目を覚まして最初に感じたものはクレゾールの匂いだった。消毒液独特の匂いが千里の意識を引き戻す。頭上には点滴用バッグがスタンドにぶら下げられており、その先端から延びるチューブは彼女の右腕に向かっている。
未だ靄のかかる思考の中でゆっくりと手を握り、開く。そこでようやく彼女は気が付いた。左腕の感覚がない。肘から下どころか肩から下の感覚がまったくないのだ。右手は五本の指の先まできちんと感覚がある。しかしいくら脳から指令を出そうとも、ないものは動かない。夢ではなかったのか。あの戦闘を思い出し、嘆息する。ここが1938年ではなく1988年なのだと、彼女でも自分の置かれている状況からその程度のことを把握するくらいはできる。
死んだと思ったが、生きていた。旅の同行者たちがあの敵スタンドをなんとかしたのだろう。もしかしたらあちらで死ぬことがこちらに戻るきっかけだったのかもしれない。しかし千里にとってそのようなことはどうでもよかった。結果として、彼女は現代に戻ってきている。その代償は全身に負った怪我と左腕である。プラネット・スマッシャーズはしっかりと発現し、右手に収まった。病衣が邪魔で確認することはできないが、胸部を見ればおそらく矢で射ぬかれた傷は残っているのだろう。千里の運命はなにも変わらなかったらしい。はたしてあの時代、自身の足掻きがなにかしら世界に影響を及ぼせたのだろうか。彼女は考える。
「千里」
近くに人がいるなど千里は気が付いていなかった。その声の発生源に緩慢な右目を動かし、そして千里の目が大きく見開かれる。年のころは三十代くらいだろうか。蜂蜜と太陽の光を混ぜたような髪。真夏の深緑を切り取ったような瞳。頬骨にある痣。年齢が変わろうともその特徴はなにも変わっていない。見開かれた瞳が細くなる。千里は安堵の息を吐き出した。
「……生きていましたか」
「ああ。きみのおかげだ」
大人らしい落ち着きが増した声に思わず気が抜ける。自身の選択に誤りはなかったのだと千里は実感し、運命を変え、生き延びた男を見上げれば、にこりと柔らかく微笑まれた。思い出されるのはあの戦闘。シーザーは無事に生き残ったのだ。目の前の姿がその証拠である。
ベッドに横になる千里がしっかりと目覚めたことを確認し、シーザーは安堵していた。千里の身になにがあったのか一番把握しているのは彼自身だ。そしてなぜあの時代にいたのか、ジョセフから聞いている。また彼女と自身の関係もすでに知っている。千里との出会いは運命だったのだろうと今の彼は思っていた。一本につながった線は真実をわかりやすく教えてくれる。
敵スタンドの攻撃を受けて空間の破れ目の間に消えた千里が再度現代に落ちてきたのは二時間後のことだった。まるでボロ雑巾のように転がり落ちてきた少女の全身の筋肉はずたずたに引き裂かれ、骨も砕けた瀕死の重傷だった。一行は彼女を病院に運んだはいいが、千里の意識が回復するまでそこに留まっている余裕はない。しかし瀕死の重傷の少女を一人置いて行くわけにもいかない。そのためジョセフは彼を呼び寄せたのだ。
「とても心配した……生きていてよかった」
シーザーが千里の頬を撫でた。彼は千里のために来たのである。千里と再会できる日を心待ちにしていた彼だからこそ、ずっとそばに寄り添ってその目覚めを待ち続けていたのだ。
灰色の隻眼があのころより年を重ねた男を見上げる。年はジョセフとそう変わらないだろうに若々しい姿を保っているのは波紋の呼吸を続けているからなのだろう。あの戦いののちもシーザーは修行を続け、今や彼は正式な波紋の伝承者となっていた。いつかの未来に千里と再会できることを信じて、また再会したときに気付いてもらいたいがために彼は老いることを選ばなかった。この半世紀、シーザーは一日たりとも彼女を忘れることはなかったのである。
「あれから……」
「一週間、きみは眠っていた。……そうか、おれにとっては五十年のことでも千里にとってはつい一週間前のことになるのか……」
そうですか。千里が呟く。長い間眠っていたために時間の感覚はない。一週間、悠長に眠っていたのかと感想を抱いたと同時に、自分の旅はここで終わりなのだと気が付いた。額に怪我を負ったアヴドゥルをインドの病院に置いていったように、彼女もまたこの病院に残されたのである。この怪我では戦線復帰は望めない。それはつまりあれだけ切望した男の首を取れないということだ。しかし千里は残念だと思っただけだった。今は安堵の方が大きい。
ベッドに横になったままの千里がじっとシーザーを見上げる。数十年ぶりその視線が酷く懐かしく、シーザーは唇を綻ばせた。思えば出会いも似たような状況だった。半世紀前からなにも変わっていない彼女が彼の友人の孫だと知っても会う機会がなかった。言葉など必要のない、初めましてではない奇妙な関係。それが敵スタンドによるものだと今の彼なら理解できた。
「すまない……せっかく千里が情報を残してくれたというのに、DIOの復活を阻止することはできなかった……」
ロバート・E・O・スピードワゴンに託された情報と未来予知は結果として生かされなかったのはDIOの復活が運命づけられていたと言えよう。DIOが復活しなければこの旅自体がなかったことになる。現代と過去の記憶を持つ千里がいる限り、生じる矛盾はすべて否定される。改竄されるのは彼女の知らない部分ばかりだ。
不思議なことに千里はそのことについて残念には思わなかった。DIOの棺を引き上げたのがトレジャーハンターではなくSPW財団だったとしても、波紋使いが不在のまま引き上げて結果全滅したと聞いても、なるべくしてなったのだとしか感想を抱かなかった。結局決定されている歴史は覆らない。だからこそ、現代に戻ってきた千里も道中の病院に収容されているのだ。彼女の歩むべき道はなにも変わっていない。
「すまない。おれのせいで千里に怪我をさせてしまって……きみのじいさんにも申し訳が立たない」
シーザーは眉を下げてみせる。彼を守って千里は大怪我を負った。言い方を変えればシーザーは彼女を守りきれなかった。義手と義眼の用意をSPW財団に依頼しているとは言っても、その怪我がなかったことになるわけではない。生きていたのだからいいじゃあないか。そうジョセフが慰めても、シーザーが納得するはずがなかった。酷い罪悪感が彼を襲う。
シーザーの友人の娘の子が千里だと知ったのは、何気ない日常の中であった。久々に会った友人の目尻に増えた皺に時の流れを感じながらバールで酒を飲み交わしたときのことである。友人の横顔が少女のそれと重なったのだ。性別も年齢も違うにもかかわらず、確かにシーザーは男の横顔に千里の面影を見た。それに気が付いてから、友人の姿形や動作に千里の影があるように思えて仕方がない。猟銃を構える友人の姿までもが千里にそっくりであった。そして予感に従い友人に問い、知る事実。彼女は友人の孫だった。
頬に触れる大きな掌のぬくもりに千里は眼を閉じ、ゆっくりと開く。謝罪すべきなのは彼女の方だ。現在という結果があるのだから別に言う必要もないのだが、それでも千里は自身の不誠実を嫌った。贖罪のつもりだったのかもしれない。
「――最初はあなたを見殺しにするつもりだった。わたしはあの男を殺すために、あの時代で生きることを選んだ」
何度も思い悩んだことだ。そう簡単に片付けられるはずがない。千里は結局、自身の目的をなげうって選ぶ予定のなかった選択肢を取った。その結果、戦線離脱せざるを得なくても左腕が失われようとも彼女は後悔していない。選択を誤ったとも思っていない。シーザーが生きている。それだけで充分だ。
「だがあなたが死んで悲しむ人がいる。あなたを生かさなければと、そう思った」
本来はあの戦いで自分は死ぬはずだったとシーザーが理解したのはいつだったか。千里がイレギュラーな存在だと知ったときだったかもしれない。彼女がいなければシーザーは一対一でワムウと戦うことになっていたかもしれないし、結果命を落としていたのかもしれない。すべて確かめることのできない仮定でも彼は理解している。そうでなくては千里がワムウとの戦闘に飛び込んできた理由が説明できない。あなたが死んで悲しむ人がいる。その一言がすべてを物語っている。
「おれを助けた理由はきみのじいさんか? ――それとも千里、きみ自身か?」
少しいじわるな質問かもしれないと思いながらも、シーザーが問いかける。そうであってほしいという願望が含まれていることは否定できない。自身の祖父のために命をかけたと言われてしまえばおそらくがっかりするのだろうと予想しながら少女の返答を待つ。鮮明に思い出されるのは彼女の最後だ。最後は視線を交わすことすらできなかったが、そのとき千里はなにを考えていたのだろうかと時折思う。
千里の眼が再度閉じられる。深く息を吐き出した。最初は祖父の悲しむ顔を見たくないためだったが、いつの間にか彼を生かすことが主目的となっていたことは否めない。そもそも彼女の中でシーザー・アントニオ・ツェペリという男はいい意味で悪い意味で特別な存在だったのだ。誰のため、なんのため、ではない。ただ単純に、純粋に彼には生き延びてほしいと千里は思った。すべてが終わった今だからこそ、千里は冷静に考える。ここまでが予定調和だったとしても驚きはしない。見殺しにはできなかった。それで充分だ。
「見捨てたくてもあなたのことが気になって仕方なかった」
自嘲を含んだような声色。祖父譲りの瞳を見ることは叶わなくとも、千里らしい回答だと感想を抱いたと同時にシーザーは自身の顔が緩むのを感じた。彼の中で千里という少女は特殊であり、特別な存在だ。なにせ半世紀も若い姿を保つ理由が千里であるし、ジョセフに呼ばれたここに来たのも相手が千里だったからだ。目の前で死んだが生きている。触れる少女の頬はあたたかい。彼にとってそれで充分だ。