柱の男の問題が片付いたのち、吸血鬼退治を行うとスピードワゴンと約束を交わし、千里はレストランを後にした。ロバート・E・O・スピードワゴンという男、思い返される会話。事は順調に進んでいる。仮に千里が命を落としたとしても、計画が頓挫しないだけの情報は渡せた。吸血鬼や柱の男についてスピードワゴン本人が持つ生の情報も手に入れることができた。今のところはまだなにも問題はないはずだが、いつ綻びが生じるかわからない。あの男の復活の阻止を歴史が許してくれるか、彼女にとってそれだけが不確定要素だ。歴史には自己修復力があると言われている。
レストランを後にし、スージーQから頼まれたものをさっさと買い揃えてから千里は集合場所へと戻る。サンマルコ広場にはすでに三人が揃っていた。約束の時間から三十分が過ぎている。それだけスピードワゴンと話し込んでしまったということなのだが、その程度のことはリサリサも想定していたようで叱られることはなかった。
「無事、用事は終わりましたか」
「はい。ありがとうございます」
行きよりもどこか落ち着いている千里の様子に無事に自身の目的を達成することができたのだとリサリサは察し、それは同時に彼女がエア・サプレーナ島に滞在する理由がなくなったことを意味しているのだと理解していた。今は柱の男のことで手一杯であるからできないが、落ち着いたら身寄りのない彼女をどうするか考えなければならない。当たり前のよう存在しているが、千里は本当はこの時代にいるはずのない、五十年後の人間だ。知り合いもいない天涯孤独の子供は酷く難儀な娘である。
島に戻る船の上でリサリサが赤石の話をジョセフとシーザーに語る中、千里は水面をぼんやりと眺めていた。話の内容はすでに以前聞いていたものであるから改めて耳を傾ける必要もない。正確には自身の思考の中に深く沈み込んでいるである。なぜなら彼女の精神は未だ再構築しきれていない。未だに自分の選ぶべき道を決めかねている彼女にとって圧倒的に足りない時間に焦りを覚える。
リサリサがスーパー・エイジャの威力をジョセフとシーザーに見せるため、それを太陽に翳した。スーパー・エイジャ内で増幅された光がレーザーのように放射され、船の一角を破壊する。その轟音に意識を引き戻された千里はリサリサの指先が持つ赤石に気が付いた。話や研究資料では知っていたが、現物を見るのはこれが初めてだ。一点の曇りのない、大自然が生み出した宝石の色はあの忌々しい吸血鬼の双眸を彷彿とさせ、彼女はわずかに顔をしかめる。あまり好めそうにない色だ。
そしてリサリサより彼ら二人に告げられる最終試験。この三週間の修行により、彼らの実力は師範代たちと互角になるまでに成長したという。明日の夜明け前、師範代二人がジョセフとシーザーの相手をする。それが終われば残るは柱の男たちとの戦いだけだ。
「結構時間がかかったようだが、いったいなんの用事だったんだ?」
港で別れた以来ずっと別行動であったシーザーが千里に問いかける。彼としてはいつも鍛練に打ち込む彼女にヴェネチアの街を案内しようと画策していたのだが、彼女は一言二言リサリサと言葉を交わしてすぐに姿を消してしまった。行方をリサリサに聞いてみても、私用があるのだと、決してシーザーに教えようとはしなかった。エア・サプレーナ島に漂着して以来、買い出し以外で決して島を出なかった彼女に特殊な用事があるようには思えなかったのだが、千里が答えない以上結局真相は闇の中だ。
シーザーは千里の歩幅に合わせて隣を歩く。クルーザーを降りてからずっとさりげなく左を歩かれ、隻眼を意識されているのだと千里は気が付いた。気を使われるのは彼女のもっとも嫌がることの一つだ。しかし嫌がると理解していても、それが彼が女の子をエスコートしない理由にはならない。
「なにも言わないきみがどれだけのものを抱えているのかわからない。だが、おれにできることがあれば言ってくれ。きみの力になりたい」
悩みの種に力になりたいと言われても千里にはどうしようもない。あなたもうすぐ死ぬ運命なのだと告げることができるはずもなく、また弱い自分があなたの運命を変えるべきか悩んでいると相談できるはずもない。五十年後に発生する予定の因縁の根源を断ち切ることが目的だと白状することも、あなたのせいで精神的不調に陥りそうだと責めることもできないが、だからといって以前のように無視することができないのは、きっと彼との関係が簡単なものではないからだと千里は理解している。しかしそれは単なる言い訳であり、他人のせいにしているともわかっていた。千里は未だにシーザーとの接し方も距離の取り方も掴めずにいる。
「――すべきことを目前にして、他人を気にする暇などないのでは」
「おれにとって千里、きみはもう他人じゃあない。大切な仲間だ」
苦々しく吐き出された言葉、よくよく見なければわからないにしても苦悶に満ちた表情。シーザーはもっと鈍感な性格だったら気付かなかったことだろう。だが彼は女の子に対してはよくよく見ている。放っておけないからだ。ゆえに言葉数の少なく感情を表に出さない千里を気にかけることは当然のことであり、謎に満ちた少女の苦悩の理由を知りたいと思うこともまた自然の流れであった。スージーQとは正反対の少女は常に孤高で孤独だ。甘い言葉をかけても優しく抱きしめてもきっと彼女の心の氷は溶けない。
灰色の瞳が伏せられる。ヘルクライムピラーから脱出して以来、千里の調子は狂いっぱなしだ。シーザーが少女の顔を覗き込む。長いまつげがわずかに震えた。泣くことを知らないように見えた。
「千里。きみが鍛練に打ち込む理由と関係しているのか? それはおれが手助けできないことなのか?」
千里が立ち止まる。一歩だけ先行してからシーザーも立ち止まり振り返れば、鉄色の隻眼はまっするシーザーに向けられていた。表情筋の動きに乏しくもその目は茫洋としておらず、決意ではなく迷いの色で染められている。
あなたに出会わなければよかった。千里は心の中で吐き出した。それとも目の前の青年がまったくの赤の他人だったらここまで考えることもなかったのだろう。自身の弱さと情けなさ、それと無力で無様に打ちひしがれることなく、敵だけを見つめて邁進できたことだろう。だがそれはすべて自業自得であり、自分自身の問題であるために彼女はなにも言わない。誇りを取り戻すために戦うか、情のために戦うか。千里にはそれがわからない。あの頃はDIOを殺すことだけを目的としていたからまだよかった。だがシーザーと出会ってしまってから彼女の脳裏によぎる祖父の横顔。それがちらついて離れない。敬愛する祖父のために運命を変えるチャンスがあるとわかっていても、運命を覆せるほどの力を千里は持っていない。
「これは私の問題だから、あなたは自身の目指すもののために進むべきだ」
酷く静かなアルトボイス。それが不器用な彼女なりの突き放し方だとわかった。陳腐な言葉で言うならば胸が苦しくなる。シーザーにはどうすれば千里の手助けができるのかがわからない。まさか彼自身のことで悩んでいるとは思いもしないが、知ったところでシーザーにできることはないだろう。
「――わかった。だが忘れないでくれ。おれはいつでも千里を助ける」
再び千里の目が伏せられる。閉ざされた薄い唇はそれ以上動こうとはしなかった。