誓約を売り飛ばすようなことをしてはいけない

 クリスマス休暇まであと数日と迫ったその日、シーザーは友人達と食事をしてくると夕方頃に出かけていった。最初は千里がいるからと断るつもりだったらしいのだが、たまにはいいのではないかと千里はシーザーに友人達との食事に行くよう勧めたためシーザーはそれに甘えたのである。もちろん彼女の夕食の準備は忘れない。
 千里はいつもより少し品数の多い夕食を取る。二人で食べても一人で食べても味は変わらないが、喋る人間がいないためいつもより早く食事は終わってしまう。一人ならばわざわざホットココアは飲まない。食後の勉強も当然一人だ。手早く洗い物を済ませて課題の消化に勤しむ。いつもならばおしゃべりなシーザーがいるために賑やかなのだが、今日は酷く静かである。テレビもラジオもつけないため、一層静寂が際立つ。聞こえるのは外の音ばかりである。勉強がはかどらないということはない。だが今までがあまりにも賑やかすぎたためか違和感が残る。
 課題が早々と片付いてしまえば、すべきことが終わればあとは寝るだけだ。シャワーを浴びて自室に戻る。無駄な時間など寸分もないのは千里らしいと言えよう。
 シーザーは早めに帰るとは言っていたが、別に自分を優先せずとも友人との付き合いも大切にしたほうがいいのではないかと千里は思った。当然自分のことは棚に上げている。
 最近買ったそう分厚くない本を半分ほど読み終えたころ、玄関からドアが開く音が聞こえた。千里はそれまでヘッドボードに預けていた体を起こす。先に寝なかった理由は些細なものだ。特に用事があるわけではないが寝る前の挨拶くらいはするつもりであった。
 足音は千里の部屋の前を通り過ぎてリビングへと向かっていった。しかしすぐに戻ってきた気配はドアの向こう側でぴたりと止まる。そして千里がベッドから降りるより先にドアが開いた。ハンガーに吊るされた丈の長いワンピースがわずかに揺れる。今度のディナーのために先日購ったものだ。一緒に買ったストールの緑が目に眩しい。
 ドアの向こう側には未だジャケットを着たままのシーザーが立っていた。マフラーも首に巻いたままである。彼がノックもなしに千里の部屋のドアを開けることはない。おそらく酔っているのだろう。彼にしては珍しいと千里は思った。

「おかえりなさい」

 しかしどこかシーザーの雰囲気がおかしい。なにかを言うわけではなく、つかつかとベッドに近付き遥か上から千里を見下ろす。目が座っている。また彼によって動いた室内の空気の中に異臭を感じ取った。それが煙草とアルコールの匂いなのだと千里は気付く。あまり馴染みのない匂いだ。表情には出ていないがやはり酔っているに違いない。
 しかしこんな姿を見せるなど本当に珍しい。千里も初めて見るほどなのだから、おそらくいつもは節制しているのだろうと思った。

「大丈夫ですか。水を用意しましょうか?」

 至極当然の反応を千里が示した途端、シーザーの目が細まった。片膝をベッドに乗せたと思いきや、千里に覆いかぶさる。いつも彼がつけている香水の香りはほとんどしなかった。代わりに酒気が強くなる。千里が驚くよりも早くシーザーは彼女の膝を割って体をねじ込み、彼女が持っていた本を奪い取って投げ捨てる。抵抗する間もなかった。両手首を掴んでベッドに押し付ければ千里の体は布団の上に叩きつけられた。スプリングが悲鳴をあげる。
 老いようともかつて死線を潜り抜けた戦士だったのだと思い出すには充分すぎた。単純な力の差だけでは勝ち目はない。酒と煙草の臭いが強くなった。間近に見えるシーザーの顔を見上げ千里は冷静に自身の置かれた状況を考える。きっと寝巻きや布団に臭いが移ってしまうだろうから明日洗濯しなければと千里は思う。いや、まずは彼を落ち着かせることが優先か。

「なにを考えているんだ?」

 意識の範疇に入れられていないと気が付いたのか、不機嫌な声が降ってくる。精悍な顔が近付いた。アルコールの匂いに千里の鼻が麻痺し始めていた。強い輝きを秘めた瞳が千里を捕らえる。男女の力差は歴然で、押さえつけられた手首はびくともしない。
 しかしこんなときでも千里の頭は理性的にものを考える。今更動揺などありえない。動揺できるほどに彼女の感性は豊かではなかった。

「退いてもらえますか」
「こんなときでも、きみはなにも思わないんだな」
「……あなたは酔っている。早く休んだほうがいい」
「そうじゃあない。きみはもっと周りの人間の気持ちに関心を持つべきだ」

 なにを言っても意味がないことは理解した。どうしたものかと千里は思案する。きっと正気に戻ったら酷く悔やむことになるだろう。シーザーはそういう男だ。酔いの勢いがあるとはいえ、一時の気の迷いで過ちを犯すのは哀れである。
 単純に考えるならば友人たちとの食事の場でなにかを言われたのだろう。柄にもなく酒に酔い、過ちを犯すほど軽率ではないと千里は知っている。突然の心変わりとしてもきっかけは必ずあるはずで、最初に思いつける原因はやはり彼の友人だ。なにを言われたのか当然千里が知る由もない。
 片手でも自由になればなんとかなるかもしれない。気絶させてしまおうかと千里は考えた。シーザーの呼吸のタイミングに合わせて正確な場所に拳を叩き込めば不可能ではないだろう。だがタイミングと場所を誤って嘔吐されては困ると思い留まった。顔面から吐瀉物を浴びたくはない。
 左腕に力を込める。義肢の強度は生身の人間のそれより何倍も頑丈であり、また力が強い。さらに言えば生命エネルギーを通さないため波紋も効かない。だが無駄な行為であったと千里はすぐに悟った。全体重をかけた理性に制御されない力が容易に彼女を押さえつける。
 顔が近付いた。黄金色の髪が千里の頬をくすぐる。嗅覚はすでに麻痺していた。男の体がのしかかる。千里が制止をかける前に鋭い痛みが首筋に走った。ちょうどあの忌々しい傷跡のある場所である。そのときの痛みと比べれば些細な痛みだが、吸血の感覚とわずかばかり似ていた。その感覚にいい思い出など決してない。この傷を付けた男に嫉妬してしまいそうだ。低い声がダイレクトに鼓膜を震わせる。
 やめてください。千里が静かに告げる。シーザーは顔を上げ、彼女を覗き込む。鼻の頭同士がぶつかりそうな距離だ。吐き出される息は生温かい。互いの瞳に互いが映った。

「嫌だと言ったら、どうする?」
「あなたは聞き分けの悪い子供ではないでしょう」
「おれも男だ。我慢の限界だってある」
「――どんな我慢かは知りませんが、仮にそうだとしたら、わたしはあなたを軽蔑する」
「軽蔑? したければ勝手にすればいい。おれも勝手にさせてもらう」

 灰色の隻眼が鋭く細められる。対して緑色の瞳に帯びる輝きが強さを増した。シーザーが本気だと理解するには容易すぎた。いや、そもそも冗談であればこんなことはしないだろう。
 きっと明日の朝酷く後悔していることだろうと頭の片隅で思いがながら千里はこの状況をどうすべきかと思考を巡らせる。圧倒的に不利であることは明らかだ。さすがに最悪の展開を想像できないほど千里も無垢ではない。
 気絶させるには距離が近すぎる。これならば頭突きをした方が早いだろう。とにかく一瞬でも怯ませることができれば。こんな時でも千里の頭は冷静を貫く。
 不意にシーザーの頭が落ちてきた。咄嗟に顔をそらして避けるも、彼の全身が千里の体にのしかかる。彼女の耳に聞こえてきたのは小さい穏やかな吐息。シーザーは眠ってしまっている。
 熟睡する大の男の下から抜け出すのはかなりの時間と労力を必要とした。ようやく抜け出して一息吐くも、衣服に移ってしまったアルコールとニコチンの匂いに辟易し、千里は再度シャワーを浴びることを選ぶ。さすがにこの匂いをまとったまま眠る気にはなれなかった。
 ベッドを占拠されてしまったからには今夜はソファーで寝るしかない。冬の夜は冷える。シーザーもジャケットを着たままとはいえ毛布もかけずに寝た結果、風邪を引かれるというのも困る。毛布は彼のベッドから持って来ればいいだろう。自分用に一枚くらい拝借しても文句を言われる筋合いはない。それに上着を着て毛布をかぶれば寒さくらいはしのげるだろう。砂漠で過ごした夜のことを思い出せばなんてことはない。
 やれやれだ。不本意ながらもあの男の口癖を思い出す。スタンドを発現させることすら思いつけなかった。