指輪熔解まであと七日。その日はジョセフとシーザーも師についてヴェネチアの街にいた。束の間の休息ののち、最終試験は今夜行われると聞いている。そしてそれが終わればあとは柱の男たちとの死闘が待っていることを考えれば、しばらくは息抜きなどできはしないだろう。しかも次の休息があるかどうかすらわからない。生き残らねば次はないからだ。
千里もまた、一向と共に海を渡った。彼ら二人は知らないことだが、彼女だけ違う目的だ。SPW財団代表とのアポイントが取れたとリサリサから知らされたのは四日前のことだ。短い時間だが直接会える。DIOが吸血鬼になった瞬間に立ち会った生き証人。わずかだが、珍しく千里は緊張している。ほんの少し自身がこわばっていることに彼女は気付いていた。エジプトへ向かうあの旅とは違う緊張感が彼女を襲う。やはりヘルクライムピラーが彼女の心を弱くしたのだ。五十年前の世界は千里の触れられたくない、もっとも柔らかい部分をむき出しにさせる。
さりげなく一行から離れた千里は待ち合わせ場所へと向かう。リサリサに教えられた場所はヴェネチアでも指折りの高級レストランであった。レストランに入り、店員に連れられ通されたのはVIPルーム。そこに待ち受けていたのは二人の護衛を従えた老人だった。顔を斜めに走る傷がただの金持ちの男ではないことを示している。さすが一代で世界有数の財団を作り上げた男であると言えよう。
「君が千里くんだね? リサリサから話は聞いているよ」
ロバート・E・O・スピードワゴンと名乗ったSPW財団のトップは人のよさそうな笑みを浮かべた。彼があの男を知る唯一の存在だと思うと、やはり千里でも緊張する。ここでDIOを倒すチャンスを掴めるかもしれないと思うと、心臓の鼓動が煩くなる。あの時敵のスタンド攻撃を受けたことが僥倖につながったのだ。海底で眠る敵を屠る千載一遇のチャンスなのである。
スピードワゴンが席を勧めれば彼女は静かに腰を下ろした。リサリサからどのような少女か話は聞いていたのだが、実際に対面した千里は想像していた以上に殺伐とした瞳をしていた。ジョセフよりも年若いくせして短い人生の中でどれだけの経験をしてきたのか、ティーンの少女には似合わない鋭い瞳だ。表情筋の動きに乏しく、一見なにを考えているかわからない茫洋とした瞳でも、わかる者にはすぐわかる。ロンドンの食人鬼街のころを思い出すような気がしてスピードワゴンは顔をしかめた。そんな少女が五十年前に決着のついたはずの因縁を連れてきたとなれば、本当にどのような人生を歩んできたのかと考えてしまう。その情報が嘘か本当かは別として、今は目の前にジョセフの命と柱の男という問題が立ちはだかっているとしても、少女と会わずにはいられなかった。忌まわしき因縁が未だ残っているのだとしたら、見て見ぬふりなど彼にはできない。
客人に紅茶が出され、付き従っていた護衛が退出する。まるで予め決まっていたかのような一連の流れに千里は訝しみ、そんな彼女に対してスピードワゴンは柔和に笑む。
「人払いをしたほうがいい話題だろう。きみにとってもわたしにとっても酷くデリケートな話だからね」
少女の緊張を解くようにゆっくりと語りかければ、彼女の表情が元の無表情のそれへと戻った。スピードワゴンがティーカップを傾けても、自身のカップには決して手を付けようとはせず、様子を窺う少女の警戒心の強さに彼女もまた食人鬼街や貧民街のようなところで生まれ育ったのかと憐憫を覚える。
「きみがどこから来たのか、なんの目的を持ってわたしと会うのかリサリサから聞いている。――まったく奇妙なものだ。これもまた運命なのだろう」
「……わたしを信じるのですか?」
想定とは外れて自身の存在をあっさりと受け入れた男に千里は彼を怪しまずにはいられない。リサリサだって最初は荒唐無稽だと一蹴したというのに、目の前の男はそれが現実だと受け止めている。なにか企んでいるのかと勘ぐってしまいたくなるほどに、拍子抜けするほどにスムーズに進む現実を受け入れられないのは彼女のほうだ。だが目の前の男は屈託なく笑ってみせる。
「嘘にしては随分と大がかりな嘘だ。それにあの男を知っている者は酷く限られている……それにわたしだってそれなりに生きてきたつもりだ。人を見る目くらいはあると思っているよ」
探るような隻眼に見つめられてやはり怪しまれるかと、スピードワゴンは内心苦笑する。吸血鬼や古代生物と実際に遭遇している彼だからこそ、千里の存在を受け入れることは容易であった。人よりも酷く濃厚な人生を歩んでいる彼でもディオ・ブランド―の名を聞いて冷静を装うことは不可能であったが、半世紀ぶりにその名を発した少女が敵ではないことをリサリサから聞いていたおかげもあってか忌まわしい現実に目を向けることができた。常人であれば作り話だと一笑に付したところだろう。ゆえに自分が少女と対面することは運命なのだとスピードワゴンは思っている。まったく奇妙な人生だ。そう思える程度には彼も老成した。
スピードワゴンが話を促せば、やや躊躇いがちに千里は口を開く。平常心を保とうと努力しながら慎重に言葉を選び、一抹の不安を押し潰す。
「――あなたの手記や財団の研究資料を読みました。あの男……かつてディオ・ブランド―と呼ばれた男を殺すため、あなたの力を貸していただきたい」
その名を口にした途端、目の前の男に緊張感が走ったことを千里は感じた。やはり彼にとっても聞き捨てならない名前なのだ。
「1984年カナリア諸島近海。あの男の棺桶が引き上げられました」
「……半世紀後、あの悪魔は復活するのか」
「エジプトを拠点とし、ジョースター一族の血の断滅と世界征服を目論んでいます。――わたしはあの男が目覚める前に殺してしまいたい」
「なんだと! 因縁は尽きていなかったというのか……ッ!」
スピードワゴンの表情が驚愕のそれに変わった。大きく目を見開き、手にしたティーカップが小刻みに揺れる。五十年前ジョナサン・ジョースターを殺しただけでは飽き足らず、その子孫までを殺しつくそうとしている男の執念に恐れを感じずにはいられない。五十年後ならばジョセフに孫がいるころだろうと思うと、彼に待ち受ける未来を捻じ曲げることが可能ならば目の前の少女に助力は惜しまない。
それから続く話に耳を傾けながら吹き出る冷や汗を震える手で拭い、未来を生きる千里を見やる。彼女の表情はやはり乏しいが、あの忌まわしき男を殺すため助けてほしいと右目が訴えている。無理矢理呼吸を整え、スピードワゴンはゆっくりと一度瞬きをした。あの吸血鬼との因縁は五十年後も続いている。ジョセフの孫や千里のような少女がその因縁に絡んでいる。酷く心臓に悪い話だ。
「……わたしは、なにをすればいいのかね?」
「余人に引き上げられる前に棺桶の回収を。波紋が使える者がいればただの吸血鬼を殺すことは難しくないでしょう」
SPW財団の力と波紋の戦士たちの力があれば、頭部と体が馴染んでおらず、スタンドも発現していないDIOを倒すことは可能だろう。そう千里は睨んでいる。スタンドを発現されてからでは太刀打ちできなくなることを考えれば、トレジャーハンターに見つかる前に棺桶を回収する必要がある。スタンドの使えないDIOならばプラネット・スマッシャーズが通用する可能性もあった。
必要な言葉しか発さない千里の言葉に含まれるそれにスピードワゴンが気付いたのは年の功だと言えよう。“ただの吸血鬼”、その単語がディオ・ブランド―がただの吸血鬼ではなくなることを暗示しているのだと察した。彼がそれを尋ねると、千里は言葉を選ぶようにスタンドについて説明する。彼女は自身の目的を達成させるつもりならばすべてのカードを切るつもりでいる。下手に情報を抱え落ちしたくはないからだ。