あなたは高価で尊い

 シーザーがヘルクライムピラーを登りきっても、彼の背中から降りても彼女は口を開くことはなかった。感謝も謝罪も一切なかったのである。ジョセフだったらすぐに怒り出しただろうが、シーザーはそれに腹を立てることはなかった。それよりも彼女の様子が気になった。相変わらずの能面だといっても、いつも通りではなさそうだとなんとなく思う。落ち込んでいるのとは違う。だがそれに近い。どこか憂いを帯びているように見えたのはきっと思い込みからくる幻だろう。初めて見る様子の千里を前にして、シーザーはかける言葉を見つけられずにいる。これまでの経験は彼女のことをなにも知らないのだとシーザーに教えただけだった。
 油まみれの千里はぼんやりとどこかを見つめていたが、なにか特定のものに焦点を当てていたわけではない。さすがに崩れ落ちるような醜態を見せることはなくとも彼女はこれまでで一番弱っている。つまらないことで見事に心が折れたようなものだ。それを自覚している分、どうしようもないのだと千里はわかっていた。波紋が使えないのだから仕方がない。そう素直に思い込んで開き直れるくらいの図太さがあればよかったのだが、仕方はないがそれで他人の助けを借りなければならないなど、と彼女は考える。立ち直ることはできようが、確実に矜持にはひびが入った。弱さとはもっとも彼女が嫌うものだ。

「千里、早くシャワーを浴びた方がいい」

 シーザーが促してようやく動き出した千里は亡霊のように所在ない。ふっと掻き消えてしまいそうな不安定な儚さを孕んでいる。茫洋とした瞳はどこか虚ろだ。首に巻き付く緑色のマフラーはたっぷりと油を含んでいるためか、死刑囚の首にかかった太いロープのようだ。本当に大丈夫なのだろうかと心配になるほどで、シーザーも気が気でない。今度はしっかりと肩に触れて、ゆっくりと声をかける。

「千里」
「――わたしは弱い。それを理解していてこの体たらくか」

 呟くような小さな声はなにものにも邪魔されることなくシーザーの耳に届いた。なんの感情も孕んでいない声色は不気味でもあった。自分自身に言い聞かせるように、よく咀嚼して嚥下するように、千里は呟く。

「こんなにも無為に時間を浪費していたなど情けない」

 千里が自分自身に酷く失望しているなどとはシーザーの知るところではないが、それを抜きにしても今の彼女は異常と言えた。彼女が真面目に修行に打ち込んでいた理由を垣間見たような気がして、シーザーは眉をひそめる。それになぜそのようなことを言い出したのか皆目見当もつかない。クールでシャイな千里はここにはいない。ゆえにこのままはよくないと彼も理解した。千里が隻眼だとわかってしまえばなおさらだ。気にかけずにはいられない。彼女は少々焦りすぎだ。

「千里、きみは疲れているんだ。休んだ方がいい」
「休む暇など、あるものか。弱者に怠惰など許されるはずがない」
「千里」
「まだ死ねない。あの男を殺すまで死んでたまるか」
「千里!」

 シーザーに両肩を強く握られようとも、千里の瞳は変わらず鋭く茫洋と無感情なままだ。珍しく饒舌な口が放つ言葉は決して穏やかではない。噛み合っていそうでどこか噛み合っていない会話。彼女の発する言葉はすべて彼女自身に向けられているものなのだとシーザーはようやく理解した。修行嫌いのジョセフに聞かせてやりたいと思いながら、なぜ千里がそこまで力を求めるのか想像する。彼女の指が彼女自身の首筋を撫でる理由を考える。そして殺すと断言するあの男とやらの正体を思案する。殺す、など女の子が口にする言葉にしては穏やかではない。
 千里の目指すものは自分たちとは違うのだとシーザーはなんとなく気付いていた。唐突にエア・サプレーナ島に現れた、戦い慣れてるらしい波紋の使えない女の子。柱の男と戦う術を持っていないため、来るべき日にはスージーQと留守番になることだろう。もしかしたらシーザーたちが不在の間に例の男を追いかけて出ていってしまうかもしれない。彼女は常に孤独で孤高だ。誰かがそばにいなくては無茶しかしないことだろう。

「千里。やはり今のきみに必要なものは休息だ。修行はそれからでも遅くない」

 千里の両肩を掴む手から力を抜き、正面から灰色の瞳を覗き込む。納得していない、不満を含んだ目だ。シーザーは眉を少しだけ下げた。なにが彼女を追い詰めるのかと思案したところで答えは出ない。ただここで手放したらすぐにでも鍛練を行うだろうことは想像できた。
 油に濡れてべっとりと千里の額に貼り付く髪を優しく退ける。オイルで汚れることも気にせずに、シーザーは自身の額を千里の額にそっと寄せた。仄かな体温を共有する。そして懇願するように、シーザーは胸の内のわだかまりを吐き出した。

「休んでくれ……頼む」

 目の前で苦しげな表情を浮かべる男について千里は面倒だと思ったが、なぜだかその手を振り払う気にはなれなかった。やはり祖父の友人だからか、あまり無下に扱えない。未だにシーザーとの接し方に戸惑っている千里としては、このような彼の姿は苦手だとしか言い様がなかった。
 だか彼の次の言葉は千里の神経を逆撫でする。

「きみが死んだら悲しむ人がいる。だから軽々しく死ぬなんて言わないほうがいい」

 シーザーは純粋に千里のことを思ってそれを言ったのだが、彼女にそれを素直に受け取れるだけのキャパシティはなかった。シーザー・A・ツェペリは近い将来に死ぬ。千里しか知り得ないことだ。

「……それをあなたが言うのか」

 僅かに怒気を含んだ声は間違いなくシーザーに向けられたものだ。怒るなんてことがなかった千里は明らかに怒っている。油まみれの全身がそれを主張している。シーザーよりも小柄な体格のくせにそれを思わせないほどの怒りが彼女の存在感を浮き立たせる。それでも声色に僅かに含められている程度だ。言葉数が少ないぶん、一言にこめられたものは重い。
 ただの八つ当たりと言ってしまえば確かにそうなのだが、知らぬうちに友人が死んで悲しんだ人を千里は知っているため、またその人を悲しませた原因がシーザーだとわかっているため、嫌な言葉だと彼女は思った。いつものように流すには困難だった。彼は死ぬ。可能不可能を別にして、その運命から救うべきなのかと千里は悩む。どうも不安定でいけない。あちらにいたころは悩む暇などなかったから楽でよかった。
 世の中煩わしいことばかりだと思いながら千里はシーザーを残して修行場を後にした。冷たいシャワーで頭を冷やさなければいつもの状態に戻れそうになかった。