命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う

 夜明けの明かりが千里の意識を引き戻した。暗視スコープ越しに右目を突き刺す鋭い光が朝の訪れを彼女に伝える。朝特有の冷たい空気とべっとりと体に張り付くシャツの不快感に正気を戻され、徐々に冷静になる思考の中で本格的に柱の男たちとの戦いが始まったと理解した。港から郵便船が出航するのが見え、束の間の日常が戻ってきたのだと彼女に教える。今後の戦局を思い出しながら新たなシャツに着替え、リサリサの元へ向かうことにした。
 リサリサの部屋に千里が現れたのは、エシディシの脳が朝日の下で消滅したときだった。タオル一枚のリサリサ、全身爛れてぼろぼろになったスージーQ、ジョセフとシーザーの全員が揃っているところから、敵との交戦があったのだと察した。リサリサの口から赤石が奪われ、郵便船によって運び出されてしまったことを告げられる。彼女の指示によりジョセフとシーザーが郵便物に混ざった赤石を追いかけてヴェネチアに渡ることとなり、千里はスージーQの手当てを命じられた。
 彼らの話からスージーQの体を乗っ取りぼろぼろにしたのは、ジョセフと対峙した柱の男だと千里は知り、またその柱の男の名がエシディシであると聞いてから記憶に残る資料の内容を思い出す。資料の隅々まで覚えているわけではないため細かいところは思い出せないが、初戦がエシディシであったと思い出すことができれば、次はスイスで柱の男の首領であるカーズと交戦し、そして三人目の柱の男、ワムウとの戦いになる。イコール、シーザーが命を落とす戦いだ。それが今日から何日後のことなのかまでは記憶にないが、少なくとも残された時間は片手の指より少ないだろう。これ以上決断を先延ばしにする余裕はない。

「おい千里」

 手当ての道具を取りにリサリサの部屋を出た千里をジョセフは追いかけ、呼び止めた。シーザーが先行して船の用意をするとのことだったため、多少の話をする時間はある。

「エシディシを狙撃したのはおめーだろ」

 灰色の隻眼が彼を見上げる。特に驚くわけでもたじろぐわけでもない。もちろん言い訳するだろうとはジョセフも思っていなかった。イエスかノーかくらいは聞けるだろうかと思ったが、千里はなにも言わない。だがどう考えても狙撃の犯人は彼女しかいないのだ。

「そんな隠し玉を持ってるとは思わなかったが……あの遠距離でよく当てたもんだぜ……ちと頼りねえ援護だったがな」

 少し癪だったが、それでもジョセフは彼女をほめる言葉を言う。気恥ずかしくなり視線をそらして指先で頬を掻いた。あの一発が戦局を好転させたわけではなかったが、彼の動揺を鎮めるには充分だった。それに波紋の使えない、一般人よりはちょっと強い少女の一撃は確かにエシディシに効いていた。エシディシの頬にできた銃創は治癒が少しだけ遅かった。どこに隠しているのかまったくわからない彼女の銃と銃弾は、間違いなく敵に一撃を与えたのだ。
 どうせ返事などないだろうと予測していたジョセフは「それじゃーな」と言い残して船着き場に向かおうとした。しかし彼の背中にどこか弱弱しげなアルトボイスがかけられる。

「――だが敵に恐怖した。一度しか狙えなかった」

 振り返ったジョセフは少しばかり驚いた。そこにいた彼女は当初の威勢などどこにもなく、間違いなくただの少女だったのだ。スージーQとそう年の変わらないだろう女の子。一見無表情に見えても、悔しそうに顔をしかめる千里を見て、こいつもただの人だったのかとジョセフはどこか安心している自分に気が付いた。やっぱりスージーQの言っていたことは正しかったのかもしれない。シャイではないが人見知りというか、不器用なのだろう。そしてストイック。シーザー以上に生真面目なのだとようやくジョセフは理解した。

「そりゃ仕方ねーんじゃねえの? おれたちと違って千里は一般人だ。ほんのちょっぴりの恐怖も感じてなかったとしたら、おれはおまえの神経を疑うね」

 不思議なことだとジョセフは思った。それまで彼女に対して抱いていた感情が溶けてなくなる。千里は波紋が使えないなりに必死に鍛練をしてきたのだと思えば許容できるというものだ。だがいつまでもしおらしくされていてはジョセフの調子も狂ってしまう。思わずビターチョコレート色の髪に手が伸びた。

「だから無理に戦わなくていいと思うぜ。おれらに任せとけ」

 大きく見開かれた瞳は間違いなく驚きによるものだ。千里は自身の身に起こった現実に酷く驚いている。だがどこかそれを受け入れている自分もいた。なぜなら千里は半世紀後の彼を知っている。

「――あなたは変わらないな」

 彼女の思い出した未来をジョセフはまだ知らない。それを問う前に彼を呼ぶこえがして、話をそこで中断せざるを得なかった。船の用意ができたため、シーザーが彼を呼んだのである。彼らはこれから郵便局まで行って赤石を取り返す任務がある。
 結局、ジョセフとシーザーは郵便局で赤石を回収することはできなかったが、リサリサが波紋の催眠術によってスージーQの深層の記憶を読み取って、赤石の送り先がスイスのサンモリッツだと突き止めた。車を用意したメッシーナが郵便局に二人を呼びに行く。その間、リサリサは見送りについてきた二人の娘と話をしていた。彼女たちは留守番だ。
 スージーQはそもそも非戦闘員であるから留守番になるのは当然のことであった。だがもしかしたら千里は共に行きたがるかもしれないとリサリサは考えていたのだが、予想に反して千里は素直にリサリサの言葉に従った。何かしらの葛藤を彼女は抱いているようであったが、自身が戦力になりえないことを理解しているようであった。ジョセフからエシディシ戦の話を聞く限り、スタンドは柱の男に対して多少の効果があるようだが、波紋以下の効果では役に立つと言い難い。それ以前に千里はこの戦いに無関係だ。
 一行を見送った二人がエア・サプレーナ島に戻ろうと船着き場に向かう途中、一人の軍服の男が千里に声をかける。このタイミングで現れた男が今回の件に無関係だとは思えなかった彼女はスージーQに先に島に戻るよう伝えた。そして男に向き直る。制帽についたエンブレムに目を止めて千里はわずかに眉をしかめた。トーテンコップ、その上には鉤十字の上に羽を広げて留まる鷲、ナチスドイツの帽章である。

「エア・サプレーナ島の千里だな」

 高圧的な男の言葉は千里の名前を確認するためのものではなかった。少女が千里だと確信して、それを言ったのである。自分より一回り大きい男を見上げ、彼女は器用に片眉をあげてみせる。だが千里がどんな反応を示そうとまったく気にも留めない男は言葉をつづけた。

「貴様を連れてくるよう、とあるお方の命だ。先ほどの娘の命が大事ならば黙ってついてくることだ」

 男の指差した先には一台の車が停まっている。あれに乗れと言っているのだと理解するのは簡単だったが、なぜ自分がと千里は思った。この時代の知り合いなど数えるほどしかいない。五十年後だってナチスの知り合いはいないにも関わらず、彼らは千里を指名した。なんの目的があって自分を拉致するのかまったく読めない。心当たりがないのだから仕方がないのだが。
 ただの軍人程度なら振り切って逃げることは簡単だ。しかしスージーQを人質に取られていては千里に抵抗する術はない。目的を問う気はなかった。だいたいこういう人種は黙ってついてこいとしか言わないものだと千里は知っている。そこまで理解していれば選ぶべき道は一つしかない。シーザーを見捨てたという罪悪感を少しでも紛らわせることができるのならば、新たな問題に巻き込まれても構わないと彼女は思っている。