オイルの海に突き落とされ、千里はどうしたものかと思案する。つい今しがたシーザーよりヘルクライムピラーの用途を聞いたばかりであったから、自力で脱出は不可能だと理解していた。波紋が使えないのだから正攻法では抜け出せない。使えていたならばオイルの水面に華麗に着地していたことだろう。今の彼女のようにオイルの海にダイブしてからの足を取られて転倒、全身オイルまみれにはならなかったはずだ。一回体を洗ったくらいでは落ちないだろうほどにぬるぬるのべたべたである。プラネット・スマッシャーズに出番はないが、もし仮に、うっかり使おうものなら即座に灼熱地獄に様変わりするだろう。バーベキューは笑えない。つまりどうしようもない。だが脱出せずにここで餓死をえらぶわけにもいかない。
「千里! 大丈夫か!」
千里の元に駆け寄るシーザーは着地に成功したようだ。見事に油汚れ一つない。これが波紋使いと一般人との差かと彼女は冷静に考える。無い物ねだりをしても仕方がないとわかっている。必要なのは歴然となったその差をいかに埋めるかだ。だがあまりにも高い隔たりだ。
油の海に降り立ったシーザーは相変わらずなにを考えているのかわからない千里の顔にべったりと貼り付いた髪を優しく払い、耳にかけてやる。この世界で初めて彼女の両目がさらされる。曇天の空色をそのまま切り貼りしたような深いグレーの瞳だ。目つきは獣のように鋭いくせに実際は茫洋としている。
頭から突っ込んだのかと思うほどに彼女は全身油まみれだ。彼の持論からすれば、女の子がこんな姿をしていいはずがない。早く熱いシャワーを浴びさせてやりたいとも思う。同時にジョセフと共に落とされた日を思い出す。あのときは登頂までに三日近くかかったが、今ならその半分以下で登りきる自信が彼にはあった。伊達にあの気の狂ったような修行をこなしているわけではないのである。
「ジョジョは君が波紋を使えないことを知らないのか? どちらにしろこれは許されんことだぞ」
そう口では言いながらもシーザーは気が付いていた。見る限り、彼女はジョセフに対して怒りも呆れも抱いていないと。相変わらずのグレーの瞳に感情という名の色はない。目の前のシーザーを見ているようで、見ていない。なにかを思案しているようだが、なにを考えているのかわからない。シーザーの知る千里はいつもそうだった。感情がまるごとごっそり抜け落ちているみたいに喜怒哀楽に乏しい。ストイックな彼女はそれを不要と思っているのかもしれない。
少しでも千里の心を読み取ってやろうと彼女の双眸を覗き込んで、シーザーはふと気が付いた。右目と左目の瞳孔の大きさが違うのである。光の加減で伸縮する右目に対し、左目のそれはまんまるく開きっぱなしだ。ぽっかりと穴が開いているような、深海の底のような、覗き込めば吸い込まれてしまいそうな錯覚を得る。まるで死んでいるようだとシーザーは思った。
「――左目は、見えていないのか?」
確信に近すぎるその問いに対してやはり千里はなにも答えない。だが沈黙を肯定と取ることもできる。前髪で左目を隠す理由もわかる。日常生活で不便さを微塵も見せないのは片目の世界に慣れてしまっているからなのだろう。辛い修行の中でもそれを言わなかったのはコンプレックスなのか、ハンデ持ちだと思われたくなかったからなのか。なんにせよ、常に彼女は対等を望んでいる。知られて支障はないが、知られて気遣われたくないと千里が思っているとはシーザーが知る由もない。だがこれ以上ここに留まることは時間の無駄だと彼は理解している。千里が隻眼だとわかれば尚更だ。千里を長くここにいさせるわけにはいかないと判断し、波紋の使えない彼女をどうやって脱出させようかと考えた結果、答えは一つだった。
「さあ」
片膝をついて自身に背を向けるシーザーの意図が読めず、千里は僅かに眉をしかめた。そのジェスチャーがなにを示しているかくらいはわかる。だが理解できなかった。シーザーがさっさと登ってロープでも垂らしてくれれば千里でもなんとかなる。油まみれの両手では苦労しそうだが、素手で壁をよじ登るよりはかなりましだろう。ゆえになぜそのような手間を彼が選択したのか理解できなかった。助けられるのはまっぴら御免だ。
「ほら、早くここから出よう」
しかしシーザーに千里の心を読む力はない。そこにあるのは戸惑いと躊躇いなのだろうと彼は思った。恥じらいも含まれているのかもしれない。クールでシャイな口下手の女の子。スージーQの言葉を思い出す。棒立ちの彼女はただただシーザーを見ているばかりだ。動き出す気配もない。そんな彼女を安心させようと、シーザーは優しく笑んでみせる。
「大丈夫だ。きみ一人くらい背負って登るくらいのことは余裕さ」
滞りなく意思の疎通はできていない。想定の範囲内だが外れて欲しいと彼女は思っていた。ゆえに瞠目はしなかった。ため息も出ない。だが素直にそれを受け入れる勇気はない。だが無駄に意地を張り続けるほど子供でもない。
「……あなたという人は」
ようやく発された声は非常に固い。シーザーにも聞こえない呟きと共に千里は諦めた。この状況下、諦めざるを得なかった。そのためにいくつかのプライドと意地を捨てねばならなかったが、仕方がない。いつまでも頑なに拒絶していてはきりがないと千里は知っている。その肩に手をかけるには相当の勇気と努力が必要であったが。