神との誓約は遂行し、破ってはいけない

 そういえば。彼女はふと気が付いた。シーザーは千里の学校生活についてよく話を聞きたがるが、千里はシーザーの仕事の話をあまり聞いたことがない。彼はいつも千里の話を聞きたがる。彼の容姿からはまったく想像できないが、すでに年金をもらえる年齢である。だからと言って日中悠々自適に過ごしているわけでもないようだ。手に職をつけているためそれを使って友人の手伝いをしているだとか、ジョセフが持つイタリアの土地の管理人をしているだとか、言葉の端々から様々なことをしていることだけは伺えた。シーザーが仕事の話をしないのはひとえに千里にいらぬ気遣いをさせないためであるが、彼女がそれを知ることは当分ないだろう。

「他にわからないところはあるか? 授業がイタリア語だけだから、わからない言葉が多いだろうしな」

 メガネを外したシーザーが問いかければ、ノートから顔を上げた千里が大丈夫だと返事をする。それまで彼女はシーザーからイタリア語を学んでいた。シーザーは千里の個人教師だ。テーブルに広げられたノートは千里の性格を表すようなかっちりとした文字で理路整然とまとめられていながらも、赤ペンでたくさんの書き込みがされている。千里はなにごとにおいても非常に真面目だ。ここ二ヶ月三ヶ月ほどでシーザーが抱いた感想である。
 夕食後にシーザーがエスプレッソ、千里がココアを飲むのはすでに確立された習慣であり、その時間帯にシーザーが千里の勉強を見るのもまた同じくである。言葉でわからない部分は多々ある上に、ちょうどネイティヴと一緒に住んでいるのだから存分に活用すべきだと千里は考えていたため、教えてもらうという行為に躊躇いはなかった。そもそもシーザーから個人教師役を申し出ているのだから遠慮する理由がない。
 千里の使うマグカップは先日出かけた時にシーザーが見繕って贖ったものだ。外側がオレンジで内側が白の配色はココアを一番おいしく感じる色らしい。食に煩いイタリア人らしい選択だ。そんなマグカップの中にはよく練ったココアにハート型の小さなマシュマロが浮かべられている。もちろんシーザーが自身のエスプレッソと一緒に用意したものだ。彼女はマシュマロココアが好きだから、と気を利かせたわけなのだが、実のところ千里は毎日飲まなくては気がすまないというほどココアに固執していない。別に食後はエスプレッソだって紅茶だって問題ない。だが他人の厚意に対していちいち口を出す気もなかったため、気にしていなかった。押し付けがましくなければなんだっていい。

「そういえば彼とはどうだ?」
「彼、とは」
「この前きみに声をかけたクラスメイトさ。ほら、マグカップを買いに行った日にバールにいた」

 少しだけ考え込むそぶりを見せたのち、ああ、と千里は呟いた。シーザーに言われるまでさっぱり忘れていたからだ。同時になぜ彼がそんなことを聞いたのかについても合点が行く。

「どう、と言われましても。彼はただのクラスメイトです」
「ああよかった。千里は魅力的な女の子だから、変な男にまとわりつかれていないか心配だったんだ」
「はあ……」

 心底安堵したとでも言うようなシーザーの表情を見て千里は呆れるしかない。なにを馬鹿なことを、と言い返す気力も出ないほどだ。また年不相応だとも思った。だがあの旅路でのジョセフを思い出せば年老いてもなおなんとやら、三つ子の魂百までとでも言うのだろう。
 シーザーの家に住み始めた当初は気まずさから来る居心地の悪さがあったが、たった二三ヶ月でそれが酷く馬鹿馬鹿しいものであるとさすがの千里も理解した。慣れないものに無理矢理順応する必要はない。肯定しようが否定しようがシーザーもなにも変わらないのだから、そういうものなのだと考えるだけで気が楽になった。深く考えるだけ無駄である。
 シーザーの話を半分聞き流しながら勉強道具を片付ける。飲もうと手に取ったココアはすでにぬるく、マシュマロが溶けきってしまっていた。だが気にせず千里はそれを口にする。祖母が作るそれより幾分か甘い。そういえば。千里が呟く。

「最近夜遅くまで起きているようですが仕事が忙しいのですか」

 きょとんと千里を見返し数秒、シーザーの顔に驚きの色が浮かんだ。頭の中で何度も千里の言葉を繰り返し、全容を理解する。驚きが次第に喜びに変わった。自然と口元がにやけてしまう。
 そこに大した理由はない。ただ千里がシーザーのプライベートについて質問した。それだけのことである。酷く些細で単純なことでもシーザーからしてみれば大変なことだ。彼女は他人に対して、特に個人的な部分に関してさほど興味を抱かないため、これまで一度もシーザーの仕事や私生活について聞いたことがない。自分は自分、他人は他人と割り切っているためだ。
 だからそれは大きな変化と言っても過言ではない。千里が他人のプライベートに興味を持った。しかもそれが自分のことであればシーザーも平常ではいられない。

「どうかしましたか」

 かけられた声にはっとしてシーザーは思考の中から抜け出す。目の前には訝しむ千里がいた。にやける顔を慌てて引き締める。毎晩遅いのはただ単に仕事の納期が迫っているだけなのだが、当然それを言うつもりはない。

「――いや、なんでもない。それより眠れないほどに煩かったか?」
「いえ。そういうわけでは……」

 口籠り、マグカップの中に視線を落とす。眠りが浅いため意識せずとも隣室の気配を感じ取ってしまうのだとはさすがに言えない。それを言ってしまえばシーザーは間違いなく千里に謝り、いらぬ気を遣わせることになるだろう。仕事だろうがそれ以外だろうがシーザーの邪魔をすることは彼女の望まないところである。
 やはり余計な詮索はすべきではないと千里は思った。先ほどの発言は特になにも考えずに言ってしまったため間違いなく失言であり、失態である。どう言えば丸く収まるか、思考を回す。

「余計なことを、すみません。あまり根を詰めすぎない方がいいのではないかと思っただけです」

 あまりうまい言い訳とは思えなかったが、千里はマグカップから視線を上げて呟いた。なんとなくシーザーと目を合わせることに対して気まずさを感じていたが、そんなことも言っていられない。誤魔化すようにココアを一口飲む。冷めかけたココアはやはり甘い。

「そうだな、千里の言う通りかもしれない。もう少し早く寝るように気を付けるとしよう。――心配してくれてありがとう」

 向けられる笑みに対して千里は視線を宙に彷徨わせる。やはり気まずい。他人は他人だと割り切るべきだとわかっているはずなのに、むず痒くてどうしようもない。自業自得なのだから仕方ないのだが。空になったマグカップをテーブルに置いた。キリキリと小さく義手が悲鳴を上げる。
 千里の心中を知らないシーザーは年甲斐もなく浮かれている。特別にもう一杯ミルクたっぷりのココアを作ってやろうと思うほどに。千里との距離がほんの少しだけ近くなった気がした。五十年前から今現在にかけてようやく一歩程度縮まっただけだが、それでも驚くほどに大きな一歩だ。今夜は気持ち良く眠れそうだと思ってしまうほどに、満ち足りた気分にシーザーの顔は再度緩む。
 自身のデミタスカップと千里のマグカップを持ってシーザーは立ち上がった。食後は一杯だけと決めているが今夜だけは特別だ。