翌日、朝食の時間にそれぞれの行動の確認が行われた。承太郎と花京院はインドへ向かうための列車のチケットを手に入れる役目を昨夜ジョセフから仰せつかっている。家出少女は相当承太郎に懐いたらしく、自ら申し出て二人について行くことになった。千里は自身に必要なものとジョセフから渡されたメモのものを買い出しする役目を受ける。
朝食後、千里は少女が部屋から出ていくのを見送ってからベッドに入って一時間程度の仮眠を取ることにした。買い物は今日中であればいつでもいいと言われていたため、焦る必要がなかったのである。結局一晩中シンガポールの街中を徘徊し、部屋に戻ったのは朝方だった。窓側のベッドには家出少女が潜り込んでいた。一方千里のベッドには誰もおらず、部屋を出る前の状態のまま、わずかなシーツの乱れすらなかった。
人の気配があると眠れないと言えば大げさだが、千里はそれに近い。基本的に外出先で深く眠らないのは癖であったが、人の気配に対して多少敏感であるために、出入りされたり部屋の中を歩き回られたりすると簡単に目覚めてしまうのである。ゆえに誰よりも遅くに眠り、誰よりも早く起きるのが常であった。それにいつ敵の襲撃があるかわからない現在、満足に眠れるわけがないと千里は理解していた。
控えめなノック音で千里の意識は一気に浮上する。まさか敵ではないだろうと一応の警戒をしながら鍵を開ける。そしてドアの先に花京院がいたことにいささかの既視感を覚えた。昨晩と同じく、どこか気まずそうな表情を浮かべている。
「承太郎は、来ていないよね?」
なにを言い出すのかと千里はわずかに眉をひそめる。承太郎と花京院は列車のチケットを手に入れるために駅に向かったのではないのか。家出少女もそれについて行ってしまっている。千里が仮眠を取る前の話であるから、もう一時間近く前のことだ。しかし未だにホテルにいるのはどういうことなのだろうか。
「ああ……やっぱり承太郎に置いて行かれたんだな。ロビーで待ち合わせしていたはずなんだけど、なかなか来ないから」
花京院は自嘲の笑みを浮かべる。承太郎は同じ部屋だが、部屋を出たのは別々であった。しかしいくら待っても承太郎は現れず、部屋に戻ってみても誰もいない。念のためエントランスに出てみたが、あの巨体はどこにもなかった。花京院は家出少女もついてくると言っていたことを思い出したため千里の部屋を訪れたのだが無駄な徒労に終わってしまったのであった。
「きみの買い物について行ってもいいかい?」
内心ではあるが、千里はなぜと花京院に問いかける。花京院は千里のことが苦手ではなかったのか。苦手意識を持っていてなぜあえて接しようとしているのか、理解ができない。チームの和を乱さないようにするとしても、最低限差し障りのない程度に関わっておけばいいものを、なぜ踏み込んでこようとするのか千里にはわからない。
「昨夜のことを謝りたくて。お詫びに荷物持ちにでもなんでも使ってくれ」
千里にはそれが理解できない。謝罪はまだわかる。花京院がまめな性格なのだろうと思えるのだが、言葉だけでは足りないのかわざわざ荷物持ちを申し出るなど理解の範疇を超えていた。どこまでお人好しなのだろうかと千里は思う。彼女自身、昨夜の花京院の態度に微塵も怒っていないどころか気にも留めていない。そんなことで一喜一憂するほど千里は他人と関わろうとしないからだ。しかし花京院がそれでいいというのならば千里がとやかく言う必要もない。その結果、千里と花京院は連れ立って買い物に行くことになった。
眩しい日光に千里は肩を竦め、マフラーを口元まで引き上げた。マフラーといっても真冬につけるような分厚いものではなく、薄くて通気性の非常に良い生地である。ストールを折り畳んでマフラーにしていると言った方が正しいかもしれない。東南アジアらしいデザインをあしらった深緑色のそれは元々の値段より何分の一にも安い価格で購ったのだが、そこには家出少女が押しに押して値切ったという経緯がある。千里自身、丈夫であれば色も値段も頓着する気はなかった。しかしそれではカモにされて損をするのがオチだと少女が憤慨したのである。結果、千里は安価ながらも高品質なマフラーを手に入れることができたのだが、そんなことを花京院が知るはずもない。そしてそのマフラーの色が花京院の好みであることを千里は知らない。
まずはジョセフに頼まれたものを買ってしまうことになる。昨晩ずっと散策をしていたために千里の足取りは迷うこともなく、とても速い。足の長さが違うために花京院がそれについていくことは容易であったが、それでも戸惑うばかりである。そして昨晩のことについて千里がどう思っているのかもわからずじまいであった。許すとも許さないとも言われていないために、その話題に触れていいものなのかどうか困惑しているのである。だが千里はそれに感づくことがあってもフォローをする気はなかった。花京院にどう思われていようが興味はなく、エジプトにさえ到達できればいいと思っていたからだ。
「昨夜のことは本当にすまなかった。きみを不快にしたかったわけじゃあないんだ」
ジョセフに頼まれていたものを買い終えたころ、ようやく花京院はその話題に触れた。荷物は宣言通り、すべて花京院が持っていた。本人がそれでいいのならば特に荷物を花京院から奪う必要もない。花京院の謝罪に千里は視線を向けるわけでもなく、ただ淡々と前だけを見つめ続けていた。その態度がまた花京院を悩ませる。承太郎であれば即座に返答をくれたことであろう。不良のレッテルを貼られていようとも根はいい奴なのだと花京院は知っているからだ。しかし千里は違う。言葉数少ないだけでなく、態度にも現れない。態度や声色から感情を読み取ることが非常に困難であった。
「それで」
たった一言。短い言葉が千里の返答であった。考えてもいなかった返答に花京院は言葉に窮する。それがなにを意味しているのか頭を必死に動かした。
「……ええと、それはどういう意味だい?」
「それで、謝罪してどうするつもりだ」
ため息のように吐き出された言葉に、ようやく千里の言わんとしていることを花京院は察した。そして同時に呆れられているのではないかと感じてしまう。花京院に限らず、失望されることは非常に怖いことである。期待に答えられなかった結果は自己嫌悪を生み出す。千里はそれを知ってか知らずか、花京院に対してそれを吐き出した。しかしそこには花京院の考えているようなことは一切含まれていない。自分自身に対する言い訳で自分を慰め自己満足に浸るための謝罪ならば、一切必要ないと千里は考えている。必要なのはその先であった。
「――もっときみのことを知りたいと思っている」
千里は黙々と前を見つめたまま歩速を緩めようとはしない。しかしこのころには花京院も千里の返答を待つだけ無駄であることを理解していたため、戸惑うことはなかった。
「同じエジプトを目指すもの同士、もっと仲良くなりたいと思っている。勝手に恐怖を覚えて苦手意識を持っていたのは、ぼくがきみを理解しようと思っていなかったからだ。――だから、ぼくはきみのことを知りたい」
最初は冷静に告げるつもりだったはずがいつの間にか夢中になっていた花京院は、灰色の瞳から受けるまっすぐな視線に気が付いて我に返った。千里は歩みを止めて花京院を見上げている。そこにはやはり感情らしい感情は含まれていなかったが、なんとなくなにかの色が含まれているように花京院は感じた。驚きや呆れとはまた違う。冷ややかでもない。困惑に近いかもしれない。初めてに近い千里の感情を前にして花京院は少しだけ驚いた。そして同時に貴重なものが見られたような気がして嬉しくなる。そうか、千里もやっぱり承太郎と同じただの人間だったのか。そんなことを考えてしまっている自分にふと気が付いて、内心苦笑する。花京院は無意識のうちに千里をDIOと同類のような存在に見ていたのだ。だから千里に対する恐怖を克服することが、DIOに対する恐怖の克服につながると考えていたのである。
「話したくないのなら無理に聞こうとは思わない。だけどぼくはきみと親しくなりたい。承太郎や他のみんなだってきっとそう思っているさ」
いつもより饒舌になってしまうのはきっと胸中を告白してしまった勢いだろう。花京院はそう自身に言い訳をしながら今更生まれた羞恥心を押さえつけ、平静を装う。そうでもしなくては、こんなに恥ずかしいことを言えるはずがない。言い訳とは自身の行動を正当化するためには必要なことである。千里はおそらく言い訳を嫌うだろうと、頭の片隅でぼんやり思いながら花京院はグレーの双眸を見下ろした。やはりどこか困惑しているように見えてしまうのは、もしかしたら花京院の願望が花京院自身にそう見させているのかもしれない。
不意に千里が花京院から視線を外した。そして止めていた足を動かし、再び歩みを進める。花京院は虚を突かれたが、慌てて千里を追いかけた。しかし先ほどより千里の歩く速度が遅いような気がして、花京院は思わず笑みを浮かべてしまうのを抑えることができなかった。