた。DIOは勝機を掴むためにこの場を離れた。それを承太郎が追いかけているが、彼を優先すれば目の前の男もついてくる。それはあまりいいことではない。確実に敵を減らすならば目の前の男を殺し、犬を殺し、それから承太郎を追いかけて殺せばいい。そう判断した千里の目は花京院だけに向けられる。