かつて、人間を最も美しく創造した

 千里と彼女の祖父母が住む家の勝手は良く知っている。土曜日の昼過ぎに手土産を持って現れたシーザーをまず庭先で出迎えてくれたのは一頭のハウンド犬。何度も訪れているためか、もはや彼の顔を覚えてしまっているらしく尻尾を振って足元にまとわりついてくる。顎の下をくすぐってやれば気持ちよさそうに目を細めて甘えるように鳴いた。彼女の祖父は第一線から退いて以来、猟師を生業とするかたわらで猟犬のブリーダーもしているため、家の裏の犬小屋や家の中にはまだ数頭のハウンド犬がいる。彼らの世話は千里の仕事だ。
 猟犬を足元にまとわりつかせながらシーザーはウッドデッキを通り抜け、がっしりとした造りのドアの前に立った。ドアは内開きである。何度も訪れているためすでに覚えてしまっていた。しかしいつもと違ったのは呼び鈴を鳴らす前に勝手にドアが開いたことだ。シーザーの記憶通り内開きだ。その奥にいたのは仔犬を抱いた千里である。そのかたわらには一頭の成犬を伴っていた。灰色の瞳でシーザーを見上げ、ゆっくりと一つ瞬きをした。

「やあ、久しぶり。出迎えてくれるとは嬉しいな」
「――窓から見えたので。お待ちしていました」

 千里は幼い子供ではないため頭は撫でるようなことはしないが、その代わり精一杯柔らかく微笑んでみせる。彼女の腕の中の仔犬が興味深げにシーザーを見ていた。シーザーにまとわりついていた犬は彼から離れ、千里に伴う犬に鼻を寄せてじゃれつく。二頭は兄弟だ。
 相変わらず千里は表情に乏しいが、それでも旅をしていた頃のような刺々しい鋭さは鳴りを潜めている。半年前に会った頃より顔色も体つきも健康なそれになっていた。日常に戻るまでに一年、日常に戻ってから半年。それだけの時間をかけて彼女はシーザーの前にいる。片目が義眼になろうとも、片腕が義肢になろうとも、確かに彼女は生きていた。だからシーザーは千里に会いに訪れる。
 千里に案内されてシーザーは室内に足を踏み入れた。家の中にいるのは千里と数頭のハウンド犬だけだ。彼女の祖父母は外出していて不在だとあらかじめ連絡した際に言われている。ホテルを取るくらいなら泊まって行けと彼女の祖父に言われているため、その厚意に甘える予定である。帰りは夕方ごろになると聞いているからまだまだ時間はある。
 友人夫婦はシーザーを信用しているのか、それが常識だと信じきっているのか、孫娘と二人きりになることについて微塵も心配していないようだった。確かにここで過ちを犯すほど彼も愚かではない。そもそも彼は千里に対して仲間以上の感情を抱いている。それはきっとあの死闘をくぐり抜けた結果であろうし、また時代を超えて築かれた奇妙な絆のせいであろう。シーザーは街中で女の子に囁くような言葉を千里に囁こうと思ったことはない。どれだけ心を込めた言葉でも彼女に伝えるにはどうにもなにかが足りなかった。
 千里に続いてリビングに入ると小さなボリュームでラジオがかけられていた。英語でもイタリア語でもないため、なんの番組が流れているのかシーザーにはわからない。ついで鼻孔をくすぐる香り。シーザーが来るまで料理をしていたのか、室内には美味しそうな香りが漂っていた。そのことについてシーザーが尋ねれば、これから昼食なのだと千里は答える。そして昼食を取っていないのであればどうかと誘われたものだから当然彼はその誘いに乗った。すでにランチは済ませていると言っても軽食程度しか食べていないし、そもそも千里の手料理を断る理由がない。
 手料理と言っても趣向を凝らしたようなものではなかった。ライ麦パンと豆のスープ、ニシンの酢漬けにマッシュポテトとソーセージを添えただけの非常に簡素なものだ。手作りと言うにしてはほとんどがすでに出来上がっているものばかりである。千里が一人で食べる予定だったのだからそのくらいでちょうどいいのだろう。
 千里は元々食に対して関心が薄いため、腹に溜まればそれでいいと考えている。味付けも驚くほどにおいしいわけではないが、今一つと思うほどにまずいわけでもない。可もなく不可もなく、である。彼女の祖母は料理がうまいが、あいにくそれを受け継がなかったらしい。
 ラジオをバックミュージックにシーザーと千里はテーブルに向かい合って昼食を取る。匂いにつられたのかハウンド犬が顎をテーブルに乗せて料理を催促するものだから、シーザーは一口大に切ったソーセージを投げてやった。ハウンド犬は器用に空中でキャッチする。それを見て千里はなにも言わなかった。

「そういえば高校を卒業したらどうするか、もう決めたのかい?」

 彼女は自主的に高校を留年している。彼女の住む国では留年を学業の追求のための手段として捉えられているため、幸いにも留年は恥ずべきものではないと認識されている。あの旅から日常に戻るまでに一年以上かかった千里はその間の時間を取り戻すために半年前から再び高校に通っていた。彼女の成績はなかなかに優秀だとシーザーは友人から聞いている。性格通りに勤勉らしい。
 スープを飲む手を止めて千里はシーザーを見上げた。スプーンを置いて少しだけ思案したのち、口を開く。

「可能ならば、留学したいと考えています」

 あの長くて短い旅は確かに千里に変化をもたらした。それまで彼女の世界は非常に狭いものであったが外の世界を知ったことにより、今までわずかな興味さえ向けなかったことに興味を抱くようになった。違う世界を知ったのである。あの旅がなければ千里が留学など言い出すことはなかっただろう。

「なるほど留学か、それはいいことだな。行き先は決めたのか?」
「いえ、そこまではまだ……」

 言葉を濁すように口を噤んだ千里が留学自体に躊躇いを持っているとシーザーは気付く。彼女は常に堅実だ。先のことまで考えて行動するのが常であるため、留学を最終の目的にしてはならないと考えている。費用があれば留学は簡単だ。しかしそこで終わらせることを千里は良しとしない。
 千里はあまり自身のことを語らない。そのためなぜ口を濁したか推測しなければならないがシーザーはなんとなくながら理由を察していた。彼女は真面目な性格だと昔から知っている。また、ジョセフのように気楽に考えることが苦手なのだとも。無意味なことや無駄なことをしないということは必ず意味や結果を千里は求めている。ゆえに漠然とした興味だけでは彼女を動かす原動力にはいささか足りない。

「だったらイタリアはどうだろうか。きみがいた頃とは少々変わってしまったが、それでもまったく知らない土地でもない。それにせっかく覚えたイタリア語を使わないのはもったいないぞ」

 千里の反応を伺いながらシーザーは慎重に言葉を選ぶ。彼女の手料理が一旦お預けとなったことは少々残念だが、彼の中で食事の優先順位が女の子を超えることなどありえない。またあわよくば、という下心も少なからずある。シーザーが友人の家を訪れる理由の大半が千里だからだ。半世紀前から彼女はシーザーの中で簡単に言葉で表せないような存在となっている。ゆえにいくら年齢差があろうとも彼女を自身の孫のように見ることなどありえない。孫以上に大切でそしてとても愛おしい。
 一方千里はシーザーの提案に少しばかり驚きつつも、彼の提案について生真面目にも思考を巡らせていた。彼女がイタリア語が話せると言っても買い物をする際に必要な言葉とあといくつかの語彙くらいのものだ。五十年前の世界で必要に迫られて覚えただけである。しかも学校で学んだわけではないためかなり怪しい。
 どうせ留学するだけの資金は不足していない。半年ほど前に両親の遺産がほとんどすべて千里に転がり込んできたからだ。元々資産家であったためDIOにかなりの金銭を貢いでいようとも潤沢な資産は底を尽きず、さらに不動産や有価証券等々も山のように残っていた。行方不明の弟と折半しようとも税金でたっぷりと引かれようとも手元に残った額は相当なものだ。祖父母にこれまでの生活費等を払おうとしたところ拒否され、また彼女自身お金を使うことなどほとんどないためにほぼ丸々彼女の口座に残っている。どれだけ汚い金だろうと千里は頓着する気はなかった。どうせ綺麗な金など存在しない。

「保証人が必要というのならおれがなろう。慣れない土地で生活するのが心配ならばおれの家に住めばいい。それだったらきみのじいさんも反対しないだろうさ」
「――少し、考える時間をください」
「ああ、かまわないさ。迷惑だなんて考えなくていい。いくらでも協力するし、おれはいつだって大歓迎だ」

 満面の笑みを浮かべるイタリア人から目をそらし、千里は豆のスープに視線を落とした。彼女の膝にハウンド犬が顎を乗せる。上目遣いに餌を催促する犬の頭をひと撫でしながらどうしたものかと思案する。確かにまったく知らない土地よりはいいかもしれないが、未だ留学する明確な目的と得るべき結果を見出せずにいる彼女にしてみれば非常に難しい問題である。