神の恩恵は数えきれない

 瞼を上げて見慣れない天井の色に一瞬戸惑ったのち、自身のいる場所を思い出して千里は小さく息を吐いた。部屋の中の香りも薄緑色のカーテン越しに差し込む太陽の光も未だ慣れない。非常に浅い睡眠でも体の疲れはなんとか取れるが、慣れない布団や枕の柔らかさの中で気を抜いて眠ることは少々難しかった。時計を見れば起きる時間にはまだ早い。
 千里の眠りの質は人に比べて極端だ。非常に眠りが浅いか、非常に眠りが深いかの二者択一しかない。さらに言えば彼女は自身のベッドでのみ眠りが深くなる。そうなれば朝まで微動だにしないため人が入ってこようが声をかけられようが決して目覚めない。気を抜いて眠れる場所が限られてしまっているのだ。一方で慣れない環境では警戒心も相まってか寝室に人が入り込めば容易に目覚めてしまうほどに浅い。千里はそれを自覚しているも慣れてしまえば気にするほどのことでもないと思っている。慣れとは本当に恐ろしいものである。
 深い睡眠を取れていない。つまりイタリアに来て一ヶ月が過ぎようとも千里は未だ新しい環境に慣れていなかった。これがホテルだったり学生寮だったらまた違ったかもしれない。知り合いの家とは言えど、当然ながら自宅にいるような感覚には到底なれそうになかった。家主がよく見知った相手でもだ。
 千里が留学したいと祖父母に告げた際、祖父はすぐさま賛成しなかった。おそらく彼女の中の迷いを見抜いていたのだろう。孫が生半可な考えで行動しないとは彼もよく理解しているが、迷いを持っている状態ではよくないと思ったからだ。しかし留学という手段に対しては悪くないと考え、また一方で千里がイタリアという地を選択した点においては賛成した。知り合いがいるという安心感がある。まだまだ人として半人前である千里を人に預けるならばやはりよく見知った相手がいい。最終的には首を縦に振ったのだが、彼の細君が小さく笑いながら夫は過保護なのだとシーザーに耳打ちしたことは渋い顔をしながらも黙って聞いていた。
 結局千里は高校を卒業して、確固とした決断ができないままイタリアにいる。明確な目的を持たないことは苦痛であった。なぜなら彼女はそういう生き方を知らないからだ。あくまで留学は過程であって最終目的ではない。言葉の壁はあれど、それはあらかじめ想定していたことである。そこに発生する苦労をさほど気にしない千里も家にいる限り顔を合わせるシーザーとの生活には戸惑うばかりだ。エア・サプレーナ島にいた頃は食客のような立場であったからそこまで気にしたことはなかったが、他人の家に住むということはいささか窮屈なものである。それが他人として切り捨てられない男の家ならば尚更。
 シーザーがなにかと気にかけてくる理由も理解しているつもりだ。十八を過ぎてまだこの扱いなのだから相当気にかけられているという自覚はある。不満があるというよりも過剰なほどに気にかけられていること自体に慣れていないため戸惑ってしまう。甘やかされることには慣れていない。
 起床にはまだ早い上に今日が休日だと思い出すも二度寝する気になれなかった千里は起床を選ぶ。朝食を用意するのは彼女の役目だ。だが作る、というほどに大がかりではない。イタリアの朝食が簡素なものだと千里は半世紀前に学び、最近思い出した。こちらは朝に肉や野菜はあまり食べないものらしい。千里とてそこまで食事にこだわりはないため特に気にしたことはなかった。
 朝食を作り始めるにもやや早いため、千里は散歩に出ることにした。朝食を作る時間までに戻ってくればいい。どうせ家を抜け出すのは初めてのことではないし、家主を起こさないよう足音を立てずに歩き回るのは慣れたものだ。なにしろ他人の家という場所はどうにも落ち着かない。そもそも平穏の中で生きる方法がいまいちわからない。以前は確かにその中で生活していたはずなのだが、どうにも思い出せなかった。
 千里は勝手に家を抜け出すことについてシーザーに気付かれないようにしようとは微塵も思っていない。忍び足で歩くのも早朝ゆえの最低限のマナーであると思っているし、わざわざ報告するほどのことでもないと考えている。だから問いただされたら素直に認めるし、諌められればそれに大人しく従うつもりだ。それに隠し事のつもりでいないために後ろめたい気持ちも微塵もなかった。おそらく気付かれているだろうとは思っている。
 千里が家を抜け出す音をシーザーはベッドの中で聞いていた。実年齢はともかく肉体は全盛期のままである上、研ぎ澄まされた勘も衰えていない。鍛え抜かれた波紋戦士は同居人の挙動に敏感であった。またか、とベッドの中で溜息を吐くのも何度目か。ベッドから出ないのは千里がそれを望んでいないと知っているためだ。彼女が一人になりたがるのは今に始まったことではない。
 イタリアに移って一ヶ月。平静を装いながらも千里の挙動はどこかぎこちなかった。慣れない環境ゆえに仕方のないことであるため時間が経てば落ち着くだろうとシーザーは考えていたのだが、どうも様子が違う。馴れ合いをよしとしない千里でも溶け込まずとも馴染むくらいはできる。それが赤の他人ならいざ知らず、顔馴染み以上の関係であるシーザーに対してならばそう時間もかからないはずだったのだがどうもそう簡単な話でもないらしい。
 遠慮と言ってしまえばそうなのだろう。それは節度とも言い換えられる。だがシーザーはそれを戸惑いとは捉えることができなかった。フェミニストである彼は繊細な乙女心は理解できても千里の思考は読み取れない。なにも言わないからなにを考えているのかわからない。問うたところで彼女はなにもないと言うのだろう。それは遠慮でも節度でもない。自身の問題だと千里は一言呟くだけだ。そしてそこから先に踏み込まれることを非常に嫌う。エア・サプレーナ島で過ごした時間はほんの数ヶ月にも満たないため、シーザーは未だに千里のほとんどを理解できていなかった。
 自身の意気込みが馬鹿らしい気がした。どれだけシーザーが積極的に語りかけようとも千里は肯定も否定もせずにただ受け入れるばかりである。そこに彼女の意思があるのかどうか。少なくとも千里はシーザーほどに積極的ではない。人との関わりには常に一線を保ち、決してそこを越えようとはしなかった。シーザーが相手でもそれは同様で彼が一歩近付けば気付かれないようにそっと半歩後退する。捕まえようとすればするりと逃げられる。その絶妙な距離感がシーザーをやきもきさせた。心を開かれていないということはないだろうにも、これではあんまりだ。五十年間胸の内に秘め続けた感情が不完全燃焼で燻り、彼を焦らせる。それはまるで。

「――まるで恋する乙女のようだな」

 小さくつぶやき、自嘲する。寝ても覚めても千里のことばかりが気になって仕方がない。千里はクールでシャイなのよ。アメリカにいる友人の細君の言葉を思い出す。クールな女の子やシャイな女の子にかける言葉をシーザーは知っているが、千里にかける言葉は知らない。囁いたところできっと一瞥すらされないだろう。
 寝返りを打ってみても眠気はとうの昔に吹き飛んでしまっていた。二度寝もできそうにない。シーザーは仕方なしに起き上がることを選択した。シャワーを浴びて頭を冷やそうと思ったのである。彼は自身が冷静な判断ができない状態であることを自覚している。千里が関わることにはいつもそうだとも理解していた。彼女はシーザーを悩ませる。
 シーザーがバスルームから出たのと千里が帰ってきたのはほぼ同時であった。予想より早く千里が帰ってきてしまったためシーザーは少し慌ててしまった。なにせ今の彼の格好はジーンズを履いただけの姿だったからだ。髪だってまだ濡れたままである。どう考えても年頃の女の子の前に出ていい姿ではない。いつもは気を付けているのだが今朝に限っては迂闊だった。彼の予想では千里が帰ってくるまでまだ少し時間があったはずである。
 だがそんなシーザーの姿を見ても千里は表情一つ変えなかった。予想外のことに驚くだとか羞恥に頬を染めるだとかが普通の反応だろう。一方で興味を示すわけでも軽蔑するわけでもない。彼女のそれはいつも通りとしか言いようがなかった。つまりなんの反応も示さなかったのである。きっとそれはシーザーが衣服を身に纏っていなくても同様だろう。むしろ彼は恥じらう千里を想像することができなかった。

「すみません。すぐに朝食の用意をします」

 それどころかシーザーが起床したにも関わらず朝食ができていないことを謝罪する始末である。それか当然だと思っているようだ。シーザーがなにを言おうともなにをしようとも千里の中で彼に対しての評価は変わらない。いい意味で悪い意味で彼女は常に公平を保つ。彼女はそこまで他人に関心を持っていない。
 私室に戻る千里の背中を見送ってシーザーは何度目かわからない溜息を吐き出した。そんなことで一喜一憂する年齢でもないだろうにと自嘲する。彼女の前ではまるで五十年前に戻ってしまうようだ。大人の余裕が発揮できない。この年齢になるまで様々なことを学んできたはずなのだが、そのどれもが生かせそうになかった。