スイスはサンモリッツにある廃ホテル、そこが赤石の送り先となっていた。千里は白い息を吐き出しながらそのホテルを臨み、ナチス兵より貰い受けた手袋とオーバーコートに身を包んで口元を覆うマフラーを直す。寒い中吐き出された息は敵に位置を教えることになるためだ。オーバーコートは男物のため裾が長く少々動きにくいが防寒のためならば贅沢は言えない。手袋も同様だ。冷え切って指が思うように動かなくなるよりはましである。軽く括ったままの髪も邪魔であったため解いてしまう。発現させたアサルトライフルをしっかりと両手で握る。久々の戦闘を前にした千里のまとう空気に緊張感が加わった。
その朝、おとなしくイタリアに戻ると見せかけて、千里はナチス兵と取引をした。取引といっても非常に簡単なものだ。ナチスに入るかわりにあの赤石の宛先となっているホテルに行きたいと、ただそれだけのものである。信用ならないと言われればホテルの外で待っていればいいと返し、わたしを引き入れることができればあのルドル・フォン・シュトロハイム大佐に喜ばれるのではないかと告げれば、どうやら少し頭の足りなかったらしいナチス兵は自身の出世欲に目がくらんで千里の申し出を承諾した。そもそも素直に駅まで千里を送る気はなく、まっすぐシュトロハイムの元へ連れて行ってしまおうと目論んでいた彼だったからこそ、取引は成功したとも言える。千里とて自身の目的のためならば総統閣下に誓うことも容易であった。よくできた運命だと内心皮肉る。まるであらかじめそうなることが決まっていたようだ。
用事が終わったら戻るという守られる予定のない約束の下、雪がたっぷり積もった針葉樹の根元に身をひそめ、じっとホテルの様子を窺う。ホテルの正面玄関はしっかりと閉じられており、ホテル内に向かう足跡は一つ。正門からずっと延びている。千里は目立たないよう針葉樹林の中を移動してきたため、また正門を通らずに塀の壊れた部分を探し出して正門内に侵入したため、その足跡は彼女のものではない。同時にジョセフたちよりも先にホテルに近づけたということを意味していた。ここからどう戦局が動くのか、彼女も知らない。確定していることはジョセフたちの目的地がこのホテルであるということだ。太陽は高い位置にあるため野外で戦闘が起きる可能性は低い。千里一人がホテルに入ったところでなにかできるわけでもない。一行を尾行してホテルに侵入するつもりである。
針葉樹の根元で息をひそめてホテルを監視し始めてから一時間近く経過したころであった。相変わらずホテル自体にはなんの変化もなかったが、遠くから一人分の足音が聞こえて千里は目を細めた。アサルトライフルを握る手に力がこもる。まっすぐ道を歩いてきたのは一人の男。遠目で見てそれがシーザーだとすぐにわかった。シーザーは千里がいることに気が付いていない。四人全員が揃ってくるか、もしくは昼間は罠だと考え夜に行動を起こすかと思っていた彼女にとって、シーザー一人という展開は予想外のことであった。いつでも動けるよう身構える。
それまでしっかりと閉じられていたホテルの正門が勢いよく開いた。シーザーの意識は当然そちらへと向けられる。そして扉の前に誰かがいるような錯覚に思わず目をこすって再度視線を向けるも、そこには誰もいない。しかしホテル内から風が吹き出てきたことに彼は気が付いた。明らかに誘われている。完全に罠だとはっきりと理解して、冷や汗がにじみ、緊張感が増す。嫌でも生じる躊躇いにジョセフの言葉を思い出した。
「罠があるなどおれは百も承知だ……知っているからこそ来たのだ……」
覚悟を固めようとするシーザーの目に再度蜃気楼のようなそれが現れた。明らかに人の形だ。その人影が扉から動いたと思った次の瞬間には掻き消えてしまう。カーズの新しい技かと彼は思うも、太陽の下に出てこられるはずがない。シーザーが注意深く周囲を警戒する中、彼を追いかけてきたメッシーナが合流した。扉付近に何かがいる。シーザーがメッシーナに警告する。
針葉樹の根元から千里も消えた蜃気楼の人影を追っていた。いつでも発砲できるよう、銃を構える。なにも見学するために身をひそめているのではない。援護の準備はすでにできている。
扉の前に足跡が一つ現れた。突然現れたそれを彼らは訝しむが、すぐにシーザーの脳内でその足跡の理由が弾き出される。どこにも姿は見えないが、ホテル内に戻った気配がなければ、居場所は一つしかない。
「跳躍したんだ! 空中から攻撃してくるぞ!」
シーザーの声につられてメッシーナも木陰に隠れる千里も空を見上げた。そして瞠目する。
まぶしいほどに輝く太陽を背にして姿を現した男はスイスにはいないと思っていた男。てっきりホテルにはカーズしかいないと思い込んでいたシーザーとメッシーナにとっては予想外の存在だ。千里からすれば新たな柱の男の登場である。三人いる柱の男の三人目、初めて見る相手でも予備知識のあるために男の名はわかった。
「ワムウ!」
上空に現れたワムウの目はシーザーとメッシーナを見据えていたが、たった一瞬だけ確実に千里を捉えた。初めて交わされる視線。その瞬間、千里の全身に緊張感が走り、思わず身震いする。エシディシとカーズの時でも感じた同じのものだ。だがそのわずかな瞬間、彼女は目をそらさなかった。互いに互いを値踏みするような感覚に全身の震えが違うものへと変化していく。本能的な恐怖が引いていき、代わりに溢れ出す感覚。彼女の本能は逃走から闘争へと傾いた。緊張感が収まる。それが彼女の本質だと、知っている者は誰もいない。
ワムウがメッシーナの左腕を切り落とし、ホテル内へと引きずり込んだ。追いかけようとしたシーザーの前に再度ワムウが現れ、ジョセフはどこかと彼に聞くが、目的の男はおらず、それでも目の前の男も相当修行を積んだ波紋の戦士だとわかるとワムウは標的をシーザーに定めた。シーザーもそれに応戦する。シーザーの攻撃を受けたワムウは彼の左肩を蹴りながらその反動でホテルの壁に穴を開け、室内に逃げ込んだ。その衝撃で骨が折れたと自覚しながらも、今こそ勝機ありとシーザーがそれを追う。
それまでアサルトライフルを抱えて隠れていた千里だったが、リミットが近づいていることに気付いて木陰から飛び出し、ホテル内に飛び込むシーザーを追いかけた。腕を切断されたメッシーナが戦力になるとは思えない。ワムウとシーザーの一騎打ちとなるならば、それはこの廃ホテルが彼の死に場所となるのだと、千里にはそうとしか思えなかった。そして恐怖が戦意にすり替わり、彼女を急き立てる。
DIOについてはスピードワゴンにすべて託した。本当ならば自分自身の手で決着をつけたいと思っていたが、これほどまでに彼のことが気になってしまうのならば仕方がない。見殺しにして後悔することに比べたらここで命を捨てることなど安いものだ。彼の墓参りで見た祖父の横顔。ここで彼が生き延びたら、未来の千里はスタンド能力を得ないかもしれないが、今は関係ない。どうせ未来に戻る希望などとうの昔に捨てている。あとのことはスピードワゴンがうまくやると信じ、決断した彼女はワムウの開けた壁の穴からホテル内へと飛び込んだ。