あの者たちのせいで悲しむな

 結局店を出るまでシーザーと店員の自慢は続いた。時計を見れば入店してから軽く一時間は過ぎている。チーズとオイルサーディンをおまけしてもらえたことを考えてみれば決して無意味な時間ではなかったのだろうが、有益な時間だったとも言いがたい。

「本当にすまなかった。こんなに時間を食う予定じゃあなかったんだ」

 謝るくらいならば最初からしなければいいのにと千里は思うのだが、どうもそう単純なものではないらしい。謝るシーザーはどこか楽しそうでもあったからだ。千里の反応を窺っているようで、叱られることを恐れて母親の顔色を伺う子供というより、いたずらっ子のそれによく似ている。呆れるしかない。
 待たせてしまったお詫びだとシーザーは他の買い物を後回しにして千里の誕生日プレゼントを買いに行こうと言い出す。先日欲しいものを考えておいてくれとは言われていたが千里はなにも考えていなかった。特に欲しいものはない。必要なものだってノートだとかペンだとかわざわざ買ってもらうほどのものでもなかったため、結果、回答はなにもいらないとしか言いようがなかった。遠慮しなくていいと言われるものの、ないものはないのだから仕方がない。

「千里は本当に物欲がないな。毎年どうしていたのか教えてもらいたいくらいだ」

 シーザーが千里を見下ろして言う。昨年の誕生日はエジプトへ向かう道中で迎えた。半世紀前に飛ばされた時にもあちらでこの時期を過ごしたが、千里は自分から誕生日がいつかなど言わないためシーザーは知らないままだった。今年になってようやく彼女の誕生日を知ったことになる。チャンスをみすみす逃していたことに気が付いて後悔しないはずがない。祝えなかった分も含めてきっちり祝おうと考えているシーザーは律儀である。
 苦笑を浮かべるシーザーを視界の端に映しながら千里は過去を思い出す。日本にいた頃は両親によって盛大に祝われていたが、純粋に彼女を祝うためではなかったと当時から理解していた。誕生日もクリスマスも外部からたくさんの客が呼ばれ、両親はコネクション作りに余念がなかったからだ。幼い千里はいつも派手なドレスを着て椅子に座っていただけである。
 祖父母と共に暮らすようになってからは誕生日はいつもより豪華な食事くらいであったし、クリスマスはマフラーや手袋などをもらっていたような気がする。現に日常、義手を隠すためにしている手袋は昨年のクリスマスに祖母から送られたものだった。クリスマスも誕生日も非常に簡素ではあったが日本にいた時は酷く辟易していたイベントだったため、そのくらいがちょうどよかった。

「そうだな……なら少し贅沢なディナーと洒落込むのはどうだろうか。千里も食事くらいなら問題ないだろう?」

 名案だとシーザーの表情が告げている。確かに食事くらいならば千里も特に異論はない。しかしそれがトラットリア程度の店ならばいいのだが、少し値が張る、いわゆるリストランテであれば問題が生じる。その類の店はだいたいドレスコードがある。カジュアルな服装では断られることは間違いない。だからと言って千里はリストランテに行けるような服を持っていない。

「知り合いがやってるいいリストランテがあるんだ。味は保証するぞ」
「ですが、ドレスコードがあるのなら――」
「ああ、そうか。ならクリスマスプレゼントはきみの服にしよう。うん、それがいい」

 どこからどこまでが思い付きで、また計画していたのか。予定調和と言うべきか、千里がなにかを言う前にすべて丸く収まってしまう。どこにも齟齬はない。
 早速買いに行こうとシーザーは千里の手を引くも、すぐに彼女に止められた。灰色の隻眼がシーザーを見上る。瞳にはほんのわずかな逡巡と躊躇が浮かべられていた。なにか問題があっただろうかとシーザーは考えを巡らせながら問いかける。

「どうした? そんな凄いドレスを買うわけじゃあない。千里にぴったりのものを見立てるから安心してくれ」
「いえ……」

 あまり腕を出したくないのですが。簡単に周囲の雑音に巻き込まれてしまいそうな呟きだった。ばつが悪そうにそらされ、伏せられる瞳。縁取る睫毛がわずかに震えた。
 シーザーはそこで初めて彼女が自身の義肢について気にしているのだと知った。完全に無関心ではないだろうとは思っていたが、コンプレックスに感じるほどに、またそれに近い程度の認識でいるとは思いもよらなかったのである。
 確かに千里は四六時中長袖であり、手袋をしている。食事時だって決して外さない。人の目にさらされて不快な思いをしたくないのか、他人に気を使わせたくないのか。真意はわからずとも大衆の前さらされることを望んでいないことは間違いない。

「ならあまり肌を出さないものを選ぼう。それに最後に選ぶのはきみなのだから心配しなくていい」

 にやけそうになる表情を引き締める。その代わり千里の頭を撫でて溢れ出る感情を発散させた。
 なにが嬉しかったと言えば千里が自身のコンプレックスを話したことだ。限界の果てのきわまで追い詰められても弱音一つ吐かない彼女が劣等感をこうもはっきり見せたことが重要なのである。それだけシーザーに心を開いていると解釈でき、また気を許しているとも言えた。いつまでたっても一歩引いた場所にいる千里であったが、その実もっとも彼女と距離が近かったのがシーザーだったのである。
 一方で千里は考えることをほぼ放棄していた。バール程度の店でいいと言ったところで遠慮と取られてしまうだろうし、必死に抵抗するのも面倒だ。シーザーが満足するならば好きにさせたほうが無難である。対処法もすでに覚えていた。

「あまり張り切らないでください。あなたへのクリスマスプレゼントに困ってしまう」
「ほう、ならば今年のクリスマスは期待するとしようか」
「――あなたの欲しいものを教えていただければ」
「うんうん、そうかそうか。だったらじっくり考えなくっちゃあいけないな」

 なにかを企んでいるようなシーザーの表情を目にして千里は呆れるしかなかった。突拍子もないことを要求してきたら断るつもりでいるが、おそらくシーザーはそんな無茶は言ってこないだろう。だがぎりぎり千里にできる範囲を要求してくる可能性はある。しかしこんなにも悪戯めいた人だっただろうか。
 気付けば平穏に馴染んでいた。命のやり取りをしていた日々が千里の中で完全に過去のものとなっている。緊張感のない腑抜けた日常が常となってしまっているのだから、人間の適応力とは恐ろしいものだ。その上、シーザーに対する戸惑いや負い目なども薄れてしまっている。千里の中でシーザーという一人の男の存在が当たり前のものになった証拠だ。もはや異質ではない。違和感なく千里の中に溶け込んでしまっている。

「千里、迷惑だったら遠慮なく言ってくれ。きみはなんでも許してくれるから、調子に乗ってしまいそうだ」

 先ほどとは打って変わって困ったような表情。ゆるりと浮かべられる笑みは心遣いか気遣いか。
 ああ駄目だ。千里は認めざるを得なかった。完全に絆されてしまっている。目の前の男の存在を受け入れてしまっている。気付かないうちに許容してしまっている。明確に引いたはずのラインの内側に踏み込まれてしまっている。
 それまで千里の世界には祖父母しかいなかった。かつて旅路を共にした男たちは一時の存在にすぎなかった。復讐という明確な目的があったため交流を深める気はまったくなかったからだ。半世紀前だってそうだった。そのはずだった。図らずしも出会ってしまったシーザー・A・ツェペリという男の存在に囚われてしまったから、千里は彼に絡め取られた。一度ではなく、二度も。過去に留まらず現在も彼女を縛り上げて離さない。こうなってしまったら、もう二度と無関心ではいられない。

「ーーほどほどに、お願いします」

 しかし千里は気付いたそれから目をそらす。絆されたことがどうしたというのだ。そんなことのためにイタリアへ渡ったわけではない。情が移れば脆くなる。盲目になれば冷静に合理的な判断が下せなくなる。一喜一憂していられるほど暇を持て余しているわけでもない。
 祖父母以外の、とりわけ血の繋がらない赤の他人に特別思い入れることを知らない千里がそれを理解できるはずがなかった。他人の感情を理解できても自身の感情はまったくと言っていいほどわからない。鈍感なのではなく、ただ単に知らないためである。知識がなければわからない。特別だと思ってしまうのは絆されてしまったから。彼女は結論付けてしまう。しかもそこで立ち止まってしまうから、結局千里はシーザーの感情に気がついても理解するまでに至らない。