ジョセフとしては非常に腹立たしく、気に食わなかった。満腹になるまで夕食を食べてみても一晩たっぷり寝てみても、その憤りは解消されなかった。試合には勝ったが勝負には負けたと言うべきか、胸糞悪い勝利だったと言うべきか。とにかく後味が最悪だったのだ。下町のまずい飯屋よりもさらにまずかった。未だに胃がムカムカするほどだ。スージーQはクールでシャイで人見知りをする口下手な女の子だと言っていたが、断じてそんな甘っちょろいものじゃあないとジョセフは思っている。千里はツンとスカしてプライドばかりが高い嫌な女だ、今ならそう言える。シーザーが気にする理由がわからない。
そもそものきっかけはメッシーナが仕組んだ千里との手合わせだ。つまりジョセフは千里にぎゃふんと言わせるどころか参ったともごめんなさいとも言わせられなかったのである。どれだけ力の差を明確にしても決して膝を折らなかったのだ。終盤には一方的なものになっていたためにジョセフの良心は痛んだ。たった一言「参った」と言うだけで終わるのに、千里は参ったのますら言わなかったどころか相変わらず一言も発さなかった。どれだけ不利に、劣勢になろうとも戦意を失わず、獣のような瞳は一瞬たりともジョセフから離れようとはしなかった。虎視眈々と隙を狙っては反撃してくる。小細工を使うわけでもなくとにかく肉弾戦で彼女はジョセフに挑み続けていた。彼がエア・サプレーナ島に来るまでみっちりと師範代に修行をつけられていた千里は単純な戦闘力だけならば一般人を上回っている。ただの喧嘩ならばジョセフを転がすことくらいは簡単にやってのける程度にはだ。
千里はアメリカンクラッカーを止めることにしかスタンドを使わなかった。結局、師範代を相手にしていたときのように、純粋な肉弾戦を選んだのである。だがそれがジョセフへの挑発行為になっていたのだとは気が付いていない。しかも未だジョセフは千里が波紋使いだと勘違いしているために、手合わせ中一切波紋を使われなかったと、波紋を使う価値もないと思われているのだと、千里に対して勘違いも甚だしく勝手に評価を下げている。
手合わせが終わったのだって、ただ単にメッシーナが飽きたからだった。隠し持つ能力を千里は使わないつもりだと判断した辺りから正直興味は失せていたのである。普通に考えて千里との手合わせはジョセフの修行にならない。言ってしまえば気まぐれだったのである。しかしその事実を知っているのはメッシーナ自身の他にリサリサとロギンズだけだ。貴重な修行の時間を裂くことをリサリサが許可しなければこんなことはしなかった。ジョセフも千里も知ることのない真相と事実である。
いくら憤ってみたところで修行の量が減るわけでもなく。肉体的疲労と相まって積もるそれはもはや理不尽な八つ当たりに近い。だから久々に午後がオフになっても晴れることのない感情だ。
そんなジョセフの視界にシーザーが映った。今もっとも気に食わない女第一位の千里と一緒にである。シーザーが一方的になにかを話しかけているのはいつものことだ。
「……あーあー、ご苦労なこって」
シーザーちゃんはあんな女のどこがいいのかねぇ。そうぼやかずにはいられない。度々ジョセフは彼をスケコマシと呼ぶが、だからと言って千里までもが守備範囲だと思うとシーザーの趣味を疑わずにはいられない。しかも千里は千里でシーザーなど視界に入れていないようなふるまいだ。あんな女、金をもらってもごめんだぜ。内心毒づく。
そんな二人がどこに行くのかと観察し追跡してみれば、見覚えのある扉の前にたどり着いた。ヘルクライムピラー。エア・サプレーナ島に来たその日に突き落とされた地獄の柱がそびえ立つ部屋である。シーザーが扉を開く。内側からあふれでた空気に混ざって鼻孔を刺激するのは油のにおいだ。火のついたマッチを一本落とせばまさに業火燃え盛る地獄となるだろう。
二人が扉の内側に入っていく。なぜ彼らがそこに行き着いたのか、その過程より結果の方にジョセフは非常に興味を抱いた。クレバーな彼の脳が久々にフル稼働する。ヘルクライムピラーは波紋の戦士専用の修行場だ。だからまったく問題ない。
結論が出てからの彼の行動は非常に素早かった。そっと扉に近づき、隙間から中を窺う。二人は奈落を覗きこんでいた。シーザーの声が聞こえる。
「油は波紋をよく通す。だからそれを利用して柱を登るんだ。放出する波紋の量の調整と持久力を鍛えられるのさ」
どうやらヘルクライムピラーの説明をしているようだ。つまり千里はこの地獄の柱を体験していない。そう頭が弾き出した結論にジョセフは盛大に眉をしかめた。自分たちと扱いが違いすぎる、不公平だ。そう思ったのである。彼の中で不満のゲージが着々と溜まっていく。しかしそんなことはおくびにも出さず、あくまでも自然を装って、偶然二人を見つけたような不利をしてジョセフは部屋入って彼らに声をかけた。彼の中でカウントダウンが始まる。
「やーやーお二人さん。こんなところでなにしちゃってるのーん?」
ペテンは彼の得意分野だ。演技もなかなか様になっているため、シーザーは疑いを抱かなかった。千里はただ一瞥するのみである。その瞳が気に入らないがぐっとこらえて、ジョセフは二人に近づく。ごくごく自然に千里の隣を取った。
「彼女に修行のことを話していただけだ。この島自体が修行場のようなものだしな」
「こいつには苦労させられたぜ。全身油まみれのべとべとでよー」
シーザーの話しに適当に相槌を打ち、奈落の底を覗きこむふりをしつつジョセフは横目にそっと千里の様子を窺う。彼女は部屋全体を見回していた。その格好は白のシャツに黒のパンツ、そして緑色のマフラー。相変わらず色気のいの字もないとジョセフは思った。言い換えれば女らしさがない。さぞかしモテないだろうとも思った。
シーザーに茶々を入れるふりをして千里の隙を狙う。やるなら不意討ちがいい。あの仏頂面が驚くところを拝んで、指差して大爆笑してやるぜ。ジョセフの決意は固い。そしてその瞬間を見逃さなかった。こういうときの彼の行動は素早く、かつ的確だ。
「おおっと! 手が滑ったァ!」
それはもう嬉しそうに、また恨みを込めて、ジョセフは千里の背中を思いっきり押した。簡単な計画だ。同時に千里の実力も測れる。鼻を明かしてやろうとの算段だ。いきなりのことに、まさかそんなことをされると思っていなかった千里は無抵抗のまま奈落の底に落ちていく。緑色だけがひらひらと揺れて小さくなる。不意討ちのいたずらが成功したとなれば、多少は溜飲が下がるというものだ。落ちていく千里に悪態を吐く。
「いっつもいっつもスカしやがって! おめーの実力見せてみろってんだ!」
シーザーは視界の端で起こった突然のことにジョセフを叱ることも諌めることも思いつかなかった。ジョセフは千里が波紋使いだと勘違いしているために深く考えていなかったが、シーザーは別だ。彼女は波紋の使えない一般人であること。そのため自力でこの柱を上ることができないことを知っている。
「千里!」
咄嗟にシーザーの取った行動は無我夢中に近い。自ら奈落の底へと飛び降りた。