千里は自身の弱さを今一度把握し、また柱の男に勝てないだろうと理解した。波紋が使えると使えないではおそろしく大きな隔たりがある。師範代にさえ勝てないのだ。ヒエラルキーの頂点に君臨する者を前にして勝てる見込みはまったくない。それに彼女は自身のスタンドがいかに弱いかも理解していた。ホル・ホースのようにホーミング弾を使えるわけでも、彼女の弟のようにスタンドを介して銃弾を必中させられるわけでもない。一般人が銃器を持ったのとなんら変わりはないのだ。しかも出せる銃器に限界があるのだからスタンドを使って吸血鬼を倒せるかすら怪しい。唯一の手段になりえる可能性のあったシルバーバレットはあちらの世に置いてきてしまっていた。
一晩の熟慮の末、千里は一つの結論に至る。万が一を想定してしまった時点で対策を打たないと手遅れになる。それまでだったら決して考えることもなかっただろう。しかしヘルクライムピラーで千里は自身の無力さを嫌というほど味わった。弱さを自覚し、受け入れた。それが彼女に躊躇いをもたらす。今一度それを強く理解してしまったために、本来圧し殺していたものが鎌首をもたげたのである。それは千里に死を自覚させた。
「――わかりました。確約はできませんが、とにかく連絡してみましょう」
そんな性格には見えなかったが、とリサリサは思いながら目の前の少女を見やる。昨日の騒動はすでに耳にしている。それが彼女を突き動かしたのだろうと想像はできた。しかしまさか他人に助力を乞うような真似ができるとは思ってもいなかったのである。
千里の要求は簡単なものだった。SPW財団のトップ、つまりロバート・E・O・スピードワゴンと面会したいと彼女はリサリサに頼んだのである。理由を聞けば、自分の持っている情報をすべて渡したいとのことだった。自分しか知り得ない情報を抱え落ちしたくない。確実に情報を伝えたい。言葉数は相変わらず少なかったが、千里はそう言った。それを紙に書き起こさないのは下手に形に残したくないためであり、リサリサに託さないのは一言一句誤りなくスピードワゴンに伝わるとは思っていないからだ。だが、それでももっとも確実な方法は千里がスピードワゴンと会わなくては意味がない。ジョセフの体内にある指輪熔解まで時間があまりない中では、確実に実行できるとは言い難かった。それしか望みがないのだとしても、彼女はあまり賭けが好きではない。
中庭の中心にそびえたつヘルクライムピラーの外郭を見上げながら、パワーアンクルから解放された手足の軽さに未だ違和感を覚えて千里は軽く体を動かす。出来る限り体術の向上を図るつもりだったのだが、今回のことでスタンドを使わない理由はなくなった。一般人に毛が生えた程度であろうとも、彼女は可能性を潰すつもりはない。少しでも生存率を上げるためには頼らざるを得なかった。これから待ち受けているものは喧嘩や決闘などといった綺麗なものではない。ただの殺し合いだ。赤石を巡る血腥い殺し合いなのである。
こちらに来てから体術を重点的に鍛練したためか、以前より蹴りや突きのキレは増している。パワーアンクルが外れたのだからなおさらだ。敵の動きをシミュレートしながら彼女は体を動かす。突きの瞬間にハンドガンを発現させる。撃ちはしない。発砲音は目立ちすぎる。そしてすぐに消す。
スタンドの強さは精神力の強さに直結する。つまり精神が強くなればスタンドも強くなるということだ。千里のスタンドはただの銃であるから、強くなる、という概念は合わない。だが可能性はあると千里は思っている。最初に彼女が発現させたのは猟銃だった。いつも祖父について猟に出て猟銃の使い方を学んでいたことも関係してか、一番身近なそれを発現させたのだ。それから徐々に銃の種類を増やしていった。銃器ばかりが発現するが、それでも銃器ではない手榴弾も使えるようになったことを思えば、プラネット・スマッシャーズには限界がないのではないかと千里は考える。銃の特徴や扱い方はいつも直感的に理解しているため、新しいものを発現させて扱いに困ったことはない。今使えるものよりさらに強い銃が、反動により腕を持っていかれようが肩が外れようがそれだけの威力を持つ銃が使えれば今よりももっと強くなれるのではないだろうかと考える。だがそのためには砕かれた矜持を持ち直さなくてはどうしようもない。どのような未来が待ち受けていようとも必要なのは力だ。肉体的にも精神的にも強くならなければと千里は考えている。
「なーに焦っちゃってんのォ〜? まさかおれに負けたことがそんなに悔しかったわけ〜?」
いつの間にかジョセフが現れていようとも彼女は意に介さない。挑発するような表情も声色も、今の千里にとってノイズにもなりはしなかった。いちいち気にしていてはきりがないし、そもそも彼女が児戯に対して意識を向けることなどありえない。千里の動きに合わせて彼女の首に巻かれているマフラーが、ジョセフを嘲笑うかのように揺れている。
ジョセフの中で千里がいけ好かない奴、という評価は変わらないが、おとなしくシーザーに背負われてヘルクライムピラーを脱出したと聞いたときは意外だと思った。案外可愛いところもあるじゃあねえか、と思ったのも一瞬のことで、結局彼女のジョセフに対するものはなにも変わっていない。好転するどころか悪化もしていない。どれだけちょっかいをかけてみても同様だ。千里はシャイでクールな女の子だというスージーQの判断は誤りだとようやく彼は理解した。
「ちぇっ……相変わらずのむっつりかよ。そんなんじゃあシーザーちゃんに好かれないぜ」
ジョセフの口から発されたシーザーの名に一瞬千里の心はざわついたが、それが表に出ることはなかった。決してジョセフの言うような感情があるわけではない。だがやはり未だに割り切れない。一日一日と近づく彼の死について、どうすべきか決めかねていた。千里の中で最優先順位はDIOを殺すことだ。それをなげうって助けられるかもわからないシーザーを救うために命をかけるべきか。スピードワゴンにDIOの情報を渡しても、やはり自身の手で確実に葬りたいと思っている彼女にとってシーザーの問題は難しすぎた。ジョセフのように生存が確定しているならばここまで悩むこともなかっただろう。
そんな千里の葛藤をジョセフが知るはずもない。ヘルクライムピラーに落ちてからどこかしおらしくなったような気がしたが、どうやら気のせいだったらしい。お灸を据えてみても意味はなかったようだ。リサリサに聞いてもはぐらかされてしまう千里の正体。彼女自身もなにも語らない。いつも鍛練ばかりをしている。波紋が使えないのだから、今回の戦いとは無関係であるはずだ。
「まさか波紋が使えないくせに柱の男たちと戦う気じゃねーだろーなぁ?」
それまで揺れていた緑色のマフラーが重力に従って垂れ下がる。鋭く突き出した拳を下げ、千里が振り返った。いつも通りなにを考えているかわからない表情につまらないとジョセフは思う。千里の左目は相変わらず前髪に隠されているが、まっすぐと彼を見上げる右目はわずかに揺れている。不安というべきか、戸惑いというべきか、彼女らしくない感情にジョセフは一瞬面食らった。傍目から見る限りではそのような様子はまったくないくせに、鉄色の瞳はなにかを逡巡しているようだ。それでも誰かにすがろうとしないのは千里の性格ゆえなのだろう。
食ってかかってくるわけでも、無視されるわけでもない。正面からまっすぐ見据えられたのは初めてのことであったために、ジョセフは戸惑う。だがそのような姿を千里に見せるのは彼のプライドが許さなかった。虚勢を張る。
「な、なんだよ……おれに文句があるってえんなら……」
「――時間がない。波紋が使えなくとも戦うことになるのならばわたしも戦う」
「戦うって……波紋も使えねえ奴が戦える相手じゃあねえんだぞ!」
灰色の瞳が愁いを帯びて伏せられる。それまでの彼女からはまったく想像もできない姿にジョセフは拍子抜け、戸惑うしかないのだが、かける言葉は見つからない。そのまま千里は屋内に戻っていく。その小さな背中にもいつものような覇気はなかった。なんなんだよ、とジョセフが呟こうとも、彼女の真意を知ることはできない。