赤石は奪還したはいいが、カーズを仕留めることはできなかった。しかし無事赤石が手元に戻ってきたということで一行は安堵の息を漏らし、その日の夜はこのロッジに泊まることで意見はまとまった。明日の朝、赤石の宛先となっているホテルに向かう予定だ。
誰がなんと言おうとも千里は決して自身の力について口を開こうとはしなかった。事の仔細を知っているのはリサリサただ一人、彼女がこの件についてはなにも聞かないよう告げる。それで終わりとなった。シュトロハイムがしつこく千里をナチスへと勧誘したが、それについてもリサリサが一蹴した。
簡単な夕食を取り、明日に備えて早々と体を休めようと判断したリサリサだったが、同室の千里がどこにもいないことに気が付いた。彼女は一匹狼でありながらも協調性がないわけではない。少なくとも状況の判断と合理性に関してはジョセフやシーザーより上である。リサリサは千里を戦いに出すつもりはない。ゆえに明日にでもイタリアに帰す気である。それをナチスが妨害したとしても、カーズたちのいるであろうホテルへ連れて行くつもりはなかった。
室内に備え付けられた電話で残り三人のいる部屋に連絡を入れる。電話に出たシーザーにリサリサは千里を探すことを頼むことにした。シーザーは千里のことを気にかけている。ちょうどいい人選だと彼女は判断したのである。
シーザーの予想とは外れて案外簡単に千里は見つかった。ナチス兵のいないロビーにいた彼女は酷く難しい顔をして腕を組み、ソファーに腰掛けている。瞼は下ろされているが眉間に深いしわを刻み込んでいる。なにを考え込んでいるのかとシーザーは思ったが、おそらく彼女はなにも言わないだろう。出会ったころよりは口数も多くなったが、それでもすべてを話してくれるわけでもない。最近はなにやら考え込んでいるらしいことが多くなったが、いつも気難しい横顔を見るばかりでその真意に踏み込めたことはなかった。
「千里、先生が部屋に戻るよう言っていたぞ」
とにかく近づいて声をかける。しかし彼女はシーザーの声に反応するどころか微動だにすることなく、まるで彫刻のように座り続けている。長いまつげはそよとも動かず、眠っているようにも見えた。顔を近づけてみても反応はない。酷く静かな呼吸音だけが千里が生きていることを知らせている。
「千里。寝てしまったのか?」
本当に眠ってしまっているのならば起こすべきか、それともこのままベッドまで連れて行くべきかと逡巡したのち、シーザーはとりあえず自身の上着をかけてやることにした。女の子は体を冷やすべきではない。彼の持論がそう結論付けたのである。イタリアで拉致されてそのまま連れてこられた彼女の防寒具らしいものといえば緑色のマフラーくらいしかない。あとは白いシャツと黒いパンツ。両方とも雪の降り積もるこの地にはまったく似つかわしくない服だ。そういえば彼女は寒がりらしいとこれまでの記憶を思い起こしながらシーザーは上着を脱ぎかけた。だが、静かな声がそれを制す。
「明日に備えて早く寝たほうがいいのでは」
脱ぎかけた上着をそのままにはっとしたシーザーが千里に視線を落とす。しかし彼女の瞳は閉じたままだ。起きていたのならば反応してくれればいいものを、と不満に思うも、おそらく彼女は寝たふりをしてまでも一人になりたかったのだと考え至る。だがシーザーはそれを素直に聞き入れる性格ではないため、黙って上着を脱いで千里にかけた。すっぽりと上半身を上着で包まれ、ようやく彼女が瞳を開く。
静かに向けられる視線を受け止めながらシーザーは千里の隣に腰を下ろした。その横顔を見て思い出されるのは先刻のこと。ロッジの二階より赤石を狙撃した彼女の表情は冷酷な狩人のそれのように映った。銃の扱いには慣れているようであり、素人ではないことがうかがえる。少女が持つにはあまりにも似合わない武器だ。猟銃を隠し持っているようには見えないが、千里の狙撃のおかげでカーズに赤石を奪われることを阻止できた。その事実だけは間違いない。
「きみのおかげでカーズに赤石を奪われずにすんだ。ありがとう」
こういう時に限って気の利いた言葉が出ないものだと内心思いながらも、当たり障りのない言葉で千里の様子を窺う。灰色の瞳は物憂げにどこかを見つめるばかりで、シーザーに向けられる気配はない。千里がエア・サプレーナ島に来たころはまったくと言っていいほど表情を表に出したことはなかった。あれから比べれば随分と表情豊かになったものだ。
「銃については先生にも言われている通り、なにも聞かない。だがおれは、あんな顔をしたきみを放っておけそうにない」
「――言ったはずだ。自身の目指すもののために進むべきだと」
「もちろんそうするつもりさ。それでもきみのことを見て見ぬふりができない性分なんでね」
呆れられただろうか、と思いながらシーザーは横目に少女を見ると、案の定というべきか彼女は小さくため息を吐き出した。それは同時に諦めにも見えた。やっぱり呆れられてしまったんだな。彼は内心苦笑する。
そんな男の意図などまったく読む気も理解する気もなかった千里は一人になりたいと切に願っていた。ナチスになど端から入る気のない彼女は明日の朝、一行と別れてイタリアへ戻る予定となっている。おそらくシュトロハイムが彼女をナチスに引き入れようと躍起になるかもしれないが。あの孤島に戻ってスージーQと待つのは、三人の帰還と一人の訃報となるだろう。一度は見捨てると決断したはずの男の運命を変えるチャンスが再度訪れたことに戸惑いを抑えられない千里にとって、こうも簡単に決断を覆されては立つ瀬もない。罪悪感だけが肥大する。
エシディシを狙撃したときに感じた恐怖は本能的な恐怖だったのだと気付いた千里は、カーズの姿を見たときも再度それを思い出して身震いした。それでも赤石を守るためにライフルを握ったのは咄嗟のことだった。本能的な恐怖とは死への恐怖だ。つまり、遠回しに彼女は死にたくないと思ってしまったのである。生だの死だのに無頓着な千里が生を惜しんだのである。以前だったならば自身の生死など二の次にがむしゃらに突き進めたのだが、自身の弱さを明確にされて以来、千里は慎重になった。臆病になったとも言える。臆病になったから迷うのだ。もっとも優先すべきことがなにかをわかっていても、横道が気になって仕方がない。どれもこれもすべて彼女の隣に座る男のせいだ。
「きみが悩んでいる姿を見ると気になって仕方がないんだ。いや、違うな……千里のことが気になって仕方ないんだ」
隣からまっすぐ向けられる強い視線を感じながらどうしたものかと思案する千里は自身の体を包むジャケットに意識を向けた。つい先ほどまでシーザーが来ていたものであるため、彼の体温を残したままだ。防寒具らしいものといえばマフラーしか持っていなかった彼女にとって正直ありがたいものではあったが、そのためにシーザーが体調を崩されてはたまらない。そんな簡単に風邪を引くほどヤワではないと言われても、体調が万全でない状態で敵と戦わせるわけにはいかない。どちらにしろ命を落とす運命下にあろうとも、その原因の一つが自身であれば千里としても寝覚めが悪い。すでに彼女は諦めている。
「なにかを勘違いしているようだが、あなたは……」
「おれの名前はシーザー・アントニオ・ツェペリだ」
言葉を遮られ、さらには名を名乗られたことに千里の目がようやく自身に向けられたことに対してシーザーは苦笑する。誰だって突然名乗られれば面食らうことだろう。子供かと思われるだろうほどにちっぽけな理由で彼は名乗った。
「きみは一度もおれの名前を言ったことがなかったから、忘れられていると思ってな」
シーザーもそれについては随分前に気が付いていた。千里は彼だけでなく誰の名も呼んだことがない。そこにどのような意味があるのか、どんな意図をもって名前を呼ばないのかそれは誰にもわからないことだが、それでも彼がこうして再度名乗るのはやはり子供の意地のようなものだ。
「――そのくらい、知っている」
小さく千里が呟いた。そして自身に被るジャケットを脱いでシーザーの膝に置き、立ち上がる。向けられる双眸から逃れるように彼女は身をひるがえした。緑色のマフラーがふわりと揺れる。
思わず口走ってしまった言葉だったが、不思議なことに千里はそれをすんなりと受け入れることができた。ほぼ無意識のうちに発してしまったそれを撤回することは不可能だが、それでも彼女は言い訳をするつもりはない。もしかしたら自分の存在をどこかに残しておきたいがためにそのようはことを言ってしまったのかもしれない。
「あなたのことは……昔から知っている」
自身にすら聞こえるか聞こえないか程度の声量で呟いて、千里は部屋に戻る。感傷的になることは彼女は嫌うものの一つだ。自身の情けなさや現状に対して、かつての旅の同行者の口癖を思い出さざるを得ない。彼女の意思は固まった。