ナチスの車に乗せられて千里の向かった先はスイスであった。来る予定のなかった場所に連れてこられたため防寒具の一つも持っていなかった彼女はその肌寒さに小さく体を震わせる。あるお方がくるまでここで待っていろ。なんの説明をされることもなくロッジの二階にある一室に押し込められてしまう。
紅茶の一杯も出されることもなく、手持無沙汰に備え付けの椅子に腰を下ろし、千里は眉をひそめた。まさか結局ここに来ることになるとは思っていなかったのである。シーザーを救うことより自身の目的を優先した彼女にとってあまり嬉しくない現実だ。室内の明かりが自身を責めているような気がして、目を閉じる。
そもそも彼女は常に合理的に的確に物事を判断してきたつもりだ。千里にとってDIOを倒すことが一番の目的であるのだから、祖父の友人とだけの関係であるシーザーを助ける義理も道理もない。それにシーザーを助けるには自身があまりにも無力であると理解している。それを押し切って彼らの戦いに参加しても足を引っ張ることしかできないだろう。それは彼女の望まないところである。足掻いたところでどうしようもないこともあるのだと、千里は知っていた。足掻いてどうにかなるときは、実力が伴っているときばかりである。だがここに来てしまった以上、彼を見殺しにするか否か再度決断しなくてはならない。助けるのならば命を捨てるつもりでなければならないだろうが、それで確実に助けられるとも限らない。確実なのは彼を見殺しにしてDIOの殺害を優先することだ。だがそれでも。千里は逡巡する。
そうして一時間余り彼女が考えに耽っていると、にわかに部屋の外が賑やかになった。数人分の足音や声を聞いて千里はすっと目を開く。諦めるしかなさそうだ。
「ったくよォ、もっと丁重に扱えってん、だ……」
乱暴に扉を開いたジョセフはまさか室内に先客がいるとは思いもしなかったのだが、しかもその先客が千里であったことに言葉を失わずにはいられなかった。ヴェネツィアで別れたはずの少女が目の前に、気難しそうな表情を浮かべて椅子に座っている。うっすらと開かれた隻眼は彼らの登場を予測していたかのように、沈黙している。
ドアを開けて立ち止まったジョセフを不審に思ったシーザーが彼の肩越しに室内を覗き込んだ。邪魔だと彼に言いかけて、開いたままの口をそのままに目を見開く。リサリサも、メッシーナも皆同様の感想を抱いた。千里が言いつけを破るとは思っていなかったからだ。
「千里!」
「千里がなぜここに……」
立ち尽くす一行の中で一番最初に正気に戻ったのはシーザーであった。ジョセフを押しのけ、千里のそばに駆け寄る。椅子に座ったまま冷静に彼らを見るだけの千里の肩を掴み、顔を覗き込む。灰色の隻眼はわずかな戸惑いと諦めを含んだ色を浮かべていた。
「千里! 怪我はないか。なにか酷いことをされてはいないか……!」
ここにいるはずのない少女。スージーQとともにエア・サプレーナ島で留守を預かっているはずの彼女がどうしてここに。一行が驚き、抱いた疑問に答えたのは彼らをこの部屋まで誘導してきたナチス兵だ。千里をここに連れてきたのは彼である。千里を拉致するよう指示を出したルドル・フォン・シュトロハイムは下の階にいる。
「そのお嬢さんも我々の協力者だ。柱の男を倒すための協力を彼女は快く承諾してくれた、喜ばしいことにな」
快く、の部分を強調するナチス兵に対して千里はきつく眉を寄せ、人を脅しておいてよく言ったものだと内心吐き捨てる。初対面にしては随分な言い方だと思ったが、あながち間違いでないことが腹立たしい。スージーQを脅しの種に使われたとしても、結局は彼女自身の意思でナチスに従うことを選んだからだ。シーザーの心配そうな視線を受けて、彼女は再び目を閉じた。千里を庇うようにシーザーはナチス兵に反論する。
「だが彼女は波紋が使えない。カーズたちの対抗策にはなりえないはずだ」
「その娘は狙撃手としての才能がある。その娘は柱の男を狙撃したのだぞ」
「狙撃だと? そういえばエシディシが襲撃してきたとにき銃声を聞いているが、まさか千里が……?」
ローマで実験隊が全滅して以来、ナチスは一行の動向をずっと監視していた。ジョセフとシーザーの波紋の修行も、エシディシの襲撃も、郵便で赤石が送られてしまったことも、すべて彼らは把握している。そこまで細かく監視していたのだから、千里がエシディシを狙撃したことを把握していてもなんらおかしいことはない。実際に使われた銃を確認することはできずとも、狙撃手が誰であるかわかれば彼らにとって充分であった。千里の部屋から試練場までの距離を考えれば、彼女が優秀な狙撃手であると判断できる。だが彼らは千里がこの時代にない狙撃銃を使ったのだということを知らないのだが。それを理解できるとしたらこの場ではリサリサだけだ。彼女だけがスタンドの存在を知っている。
「確かに千里の仕業だが、奴らに銃が効かねえことくらいてめーらだって知ってるだろ」
ジョセフが一歩踏み出し反論する。シーザーに肩を掴まれた千里は目を瞑ったままだ。きっと彼女は何も言わない。ジョセフはそれを理解している。多少効果があったとしても、彼女の銃撃に致命的な効果はない。それに、と彼は思い出す。千里はエシディシに恐怖を抱いた。それゆえに一度しか狙撃できなかったことを悔やんでいる。まだ今日の午前中のことだ。それに一般人の彼女にこれ以上無理をさせるべきではないとも思っている。
「それ以上は知らん。あとは大佐殿に聞け」
そう言い捨ててナチス兵は部屋を出て行った。残された一行は部屋で待つ他ない。皆が千里に近寄る。千里は手短にここにいる理由を述べたが、狙撃に関しては一切口を開こうとしなかった。目を閉じたままだんまりを貫く。そのため一行はこれからのことについて話し合うことにした。時間は有効的に使うべきである。
ナチスに赤石を取られている以上、それを取り戻さない限りここから離れることはできない。だが悠長にしているには時間がなく、かといって素直にナチスが赤石を返してくれるとも思えない。ならば力づくで取り返すしかないのだが、赤石を持っているだろう大佐殿とは未だにちゃんと面会できていない。
真面目な話はジョセフの性に合わない。話し合いに飽きてしまった彼は空腹であることを思い出した。時計を見ればロッジに着いてから相当な時間が経過している。そういえばまだ夕食を取っていない。ナチスから夕食を提供してくれそうな気配もなさそうだ。それよりいつまでこんなところで待たせる気なのか。短気なジョセフがそれに耐えられるわけもなく、一言文句を言ってやらなければ気がすまないと、トイレに行くと適当に言い残して部屋を出た。
ジョセフが部屋を出てしばらくしたのち、下の階が騒がしくなる。何事かと千里以外の一行が一階に降りれば、そこにはナチス兵の死体と壁に大きく開いた穴。そこから外を覗くとジョセフと上半身だけとなって転がっている機械仕掛けの男、そして全身黒づくめの男――カーズがいることに皆は瞠目する。驚きの声をシーザーが上げたと同時にカーズが走り出した。雪の上に転がっている上半身だけの男が叫んだ。
「JOJO早く拾いに行けィ! おまえの方が近い! 充分先に追いつけるッ」
弾けるようにジョセフが走り出す。彼らの先では赤石が雪の上を滑っていく。その先に待っているものは崖だ。ジョセフの方が赤石に近いといってもカーズはすぐに追いついてくる。一瞬、カーズが彼を追い抜いた。赤石へカーズの手が伸ばされる。
一発の銃声とともに赤石が弾かれカーズの手元から遠ざかった。一瞬だけカーズがホテルを振り返るもすぐに赤石へと向き直る。なにが起こったのかとシーザーが上を見上げれば、二階の窓から身を乗り出した千里が長いなにかを構えていた。よくよく見ればそれがライフルだとわかるのだが、どうしてだかその像はどこかぼんやりとしていてはっきりしない。ナチス兵が言っていた狙撃の二文字が思い出される。それよりもシーザーにとって千里の表情の方が気になった。酷く苦しげでありながらも恐ろしいほどに冷え切っていたからだ。