いつもより一人多い夕食は話し手が増えたせいか、いつもより賑やかだった。友人同士の話は尽きず、食事のあとのデザートの時間でさえも足りなかったため、これは夜を通して話すことになるだろうと苦笑した千里の祖母が倉庫からとっておきのブランデーとドライフルーツを取ってくるよう千里に言う。男同士の話は長いとこの細君は呼吸はよく心得ていた。千里が言いつけ通りのものを持ってきてもなおリビングでは談笑が続いている。あとのことは祖母に任せ、千里は上着を羽織って外に出た。夕食後は彼女の仕事である犬たちの世話が待っている。猟犬としての躾は祖父から教わっている最中だ。
千里が小屋に現れるや否や、犬たちが尻尾を振って彼女に群がる。餌は人間たちの夕食前にすでに与えていた。犬たちに纏わりつかれながら餌皿の片付けをし、飲み水を新しいものに変えてやる。寝床の準備ができたことを確認してから最後に仔犬たちの様子を見てやり、犬小屋の電気を消す。あの旅に巻き込まれる前から続く千里の日課だ。
一日のすべきことを終えれば残りは千里自身の時間となる。特に客人の相手をする気もない千里は犬小屋の外壁に備え付けられた梯子を使って屋根に登った。彼女の家は犬をたくさん飼っているため、街中ではなく郊外にある。人工的な光が比較的少ないために月の出ていない夜は星がよく見えた。別に星を見るのが好きというわけではない。考え事をするにはベッドの上では少々具合が悪かったし、静かな場所の方が思考が冴えてなかなかに捗る。それに今夜の月は酷く細く、眩しすぎなくて具合がいい。
本格的な夏の季節に一歩踏み入れたこの時期でも夜になればやや肌寒い。どちらかといえば寒がりである千里は上着のボタンをすべて止めて首を竦ませる。気温的に風邪を引くほどではないが、そのくらいの服装が彼女からしてみれば丁度よかった。義手を隠すための手袋は家の中だろうが外だろうが関係なく両方に着けていたから生身の右手は冷たくない。夜気の中に身を沈ませながらゆっくりと思考を巡らせる。
千里が自らの思考に没頭してしばらく経った頃、彼女の耳に足音が届いた。ゆったりとした一人分の足取りが犬小屋へと向かってきているため千里は視線を星空から足音の発生源へと向ける。そして内心小さく息を吐き出した。地上からシーザーが千里に笑みを向けており、その両手にはグラスとマグカップが収まっている。仄暗い月明かりの中でも彼の髪は輝いて見えた。
「やあ、ここにいると聞いたんだ。そこへ行っても構わないか?」
拒む理由はどこにもなかった。千里が黙って頷くとシーザーは二人分の飲み物を片手で持って器用に梯子を登る。千里は茫洋とした目を向けて彼を出迎えた。一人の時間は終了だが別にそれに固執するつもりもなかったため他人の存在も特に気にはならなかった。
千里の隣に腰を下ろしたシーザーはマグカップを彼女に差し出す。それは彼女の祖母から預かってきたものである。シーザーが持つグラスには大きなロックアイスとブランデーが入っていた。先ほどまで友人と飲み交わしていたものだ。
「冷えるから、だそうだ」
差し出されたのは白い湯気が立つココアだ。真っ白なマシュマロが浮かんでいる。それが数少ない千里のお気に入りだとシーザーが知ったのはつい先ほどのことだ。特によく練ったココアが好きらしい。女の子だからといって甘いものが特に好きというわけではないらしい上に食事という行為にあまり関心を持たない千里にも好きなものがちゃんとあるのかと彼は驚いた。子供の飲み物を好むという意外性もあったが、存外かわいらしいところもあると同時に思った。
千里がそれを好む理由をシーザーは友人から聞いている。千里が入院していることを伝える際に彼女の身になにがあったのか説明する義務があるとシーザーは感じ、彼の友人からしたら突拍子もないような過去の話を語ったのである。最初は眉唾で聞いていた千里の祖父も友人の話をすべて嘘だとは否定しなかった。嘘を吐くメリットがなく、仮にそれが嘘だとしても千里が大きな事件に巻き込まれたのだと理解するには充分だった。それにシーザーは千里に思い入れている節があると察していた彼女の祖父は孫について話して問題のない範囲だけ友人に語った。千里には理解のある大人が一人でも多く必要だと判断したからである。どうせシーザーを受け入れたところで千里はなにも語らない。
「それを飲んだら中に戻ろう。初夏とはいえ、体を冷やしてはいけない」
千里が左手で無造作にマグカップを受け取る瞬間、シーザーは熱いから気をつけるよう言いかけて口を閉じる。黒革の手袋の下は無機質な金属だと思い出したのだ。センサーがついているため触覚はあるらしいが、痛覚や温度覚といった通常人間に備わっている皮膚感覚はないらしい。普段それを手袋で隠しているのは見た者に不快感を与えないためだと彼の友人は言っていた。おそらくジョセフと似たようなものだろう。彼女の場合、左の肩から指先まですべてが機械製だ。一年中長袖を着ているのも室内でも手袋を外さないのも彼女なりの気遣いである。事情を知る者知らぬ者問わず義肢を見てなにも思わない方が少ない。シーザーは殊更。
「悩みがあるなら相談に乗ろう。きみの力になりたいんだ」
口ではいくらでも言えた。しかしそれは純粋な親切心ではないと当の本人が一番よく理解している。確かに千里はシーザーにとって特別な存在だ。愛だ恋だと言うには少し違う、気になって仕方がないのだ。他人に言わせればそれも愛や恋の一種にカテゴライズされてしまうだろうが、そのような言葉では片付けることのできないなにかを孕んでいる。一方でシーザーは千里に対して大きな負い目がある。贖罪かもしれない。千里に尽くすことで償おうとしているのかもしれなかった。
千里はココアの海に浮かぶマシュマロに視線を落とす。マシュマロが甘いからココアはそこまで甘くない。祖父母の家に住むようになってから知った飲み物だ。住み始めた頃は酷く寝つきが悪かったため心配した祖母が作ってくれた。さすがに今はココアを飲まなければ眠れないなんてことはなくなったが、幼い頃の思い出に補正がかかったためか人から向けられる愛情を知ったためか、今でも嫌いではない。
しばらくの沈黙ののち、千里が重い口を開いた。それは独白に近い。
「――スタンドを身に付けた頃から将来は祖父と同様の道を歩むつもりでいました。あなたと出会ってからもそれはずっと変わりませんでした」
戦闘の才能で言えば千里は突出している。エジプトまでの旅路でも赤石を巡る戦いの中でも彼女は常に第一線を駆け抜けていた。シーザーはそれをワムウとの戦いのときにだけ見ていたが、千里は呼吸をするように戦い方を知っているようだった。それはまさしく祖父譲りだと今のシーザーならわかる。彼女の祖父は退役するまでずっと職業軍人であり、また戦場では幾度となく功績を挙げていた。彼女はその血を見事に継いでいた。
「ですがあのホテルで敵に負けたとき、わたしに戦いは向いていないと気付きました」
わたしができるのは殺し合いだけです。小さな呟きがマグカップから立ち上がる白い湯気を揺らす。
敵を倒すだけがすべてではないと知ったのはいつだったか。自身は命を惜しまない戦い方しかできないと千里が理解したのはきっと瓦礫に体を潰される直前だろう。彼女の戦いに誇りや正義はない。常に命の奪い合いをしていた。
少女の独白に耳を傾けながらシーザーは心の中で否定する。ワムウとシーザーの戦いを殺し合いと称しながらも千里は確かにシーザーのために戦った。自分自身を犠牲にしてシーザーを生き残らせた。確かに命を蔑ろにする傾向にはあるも確かにあのとき千里はシーザーを守って死んだ。それは決して殺し合いではないと言いたいのだが、きっとそれを彼女は求めていない。千里は自分に厳しく、酷く不器用だから。
「あの旅でもっと外に目を向けるべきだと気付きました。ですが自分の生き方を外国で探す、というのは動機として不十分すぎる」
それが留学という選択肢を生んだのかとシーザーはようやく納得した。見聞を広めるために他の国に出る、という漠然とした理由だけでは千里は絶対に認めない。無意味な行為を彼女は嫌う。なぜなら外国に行くだけならばいつでもできるし、見聞を広める方法や手段を考えないまま闇雲に国外へ飛び出すほど千里は無鉄砲ではない。突き詰めていった結果、堅実な千里は留学という一つの手段にたどり着いた。だがそれが苦し紛れの選択肢だとも気がついている。大義名分も彼女の嫌うところだ。
「きっかけなんて些細なものでいいんだ。それにきみより不純な動機を持つ奴らなんて腐るほどいるぞ。だから、もっと力を抜いて考えてみたらどうだ? どうせ怒られるわけじゃあないんだから」
シーザーの笑みを視界の端に映しながら千里はココアを一口飲む。彼の言うことは理解出来る。しかし生来生真面目である彼女は自分自身のことに限っては融通が利かない。無駄と無意味を嫌う千里にとって、そこに意義がなくては意味がないのだ。
ふと千里はシーザーにイタリアを勧められていたことを思い出す。確かにイタリアという地はなにかと因縁深い。スタンド能力を身につけたのはイタリアだった。半世紀前の世界に渡りシーザーと出会ったのはエア・サプレーナ島だ。千里の人生を変えるのはいつだってイタリアだ。ただの偶然であろうとも彼女にとってイタリアは良くも悪くも特別な場所である。そういう意味では人生に影響を与えるであろう時間をそこで費やすのも悪くはない。あとは自分が納得できるだけの理由を見出すだけだ。