せっかくの休日だから出かけようか。そうシーザーが千里を誘ったのは朝食の時だった。千里は手を止めてシーザーを見やる。相変わらずその鉄色の瞳はなにを考えているのかわからなかったが、ただ相手が話しかけたから目を向けた、それだけなのだろうとシーザーは思った。返答はなくとも無視されないだけまだマシというものだ。半世紀前とは大きな違いである。
基本的に千里はシーザーの意見に対して反対しない。反対する必要性がなければ、という前提条件があるも、自身や身の回りのことにあまり関心を抱かない彼女にとって自身に不利益になるような内容以外ではだいたい受け入れる。それに千里が年長者に対して反抗的な態度を取ることはない。さらに家主であるシーザーに反抗する理由はなく、そもそも千里が彼に口答えできるはずがなかった。
緩やかな笑みを浮かべるシーザーと無表情を貫く千里の組み合わせは異様である。それでも休日の午後で賑わう街中に紛れ込んでしまえばそこまで目立つこともなかった。はぐれないよう手をつなぐなんてことは当然行わないが、シーザーは常に千里の左側を歩く。平時はまったく感じさせないが彼女の左目は義眼であり、左腕は義肢である。日常生活に支障をきたさない程度の機能を有しているとはいえ、やはり生身のそれとは勝手が異なる。本人はまったく気にしていないが、やはりシーザーとしては気になった。やはりそこには負い目がある。
「そういえばまだ千里のマグカップを買ってなかったな。きみが気に入るものが見つかればいいんだが」
なんの前触れもなしにシーザーがどこかを見て呟いた。なにを急にと千里が彼の見つめる先を追う。視線の先には雑貨屋があった。ここまでわかればシーザーの目的は把握できる。
「わざわざ新しいものを買わずとも。家にあるものでわたしは別に……」
「いいか千里。これは非常に重要なことだ。お気に入りのマグカップでカフェラテが飲めない朝ほど不幸なことはないんだぞ」
酷く真剣な目を向けられそこまで言われてしまえば千里も口をつぐむしかない。はたして昔から彼はこのような性格だっただろうかと考えざるを得ないのだが、考えてみればマグカップ一つ購うだけでどうのこうのと言ったことはなかったためただ単に千里が知らなかっただけのことかもしれない。
シーザーはなにかと千里の好みを知りたがり、千里専用のものを揃えたがった。歯ブラシやバスタオルなどはまだいい。カーテンやシーツの色を始めスリッパや家具、果ては枕まで千里の好みのものに買い替えようと主張するものだから、顔に出さないまでも当然千里はうんざりしていた。すでに家にあるものでいいではないか。彼女の主張はこうなのだが、それではシーザーの気は収まらないらしい。なにせ隙さえあれば服やバッグまで買い与えようとするのだから気が抜けない。
千里が相当渋い顔をしてしまっていたのだろう。シーザーは眉尻を下げて千里の正面に回り込み、視線の高さを合わせて黒い皮手袋越しに彼女の両手を包み込んだ。彼とて千里との温度差には気が付いている。そうして自身の年齢を思い出しては苦笑するしかないのだが、大人だろうが子供だろうが抑えられないものは抑えられない。半世紀の重みは相当なものである。千里がイタリアに来て一カ月、大人の余裕が発揮できない理由がここにもあるのかもしれない。
「すまない。だが、きみがいるから年甲斐もなくはしゃいでしまう。こんなにも心が躍る毎日は初めてなんだ」
年寄のたわごとだと思って大目に見てやってくれ。三十代の見てくれが言葉と大きく矛盾する。千里にそれを言及する気はないが、さすがに呆れずにはいられなかった。普段はそう意識していないが言われて思い出すシーザーの年齢は千里の祖父よりいくつか下だが、それでも老齢と言って差し支えない。確かに二十代前半だった半世紀前と比べれば落ち着きがある。だがそれを老いてなお盛んと言うべきか、無邪気と言うべきか。年相応ではなく姿相応と言った方が正しいのではないかと時折千里は思うのである。彼と共に柱の男を相手にして戦ったのが嘘のようだ。
一方で千里はシーザーのことを羨ましいとも思っている。あの想像を絶するような戦いから平穏な日常へ戻ることに成功した彼をわずかながら羨望している。千里は未だにかつての生活を思い出せずにいるというのに。
「だからと言って少々はしゃぎすぎです。程々にしてください」
「そうだな。肝に銘じておくとしよう」
結局シーザーに丸め込まれるようにして手荷物が増えていく。もちろんすべてシーザーが持っているのだが当然千里は釈然としない。さらにはいつの間にか肝に銘じるとはなんだったのか。思っても彼女は口にしないが。言うだけ無駄だとすでに理解しきっていた。今は好きにさせておいてしばらくすれば飽きるだろうと千里は考えているのだが、あいにくそれが見当違いの大外れであるとのちに彼女は気付くのである。しかも随分と後になってからだ。
不意に第三者の声が千里を呼んだ。何事かとシーザーが声の発生源に目を向けると一件のバールからエプロンをつけた青年が笑顔で手を振っている。千里は青年を一瞥し、軽く手を挙げてそれに返事をすると彼は嬉しそうにさらに手を振り、店の中へと戻っていった。どうやらバールの店員らしい。彼の背中を眺めながらシーザーが問いかける。
「学校の友人か?」
「はい。クラスメイトです」
ゆっくりと手を下ろしながら答える千里を見てシーザーは少し意外に思った。千里はあまり学校の話をしない。シーザーが聞いたところであまり具体的に話さないため、あまり馴染めていないのかと心配していたのだがどうやら杞憂だったらしい。しかしちゃんと友人を作っていたことにも少し驚いた。人付き合いはあまり好きそうに見えないため友人を作らず孤立していてもおかしくない。最低限の付き合いしかしないだろう千里が友人だと言うくらいなのだからそこそこ青年とは親しいのだろう。
嫉妬しないと言えば嘘になる。シーザーとて千里とは親しい関係にあるつもりである。今の関係になるまでにおれはどれだけの時間を必要としたか知っているのか。ほぼ八つ当たりに等しいとわかりながらもそう思わずにはいられない。
「千里。気になる男ができたら絶対おれに言うんだぞ」
しかしさっきの青年はどうだろうか。シーザーは脳裏にあの青年の姿を思い描く。彼は間違いなく千里に気がある。恋する男がどんな目をするかシーザーは知っているつもりだ。確かに千里は見た目は悪くない。性格は少々難ありと言えようが完璧などつまらない。だが千里は欠点を美点に変えてしまうほどに魅力的だ。そこにどれだけの贔屓と補正がかかっているかなど彼自身だってわかってはいないだろうが。
隣を歩く男がなにを言い出したのかまったく理解が追いついていない千里はゆっくりと瞬きをしてシーザーを見上げるばかりだ。いや、なにが言いたいのかはわかる。だが先ほどのクラスメイトと特別な関係になりたいとは露ほども思っていないし、そんなことに現を抜かすために留学しているのではない。興味の有無以前の問題なのだから、シーザーのそれは見当違いと言える。
千里は小さく息を吐き出した。そういえばこの男はこういう性格だったのだとようやく思い出したのである。
「――覚えておきます」
「ああ、頼むぞ」
途端シーザーの機嫌がよくなったように見えたのはきっと千里の気のせいだろう。