恐れるな。わたしはあなたとともにいる

 約束というものは双方の同意の元、初めて成立するものだ。だからシーザーが夕食後にお喋りをしようと千里を誘ったところで、彼女は同意をしていないのだからそれに付き合う義務も道理もない。義理すらもないのだから、それは約束を反故にしたとは言えまい。
 これまでで一番騒がしい夕食を末席でさっさと食べながら、それでも全員が食べ終わるまでは座っていた千里は席を立った。食後のコーヒーはいつも断っている。

「ケッ、あのムッツリ女、お高く止まりやがって……スカしていて気に食わねーぜッ」

 三日ぶりの食事を堪能し、満足するジョセフの唯一の不満と言えば千里の存在だった。ようやくマスクを外してもらい、羽を伸ばしている彼だが、千里の態度がどうにも気に食わない。友好的な挨拶を欲しているわけではないが、それでもまったく交流する気がないと態度に出されて気持ちがいいはずがない。目すら合わせようとしないのだ。近付けば猫のようにするりといなくなる。若きジョセフ・ジョースターがなにを言おうとも右から左、頭の中にすら留めもしない。
 そもそも一番初めが悪かった。リサリサの登場で彼女に対して好感を覚えなかったところに現れた千里。しかも特に波紋を使うわけでもなく、呆気なく転ばされたのだからたまらない。立て続けに二人の女性から受けた仕打ちを我慢できるほどジョセフも大人ではなかった。

「千里はクールでシャイなのよぉ。シーザーにもまだ慣れてないみたいだし、たぶん恥ずかしがってるのかも」
「恥ずかしがって人を投げ飛ばすかあ? いや、待てよ。ならこのスケコマシも投げ飛ばされたのか! 投げ飛ばされたんだな!」

 ジョセフは期待に満ちた目をシーザーに向ける。だがシーザーは勝ち誇った笑みを浮かべて鼻で笑った。正直なところ、ジョセフが千里に転ばされたことに驚きはしたが、リサリサに不敬を働いた罰だと思っていた。お調子者が痛い目を見ることほど強烈な薬もない。

「ふん、残念だったな。おれは握手を求められたぞ」

 それも激しく情熱的なやつをな。そうシーザーが付け加えればジョセフは地団駄を踏んで悔しがる。自身の扱いだけ不当であると思ったのである。だがスージーQに続いてシーザーも勘違いしていることは誰も、千里でさえも知らないことだ。

「さて。じゃあおれはシニョリーナとのお喋りを楽しんでくるかな。スカタンの相手をする暇などないんだ」

 悔しがり憤るジョセフと、慰めなのかからかいなのかわからない言葉を彼にかけるスージーQを背にしてシーザーは千里を追いかけるべく食堂を出た。彼女がどこに行ったかわからないが、とりあえず部屋に行ってみようと思い立つ。そこに千里がいる保証はなかったが、いない保証もなかった。
 ドアをノックしても返事はなかったが鍵がかかっているわけでもない。部屋に入られたくなかったら鍵をかける。かけていないということは不在か、訪問を断らないかそのどちらかだ。一ヶ月たらずでも、それなりに千里という少々変わった人物を理解していたシーザーは一声かけて部屋に入った。それを嫌がるならば鍵をかけているはずである。
 各部屋についているバルコニーはそれなりに広い。部屋の明かりも灯さず、千里はそこにいた。食事のときはつけていなかったマフラーを首に巻いて床に座っている。トレードマーク、チャームポイントとはまた違うのだろうが、基本的に鍛練と食事のとき以外はつけていた。暖を取るよりも首の傷を隠しているようだった。エア・サプレーナ島に漂着したときに身につけていた数少ない所有物の一つ。千里がそれを大事にしているようシーザーの目には映っていた。本当のところはわからない。
 シーザーが背後に立っても彼女は微動だにしない。ただ閉じられていた瞼がわずかに開かれ、再び閉じたのだが、千里の後ろにいる彼の場所からでは見えない。シーザーはほんのわずかだけ、声をかけることを躊躇った。気安く声をかけるにはかなりの勇気が必要な気がしたが、小さく息を吸い込んで、彼は声を吐息に乗せて吐き出した。控えめなテノールが千里に呼びかける。

「そんな薄着では風邪を引く。いくら鍛えているとはいえ、女の子が体を冷やすものじゃあない」

 無駄だとわかりつつも言わずにはいられなかった。なにも敷かずに直接床に座り込んでいることも、シャツ一枚のその格好も、心配する要素を挙げればきりがない。千里はまだシーザーにも慣れていない様子だ。先ほどのスージーQの言葉が思い出される。出会ってから一ヶ月も経ったのだから、彼女はよっぽどの人見知りか口下手なのだろう。接し方がわからないから戸惑い、距離を置く。なんてかわいい子じゃあないか。一瞬でも彼がそう思ったことをもちろん千里は知らない。彼女はクールだが決してシャイでも人見知りでもなかった。
 隣にシーザーが腰を下ろす気配を感じ、千里は一旦思考を止めた。彼が思考の妨げになることは明白である。だがいつものように話を聞き流せばいい。それまでだって彼女はずっとそうしてきた。わざわざ周波数を合わせてノイズを拾う理由もない。